Lawnbowls

ある在野の文学研究者の行動記録。

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解題『ドリトル先生の郵便局』(19)──最後の大仕事
 ジュンガニーカ湖の主・ドロンコからノアの大洪水にまつわる秘話を聞いたドリトル先生は、リウマチに苦しむドロンコに安住の地を作るためファンティポ郵便局の長として最後の指示を鳥たちに与えます。

ジュンガニーカ湖に飛来する鳥の大群
ジュンガニーカ湖に飛来する鳥の大群
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドロンコの秘話は愛用の手帳1冊に収まりきらず、湖の周囲に自生しているシュロの葉をちぎって何束にもわたり書き付けなければならないほど長大なものでした。先生は全てを語り終えたドロンコをねぎらい、リウマチの薬を調合しますがドロンコが今後もこのまま水に浸かって生活するとリウマチが悪化するので、陸に上がって休息が取れるような場所を作るべきだと考えます。しかし、湖の周囲はほとんどが湿地帯なのでドロンコが巨体を休息させられそうな余裕は有りませんでした。
 先生はしばらく考え込み、チープサイドにスキマーへの伝言を頼みます。それは、先生はこの仕事を最後にファンティポ郵便局の職を辞してイギリスへ帰らなければならないので、今まで配達に協力してくれた多くの鳥たちに感謝すると共に最後の願いを聞いて小石や土をこのジュンガニーカ湖へ運んで着て欲しいというものでした。チープサイドはこの伝言を携えてファンティポ沖の無人島へ飛び、先生の最後の指示はスキマーを通じて無人島に集う鳥たちへ洩れなく伝えられました。
 やがて遠くから何千、何万羽という鳥の大群がジュンガニーカ湖の上空へ飛来して来ました。どの鳥も小石や土、砂を一つかみ携えて来て先生が乗って来た丸木舟の浮かぶ湖面へ正確に投げ落としました。スキマーの見立てでは、ドロンコが全身を水面から出して休息が取れる大きさの島を作るには3日ほどかかると言うことでしたが、計算通りに2日目を過ぎるとポチャ、ポチャという水没音が次第に小さくなり、3日芽の早朝には乾いた土や石がぶつかり合う音へ変わりました。そして、3日目の夜にとうとう新しい島の土台が出来上がりました。鳥たちは最後に草花の種やドングリの実を降らせて総仕上げを行い、遂に新しい島が完成したのです。
 ドロンコは、この島はシャルバの墓標だと言って顔をほころばせました。先生はリウマチが悪化したら鳥に教えてくれればまたイギリスから薬を送るからと言い、ジュンガニーカ湖を後にしました。

 この壮大な夢と希望に溢れるクライマックスは、ロフティングのこだわりが特に伝わって来る場面です。ずっと後に『秘密の湖』ではマシュツ王はアドルフ・ヒトラー、そしてシャルバはナチス・ドイツに仮託されることになるのですが、本作が刊行された1923年の11月にナチス党が台頭する契機となったミュンヘン一揆が起きています。この当時はまだヒトラーはバイエルン州を地盤とする一政党の党首というポジションだったのですが、この時点でヨーロッパ全体がヒトラー率いるナチス・ドイツの惨禍をこうむることをロフティングが予見していたのかどうかは、今では知る由もありません。

 先生はジュンガニーカ湖から戻るとファンティポ郵便局の長を辞し、今や一大貿易立国となったファンティポの人々に権限を引き渡しました。今後は鳥でなく、人力で郵便物を配達するのです。
 ココ王の治世はファンティポの歴史でも特に繁栄を極めた時代として後世の歴史書に語り継がれ、首都の中央広場にはファンティポの貿易立国化に多大な貢献をしたドリトル郵政大臣の木像が建てられました。水上郵便局は先生の一行がイギリスへの帰路へ就くと同時に閉鎖されましたが、ココ王は先生が去ってからも自ら屋形船へ通い、お茶が振る舞われた午後のひと時を懐かしんで鉢植えの花の世話をするのでした。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 21:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(18)──秘密の湖へ
 ドリトル先生がハーマッタン岩から戻って来て手紙の整理に当たっていると、泥で書き付けられた風変わりな手紙が出て来ました。先生は手紙を投函した太古の亀・ドロンコへ会いに行くため、アフリカ大陸の奥地にあると言う“秘密の湖”ジュンガニーカ湖を訪ねます。

ジュンガニーカ湖の主・ドロンコ
ジュンガニーカ湖の主・ドロンコ
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドロンコの手紙にはファンティポ郵便局でアホウドリのカタカタメが天気予報を行っている噂を聞いたこと、自分は旧約聖書の創世記に書かれたノアの大洪水の生き残りで方舟に乗ったこと、本当は自分から郵便局へ出向きたいがリウマチで遠くへ行けないことなどが書かれていました。しかし、手紙には住所が書かれていなかったのでドロンコを訪ねようにも手がかりは何もありません。
 数日後、巨大な水蛇が郵便局を訪ねてドロンコからの2通目の手紙を携えて来ました。その水蛇はドロンコと同じジュンガニーカ湖に住んでおり、先生が希望するならばジュンガニーカ湖までの道案内をすると言うので、先生はジップ・ダブダブ・トートー・チープサイドを連れて丸木舟でアフリカ大陸の奥地にあるジュンガニーカ湖を目指す冒険に出発しました。
 川を遡上することまる四日かけてようやくジュンガニーカ湖にたどり着くと、巨大な亀が一行を出迎えました。この亀こそが、太古の昔から“秘密の湖”ジュンガニーカ湖で生き永らえるドロンコなのです。

「ドロンコ」というのは「オシツオサレツ」と同様に井伏鱒二が和風の名前を当てたもので、原文では"Mudface"(マドフェイス)とされています。直訳すれば泥顔(でいがん)と言ったところでしょう。
 チープサイドはドロンコの第一印象を「クリミア戦争の老兵」に例えていますが、クリミア戦争は1853年から1856年の出来事なので本作の時代設定より十数年は先の出来事です。ここでもロフティングお得意の時代錯誤(アナクロニズム)が発揮されていますが、アメリカでストークスの廃業後に出版を継承したリッピンコット版では初版の"Crimean War"が"Old Indian War"、つまり英仏がアメリカ大陸のオハイオ植民地を巡って争ったフレンチ・インディアン戦争(1755 - 1763)に修正されています。
 ところで、ロフティングがここで敢えて時代錯誤を用いた「クリミア戦争の老兵」は、特定の人物をイメージしていると考えられます。それは恐らく祖父のジョン・トーマス(John Thomas Lofting, 1832 - 1915)でしょう。チープサイドの評で、従軍経験を語らせると「思い出話をさせたが最後、やめさせる訳には行かない」と言うあたりには、妙な迫真性が感じられます。

 ドロンコが言うには、このジュンガニーカ湖の底には太古の昔に世界中へ版図を拡げた独裁者・マシュツ王が君臨し、繁栄を極めたシャルバの都があるのだそうです。そのマシュツ王の帝国が創造主の怒りに触れて水没し、ドロンコはノアの方船に乗せられて生き残った際の物語は幾夜にも及ぶ長大なものでしたが──ここでは読者に対してその全容は語られず、後に第10巻『秘密の湖』で語られることになります。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(17)──ニャムニャム酋長の受難
 白ネズミの活躍でダホミーの侵攻を退けて危機を脱したニャムニャム酋長でしたが、娘婿のオボンボが反乱を煽ったりもう一つの強国・エレブブが攻めて来たりと相次ぐ受難に見舞われます。

村人に演説するオボンボ
村人に演説するオボンボ(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)


 ダホミーの侵攻が白ネズミ率いるネズミの大群に敗れて退却した翌朝、ドリトル先生はハーマッタン岩を訪れてヘラサギの親子に真珠を返し、ニャムニャム酋長の村へ戻りますが村には新たな問題が持ち上がっていました。ニャムニャム酋長の娘婿のオボンボは野心を抱いて村の人々に年老いた岳父が無能だから我々は貧困にあえいでいるのだと反乱を煽っていたのです。
 しかし、白ネズミがダホミーの侵攻を退けたことでニャムニャム酋長の統率力が再評価され、オボンボがいつものように広場で演説を始めると村の人々は口々に「シッシッ」とオボンボに演説をやめろと言う仕草を始め、遂には石や泥が投げつけられたのでオボンボはジャングルの奥へ逃亡してしまいました。
 騒ぎが収まると、先生はニャムニャム酋長を連れて再びハーマッタン岩を訪ねました。そして、岩の近海に住む鵜に「これから真珠の入った牡蠣が見つかったら村の人々が真珠を採れるように水揚げして欲しい」と要請し、ニャムニャム酋長にはここで1日2回、真珠が水揚げされることを説明します。真珠が採れるようになってからというもの、ニャムニャム酋長の村はそれまでの貧困を脱して市場が立ち並ぶ活気に溢れた村となり、近隣の国からも多くの商人が訪れて交易が盛んになりました。
 ところが、ダホミーと並んでニャムニャム酋長の村を脅かしていた隣の軍事大国・エレブブの首長(エミル)はハーマッタン岩で真珠が採れると聞きつけて大部隊を差し向けて村を制圧し、遂にニャムニャム酋長の領土は一区画も残らずエレブブに編入されることになってしまったのです。この事態に、オボンボは村からジャングルへ逃げ込んで来た村人を相手に「お前たちが年老いて無能な酋長と胡散臭い西洋人の戯言を真に受けたから村が侵略されたのだ」と辻説法を繰り返すのでした。

エレブブ国はダホミーと異なり架空の国家です。但し、君主の称号がエミル(Emir)であることから早くにイスラム教が普及した北ナイジェリアの部族がモデルになっていると考えられます。岩波書店の井伏訳では固有名詞扱いで「エミル王」、また角川つばさ文庫の河合訳では「総督」と訳されていますが、どちらも正確な訳とは言えません。"Emir"は中東の首長、例えばアラブ首長国連邦(United Arab Emirates)を構成する各国の長のようにイスラム教国の首長、古い呼び方では「土侯」のことです。「総督」は君主から任命される地方(特に植民地)の長官が任命される役職ですが、このエミルが宗主国の君主から君主の名代として任命された総督であるとは考えにくいでしょう。

 エレブブ国のエミルは先生とニャムニャム酋長を捕らえて投獄し、ジップはエミルの足に噛み付いたので鎖に繋がれてしまいます。旧ニャムニャム領だったハーマッタン岩は「エレブブ国真珠採取場」と改称されてしまいました。
 先生がエレブブの監獄に入れられて真っ先に閉口したのは、窓が無いことでした。先生の上着のポケットに隠れていた白ネズミがロープを噛み切って先生の拘束を解くと、すぐさま先生は白ネズミに監獄のネズミ穴から外に出て難を逃れたダブダブに伝言をするよう頼みました。白ネズミから先生の伝言を聞いたダブダブはすぐにハーマッタン岩へ飛んで、鵜に「もうすぐエレブブの兵士が来るので真珠の水揚げは中止」と指示を伝えました。ダブダブが伝言をする前に水揚げされた牡蠣には安物の真珠しか入っておらず、伝言の後には鵜が一斉に真珠の入った牡蠣を海へ戻したのでエレブブの兵士は真珠を持ち帰ることが出来なくなってしまいました。
 兵士から真珠が採れないことを報告されたエミルは激怒し、監獄に押しかけて先生を激しく罵倒しました。これに対し、先生も自分の行いを恥じるよう激しい口調でエミルを攻撃し、エレブブの思い通りに真珠が採れることは絶対に無いと断言しました。エミルは先生が音を上げて真珠を採る方法を教えるまで水も食糧も一切与えないと通告し、監獄を後にします。しかし、ネズミ穴から抜け出した白ネズミがダブダブに頼んで食糧や水を入れてゴム栓をしたクルミを用意してもらい、それを獄中へ運んだので先生はいつでも必要な時に水も食糧も口にすることが出来ましたし、白ネズミは石鹸屑も運んで来たのでひげ剃りも出来ました。
 10日後、そろそろ哀れな西洋人が餓死した頃だろうと思いエミルが再び監獄を訪れると、先生は至って健康でひげも綺麗に剃っていたのでエミルは「この西洋人は得体の知れない妖術を使っているに違いない」と空恐ろしくなりました。エミルは先生の目を見ないようにしながら「ハーマッタン岩から撤退するのでこの国から出て行って欲しい」と懇願しますが、先生は監獄に窓を取り付けることとニャムニャム酋長を解放しハーマッタン岩を含む掠奪した全ての土地を返還することを条件提示します。弱りきったエミルは全ての条件を受け入れてその日の内に先生とニャムニャム酋長を解放し、村から撤退したのでした。
 こうして、ニャムニャム酋長の村はダホミーとエレブブの脅威から解放されハーマッタン岩での真珠採りも再開されることになりました。先生はニャムニャム酋長からお礼として最高級の真珠を贈られますが、先生はガブガブが食べてしまった芽キャベツの弁償をする為にその場で手紙を書いて真珠をスキマーに渡し、リンカンシャー州の農家へ送ってしまいました。
 その光景を見て、いつも大金を手にしてはすぐに使い切ってしまう先生の金銭感覚に悩まされるダブダブは深いため息を吐き、イギリスへ帰ったらまたオシツオサレツを連れてサーカス巡業に出なければならないと言いましたが、真珠を手放す原因を作ったガブガブは至って楽天的でした。
「あぶく銭は、もたないもんさ……あんまり心配しなさんな。ぼくは、お金持になったって、それほどおもしろいとは思わないよ。お金持というのは、とても不自然なことをしなきゃならないものね。」

(訳・井伏鱒二)
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(16)──ハーマッタン岩の真珠
 ファンティポ郵便局は今や当初の目標であった正常化からさらなる発展の段階に入り、国際郵便制度の確立で貿易国家としての道を歩み始めました。そんなある日、ファンティポの近郊にあるハーマッタン岩に住むヘラサギから郵便局へ真珠が送られて来ます。

ネズミの大群に敗れたダホミーの女兵士
ネズミの大群に敗れたダホミーの女兵士
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ココ王はイギリスから新しい自転車を取り寄せてそれまで乗っていた自転車を弟のウォラボラ王子に譲りました。ガブガブが採れたての芽キャベツをイギリスから取り寄せた数日後、リンカンシャー州の農家から先生宛に「いつもよく当たる天気予報をありがとうございます。ところで収穫予定だった芽キャベツが綺麗さっぱり無くなっていたのですがどうすれば良いのでしょう?」と言う手紙が届きましたが、まさか本当のことを書いても信じてもらえるはずもないのでどうしたものかと考え込んでいたところに、別の小包が先生宛に届けられました。
 その小包はファンティポの近郊にあるハーマッタン岩に住むヘラサギから差し出されたもので、餌の牡蠣から光る石のような出て来たのでこれが何か教えて欲しいと言うことでした。その石のようなもの、つまり真珠は人間の間ではとても価値のあるものですが、鳥にとっては食べられない牡蠣に入っている邪魔な物でしかありません。先生はすぐに書留でヘラサギ宛に真珠を送り返し、この真珠が採れたハーマッタン岩を訪ねてみたいと思いココ王に相談しました。
 ココ王の旧友であるニャムニャム酋長が治める村はとても貧しく、庭で飼われているニワトリも痩せこけていました。周辺の強国から好き勝手に土地を略奪され、開墾も困難な痩せこけた土地しか残っていないのです。そこへ、スキマーが大変な知らせを持って来ました。先生が発送した書留の配達を担当したツグミが荷物を紛失したと言うのです。先生は当初、ココ王から噂に聞いていたアフリカ近海に出没する真珠強盗のジャック・ウィルキンスの反抗を疑いますがウィルキンスにあと一歩のところで逃げられた直後、真犯人はリスだとわかりました。数日前にツグミの大群が芽キャベツを運んでいるのを目撃したリスがツグミの荷物を横取りすれば芽キャベツが食べられるに違いないと思って休憩中のツグミが木の枝に置いた荷物を盗んだのです。結局、箱の中身は食べられそうもない光る石のようなものしか入っていなかったので、郵便局へ返すことにしたのでした。
 先生は改めてハーマッタン岩へ出向き、ヘラサギの親子に真珠を自分の手で返すことにしました。その日の晩、ニャムニャム酋長の村を脅かす強国の一つ・ダホミーが村を襲撃します。ダホミーの女兵士は今までやって来たように好き放題の掠奪を仕掛けて来ましたが、白ネズミが先生に「女だったら間違いなくネズミを怖がるはずですから、このあたりのネズミを集めて来ましょう」と提案します。やがて、白ネズミの号令で集まったネズミの大群が次々とダホミーの女兵士の腰にかじり付き、兵士たちは奇声を上げてジャングルの奥へ逃げ帰ってしまいました。これが、周囲の国々に恐れられていたダホミーの女兵士の最初の敗北だったのです。

ファンティポは架空の国家ですが、ダホミーは17世紀から19世紀まで現在のベナン共和国の領域に実在した王国です。ダホミーの社会は伝統的に女性優位の価値観で形成されており、軍隊は全て女性で構成され市場の値決めも女性が行っていました。本作の時代設定である1830年代にはゲゾ王の治世で周辺の国に戦争を仕掛けて捕虜を新大陸に売り飛ばす奴隷貿易により巨万の富を築いていましたが、19世紀末にはフランス軍に敗れて王朝は滅亡し、植民地となった後の1960年にベナンとして独立しています。
 もう一つ、動物が同じ種族を呼び集めて話し合いが通じない相手に実力行使して撤退に追い込むという描写は前巻『航海記』でポリネシアが黒オウムの大群を率いてバグ・ジャグデラグ族の耳たぶを噛みちぎった時と同じパターンです。戦争の無益さを身を以て体験し平和を愛する心を人一倍、強く持ち続けたロフティングですが話し合いが通じない相手を出来るだけ平和裏に実力行使で追い払うというパターンを繰り返し用いていることには、現実の戦争に対する世知辛さを知る身がそうさせたのかと思わずにはいられません。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(15)──ジップとモーランド
 ドリトル先生、ガブガブ、ダブダブ、白ネズミに続いて5日目の晩はジップが18世紀末から19世紀初頭にイギリスを代表する画家として活躍したジョージ・モーランド(George Morland, 1763 - 1804)と再開した時のお話をします。

ジップに指示を出すジョージ・モーランド
ジップに指示を出すジョージ・モーランド
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 それはジップが先生と出会うよりも以前のことでした。ある町で仲良くなった犬の主人は片足を失った大道絵描きだったのですが、石板にチョークで描いたその絵はお粗末な代物で1日に1枚売れるかどうかだったので、主人も犬もとても貧乏暮らしをしていました。見かねたジップはその犬と共同で「骨貸し屋」をやらないかと持ちかけます。そして鶏の骨や豚の骨、羊の骨に最高級の牛の骨まで様々な骨を集めて主人が質入れ出来そうな物と交換に骨を時間貸しする「骨貸し屋」が開業すると町中の犬が傘やブラシを持って行列を作り、大繁盛しました。ところが、あるお金持ちに飼われている猟犬が黄金に輝く懐中時計をくわえて「これと豚の骨と交換して欲しい」と言ったものだから町中が大騒ぎになり、猟犬やその他の飼い犬の主人たちは激怒してジップたちが集めた骨を全て取り上げ、集まっていた犬を追い払ったので骨貸し屋は店じまいすることになってしまいました。
 それでも、大同絵描きは飼い犬が持って来た質入れ品をお金に換えることが出来たのでしばらくはなんとかなりそうだと安堵した矢先、ジップは近く王子(ウィリアム4世かハノーファー王エルンスト・アウグストか)の肖像を描く予定だと言うジョージ・モーランドと再開します。

モーランドは17世紀後半から18世紀初頭のイギリスを代表する風景画家で、日本ではそれほど知名度は高くありませんがイギリスでは「動物を描かせたら右に出る者はいない」と言われるほどの名手で、特に牛や馬の生き生きとした描写に定評があります。
 ジップは1802年の秋にモーランドと初めて出会い、この時に再開したと述べていますが史実では1804年に亡くなったモーランドは晩年に浪費癖がたたって荒んだ生活を送り、一時期は債務者監獄に収容されていたと言われているので、王子の肖像画を描く栄誉とは対極に在ったことになります。
 また、ジップも1802年にモーランドと出会った時に1歳だったとしても本作の時代設定である1830年代後半には30歳を過ぎており、時系列上の最終巻『秘密の湖』でもなお健在なので40年以上も生きている超長寿犬ということになります。参考までに犬の寿命のギネス世界記録はオーストラリアのブルーイ号で、29歳5ヶ月とされています。

モーランドは水桶の横に寝そべる犬の絵を描きたかったのですが、自分の飼い犬・ブチ(Spot)が全く言うことを聞いてくれないのでかなりいら立っていました。そこでジップと再会したので駄目もとでジップに指示を出すと、ジップはモーランドの指示通りに水桶の横でポーズを取って見事にモデルを勤め上げました。その絵は「農家の夕べ」と命名され、ロンドンの国立画廊に展示されているとジップは自慢気に語ります(残念ながら実在の絵ではないようです)。
 モデルの仕事を終えると、ジップは急に大声で吠え立てて走り出し、モーランドを大道絵描きの所へ連れて行きます。モーランドは大道絵描きの余りにも下手な絵を見て「これでは犬が騒ぐのも当然だ」と面食らいますが、それで終わらないのが一流の芸術家たる所以で大道絵描きに話しかけて石板に描かれた下手は猫の絵を消してその上に今にも飛び出しそうなぐらい精緻なタッチで猫がミルクを飲んでいる絵を描きました。モーランドが夢中で大道絵を描いていると次第に町の人が集まって来て、町長がこの絵を買いたいと言い出しました。大道絵描きは最初、1枚6ペンスで売ろうとしますがモーランドは「20ギニー(21シリング=20ポンド+1シリング)」を提示し、それでもモーランドの描いた絵は飛ぶように売れたので大道絵描きは一生、遊んで暮らせるぐらいの巨万の富を築いたのでした。

 この後、トートーとオシツオサレツもそれぞれの興味深い体験談を披露し、雑誌『北極マンスリー』の人気投票企画は娯楽の少ない北極の動物たちの間で好評を博したのでした。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 21:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(14)──魔法のキュウリ
 2日目の晩は、豚のガブガブがお話をすることになりました。ジップやダブダブやトートーはガブガブの経験不足や「どの食べ物がおいしい」とかそんな話しかしないに決まっていると反対したのですが、先生はガブガブをかばって話をさせることにします。とは言え、まだ子豚で先生や他の動物たちのように自身の体験談を多く持たないガブガブは、代わりに豚の間に伝わる「魔法のキュウリ」と呼ばれるおとぎ話を披露することにしたのでした。

子豚を可愛がる王妃
子豚を可愛がる王妃
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 昔々、子豚が父親と一緒に森へトリュフ(西洋松露)を掘りに出かけると、子豚がトリュフを掘った穴から何やら話し声が聞こえて来ました。父親は魔法やその手の迷信が嫌いだったので、子豚を連れてすぐにその場を離れました。その日の晩、両親が寝静まった所で子豚は自分が掘った穴の場所まで出かけて行き、一心不乱に穴を掘り始めると地面が割れて子豚は地下へ転げ落ちていったのでした。
 子豚が転落した場所は、スープのどんぶりでした。地下に住み、1日の半分は新しい料理を創作して残りの半分はその料理を食べる料理番小人(Cook Goblins)が宴会を開いていたのです。子豚もごちそうに預かることになりますが、そこへ料理番小人と敵対する毒キノコの精(Toadstool Sprites)が攻めて来ました。子豚は料理番小人に加勢して戦いますが、いくら子豚と言っても毒キノコの精より2倍ぐらい大きいので形勢不利と見たキノコの精は散り散りになって逃げ出しました。
 子豚と料理番小人の楽しい宴会は夜通し続きましたが、子豚は両親が心配するといけないので夜明けまでに帰りたいと言いました。料理番小人は子豚との別れを惜しみ、お礼に一かけらでも地面に埋めて好きな野菜の名前を叫ぶと一面にその野菜が生えて来る不思議な魔法のキュウリ(Magic Cucumber)を贈呈しました。
 数日後、子豚が住んでいる国の隣国が戦争を仕掛けて来たので国民や家畜は全て城内へ退避するようお触れが出ました。子豚と両親も豚小屋を後にしてお城の庭で飼われることになりますが、アイルランドから嫁いで来たこの国の王妃様は子豚が大層お気に召し、子豚にアイルランドの象徴である緑色のリボンを首に巻きペットとして飼うようになったのでした。王様は、王妃様が子豚を可愛がる様子を見てとても嫌そうな顔をしていました。
 4週間が経って隣国の兵糧攻めが続いてお城の食料はすっかり底を尽き、王様は王妃様に子豚をソーセージの原料として差し出すよう命じます。王妃様は大層悲しんで子豚の命乞いをしましたが、聞き入れられません。子豚は今こそ魔法のキュウリを使う時が来たと確信し、キュウリのかけらを庭に埋めて叫びます。

「パースニップ!」

 すると、またたく間にパースニップ(白人参)が城内の庭中を埋め尽くすように生えて来て、飢えていた兵士は栄養満点のパースニップを食べて元気を取り戻し城の外を包囲していた敵軍をあっという間に蹴散らし退却させてしまいました。
 こうして、国に平和が戻ったので王様は王妃様が子豚をペットとして飼うことを許しました。魔法のキュウリを埋めていた場所には宝石を散りばめた豚小屋が建てられ、子豚はいつまでもしあわせに暮らしたのでした。

 南條竹則氏の『ドリトル先生の世界』でも言及されていますが、この話に登場する王妃がアイルランド系というのは豚がアイルランドで伝統的に家畜として重用され、また国民に愛されて来た経緯を表していると読めます。南條氏はこの王妃のモデルをヒューの母親でダブリン出身のエリザベスではないかと見ていますが、筆者はむしろヒューの祖母でティペラリー出身のメアリー・アンではないかと見ています。ヒューが5歳の頃、三兄のエリックと共にイングランド南部のボーンマスに住む祖父のジョン・トーマス宅に預けられていたことは以前にも紹介しましたが「王が豚を可愛がる王妃を見て嫌そうな顔をした」という描写は、国教会信徒であったジョン・トーマスとカトリック信徒でヒューの父であるジョン・ブライアンら子供たちにもカトリックの洗礼を受けさせたメアリー・アンの関係を象徴しているように思えてならないのです。

次に、ガブガブの大好物でもあり魔法のキュウリを使って子豚が生やしたパースニップ(parsnip)は、日本では余り馴染みの無い野菜ですが成城石井などのスーパーでもオランダ原産のものを扱っているので井伏鱒二が「オランダボウフウ」と訳した60年前に比べると日本でも現物を目にする機会は多少、増えているのではないかと思います。もっと詳しく知りたい方には下記のようなサイトも。

パースニップ総合情報サイト Parsnipper

最後に、子豚に魔法のキュウリを贈呈した料理番小人(Cook Goblins)はロフティングの他作品『おかゆ詩集 Porridge Poetry』にも登場するので、同作品の紹介でも改めて取り上げたいと思います。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 22:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(13)──患者のストライキ
『北極マンスリー』創刊に当たり、ドリトル先生とその家族である動物たちが順番に話をして誰の話が一番面白かったかを読者に投票してもらうことになりました。最初の晩は、ドリトル先生のお話「患者のストライキ」です。
 なお、第3部で披露される先生と動物たちのお話は全部で7編あるのですが、この解説では3編を紹介します。残りのお話は実際に読んでみてください。

若き日のドリトル先生とキスビー卿
若き日のドリトル先生とキスビー卿
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)


 最初の晩は、ドリトル先生がお話しをすることになりました。先生がどの話をしようかと考え込むと、トートーがポケットに入っているものをテーブルの上に出すよう先生にアドバイスし、その中から出て来た古い体温計にまつわる「患者のストライキ」というお話をすることに決まりました。
 先生が大学を卒業して開業医になったばかりの頃、新しい体温計を買ってその体温計が正常に動作するかどうか確かめたかったのですが先生は至って健康で風邪を引くことも無く、また新米医師の許を訪れる患者もいなかったので体温計を使う機会がありませんでした。そこへ、友人のコーネリアス・Q・フィップス医学博士(Doctor Cornelius Q. Phipps)から「サナトリウムを共同で開業しないか」と持ちかけられます。
 2人が開業したサナトリウムには多くの患者が詰めかけ、先生が買った体温計も入院患者の体温を計るのに大活躍しました。ところが、開業してからしばらく月日が経つと先生はあることに気付きます。サナトリウムへ入院した患者が、一向に快復して退院する気配が無いのです。
 先生はフィップスに患者が退院しないのはどうしてだろうと質問しましたが、その質問に対するフィップスの返答は、驚くべきものでした。
「ドリトル君……出てゆかせるというのか?──とんでもない! かれらに出てゆかれては、われわれはこまる。患者はここにいて、いつまでも金をはらってくれるにかぎるのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 フィップスの回答は医者の本分に反すると感じた先生はすぐさま反論し、大喧嘩になりました。そして、先生がフィップスの部屋を出たところで車椅子に乗った入院患者が通りかかります。その患者、ティモジー・キスビー卿(Sir Timothy Quisby)は入院患者の中でも最も丁重に扱われていた要人でしたが、かねてから先生はキスビー卿の症状が何かわからずじまいで詐病を疑っていました。キスビー卿が先生に「熱を計ってくれないか」と求めると、怒り心頭に達していた先生は「勝手にしろ」と捨て台詞を浴びせて立ち去ってしまいます。この対応に激怒したキスビー卿はすぐさまフィップスを呼びつけ、先生に自分への非礼を詫びるよう要求します。しかし、先生が頑として謝らないと言うとキスビー卿は車椅子からシャキッと立ち上がり、補聴器を振り回してサナトリウム中に自分が受けた辱めを宣伝すると共に「患者の権利のためにストライキを行うべし」と演説して回りました。
 他の患者たちはキスビー卿に従い、夕食後にお茶を飲むことを拒否しました。フィップスは患者たちに医師の指導に従うよう求めましたが、もはやどの患者も聞き入れません。めいめい食べてはいけないと言われていた物を食べ、食後の散歩を指示されていた患者は病室に籠り、外出を禁じられていた患者は夜遅くまで町中を走り回って大騒ぎしました。そして、就寝時刻を過ぎると一斉に湯たんぽを枕代わりにしてぶつけ合いを始め(原文は"having a pillow fight with their hot-water bottles". 井伏訳では「枕のぶつけっこ」とされている)、翌朝にはキスビー卿を始め全員が健康体になってサナトリウムを退院したのでした。
 先生は最後に、こう振り返ります。
「わしは成功者ではなかったかも知れん。──だが、それも、わしには、よくわからない。とにかく、わしは、サナトリウム事業をとび出たために、フィップスがサナトリウム事業にとび込むことによってなおしたよりも、ずっとたくさんの患者をなおしたからな。」

(訳・井伏鱒二)

 このエピソードは短く簡潔で、かつ寓話化されていますが色々と示唆に富んだ内容となっています。ロフティングが当時の流行だったアーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』やアガサ・クリスティの推理小説を愛読していたのは『サーカス』や『動物園』ないし『楽しい家』の「気絶した男」、そして番外編『ガブガブの本』の描写から察して間違い無いと見られますが、このエピソードもドイルが友人とイングランド南西部のプリマスで診療所を共同開設し、半年で喧嘩別れして閉鎖した実話を彷彿とさせます。ドイルとロフティングには「父親がイングランド人で母親がアイルランド人」という共通点があり、両者は一面識だに無いにしても「当代一の流行作家」と言う以上の親近感をロフティングがドイルに抱いていた可能性は、当然に考えられるところです。

 また、1996年に新潮選書で刊行された高田宏『生命のよろこび ドリトル先生にまなぶ』の第5章では「医療のビジネス化に対する警鐘」という観点よりこの「患者のストライキ」を取り上げています。



| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 20:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(12)──お天気博士
 ドリトル先生はスティヴン岬の異変を知らせたカモメから気象のことなら何でも知っているアホウドリ・カタカタメを紹介され、百発百中の天気予報を開始します。

気象学者の視察
気象学者の視察(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 アフリカ南部のアンゴラ沖合いに住む年老いたアホウドリのカタカタメ(One Eye)は──ウミワシ(Fish Eagle)と餌のヒラメを取り合って片目を負傷したので、そう呼ばれているのですが──世界中のあらゆる天気に精通している文字通りの“お天気博士”です。カモメからカタカタメの話を聞いた先生は是非ともカタカタメに会ってみたいと言い、2通の手紙を書いてカモメに預けました。翌日、カモメはアンゴラからカタカタメを連れて水上郵便局にやって来ました。鳥が観測する気象台を作りたいと言う先生のアイデアにカタカタメは二つ返事で賛成し、その日の夜遅くまで先生とカタカタメ、カモメ、ダブダブ、トートー、スキマー、チープサイドら鳥たちは気象台の立ち上げ準備の段取りを決める会議を続けたのでした。
 それから3週間もすると天気予報が始まり、ファンティポだけでなくイギリスの農家にもパドルビー支局を通じて気象台から正確な天気予報が提供されるようになりました。中には、わざわざロンドンまで出向いて国営気象台は予報を外してばかりだと抗議する農家もいたので気象学会はファンティポ気象台がどうしてそこまで高精度で予報を的中させられるのかの秘密を探るために会員の気象学者をファンティポへ派遣しましたが、鳥が絶えず飛び回っている以外には観測機器なども見当たらず、どうしてこんな貧相な設備でイギリスの国営気象台よりも正確な予報を出せるのかはわからずじまいだったので、政府に「ファンティポ気象台を主宰するドリトルとか言う男は汚い鳥の大群を飼っているだけのいかさま師だ」と報告したのでした。
 この頃には、それまで外国船が寄港することも稀だったファンティポ港からは商船が次々と出入りするようになり、ファンティポ王国は貿易立国としての道を歩み始めていました。ココ王は郵便局に多額の下賜金を援助し、先生はその下賜金で水上郵便局の屋形船を一回り大きく改造します。
 それと並行して動物文字の普及効果が現れ始め、次第に通信教育や娯楽にも活用されるようになったので郵便局で定期刊行物を作る構想が持ち上がりました。特に、夜の長い北極では娯楽が少ないので「医学的なアドバイスやエチケットだけでなく軽い読み物が欲しい」という要望がホッキョクグマやセイウチから多数、送られて来たので先生は新しい試みとして雑誌『北極マンスリー』を創刊することにします。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 20:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(11)──スティヴン岬灯台
 コロンブスを新大陸へ導いたキンイロカケスの末裔が西へ飛び立った3日後、ドリトル先生はカモメから「ファンティポ港の北にあるイギリス植民地の灯台が定時になっても点灯しない」と知らされ、ダブダブを連れて急いでスティヴン岬の灯台へ向かいます。

蝋燭に火を灯すドリトル先生
 蝋燭に火を灯すドリトル先生(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 スティヴン岬はファンティポ港から北へ20マイル(井伏訳では「約30キロ」と換算)の場所にあるイギリス植民地で、灯台が1基置かれていました。カモメから灯台の様子がおかしいと知らされた先生は異変の原因を確かめるべく、ダブダブを道案内に連れて丸木舟でスティヴン岬へ急行します。
 先生は直線距離で海路を突っ切って灯台を目指しますが、時を同じくして大型の商船が海岸に近づいていました。灯台の明かりが消えているので、このままでは岬にぶつかってしまうのは避けられません。カモメは少しでも時間を稼ぐために群れをなして操舵手の視界をさえぎり、船が座礁するのを食い止めようとしますが事情がわからない船員はホースを持ち出してカモメの群れに放水し、追い払おうとします。
 ようやく灯台にたどり着いた先生が鍵のかかった扉を壊して中に入ると、灯台守の男性が気を失って倒れていました。とにかく事故を防ぐために明かりを点灯するのが最優先なので、ダブダブは男性がマッチを持っているかどうかポケットを探ってみましたがマッチは見当たりません。その時、台所で飼われているカナリアが歌い始めたので先生とダブダブは真っ暗な会談を駆け降りてテーブルの上に置いてあったマッチを拾い、全速力で明かりを点灯します。カモメの妨害に遭っていた商船も灯台の明かりに気付き、急いで舵を切ったので最悪の事態は直前の所で回避されました。
 やがて灯台守の男性は意識を取り戻し、先生に事情を話しました。普段はこの男性と同僚のフレッドが交代で灯台守をしているのですが、今日はたまたまフレッドが近海へ牡蠣採りに出かけたところへ定時が近づいたので台所へマッチを取りに行き、誤って階段で足を滑らせて転倒し壁に頭を打ち付けて気絶してしまったのでした。
 幸い、男性の怪我は軽く翌朝に戻って来たフレッドと2人で先生にお礼を述べました。灯台守は2人ともロンドンの出身で、任期中は年1回の休み以外はずっと灯台にいるのでイギリスのニュースを聞きたいと希望したのですが先生も航海に出て時間が経っているので余り新しいニュースは持っていませんでした。そこへ、ロンドンっ子のチープサイドが飛んで来て最近のニュースを先生に一通り離して聞かせたので、先生がそのニュースを2人に聞かせると2人は大層喜び、またチープサイドもこの異国の地で2人が話すロンドンなまり(コックニー)が聞けたことに上機嫌そうでした。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 18:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(6)──発明家ジョン・ロフティング
『ドリトル先生』シリーズの作者、ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting, 1886 - 1947)の遠い先祖に当たり、現在もロンドンの道路にその名を残しているジョン・ロフティング(John Lofting, 1659-1742)は様々な発明でイギリス、ひいては世界の工業史に名を残しています。

ジョンが発明した消防車の実演図
ジョンが発明した消防車を使いロンドン大火塔の展望台から放水を実演している様子。
右下がジョンの肖像(大英博物館所蔵

 カルヴァン派が国教に定められ、カトリック禁止令が公布されたネーデルラント(現在のオランダ)からイギリスへ兄弟を連れて亡命したジョンは1688年にイギリスへ帰化し、ロンドン北部のイズリントンに工房を構えました。ただ、イギリスへの亡命に至った経緯に関わらずロフティング家がジョンから代々、敬虔なカトリック信徒だった訳ではないようでジョンの弟のヒドー・ロフティン(Hiddo Loftinck, 1662 - ? ※姓の綴りに注意)は1698年に国教会(アングリカン・チャーチ)へ改宗していますし、ヒューに近い世代でも祖父のジョン・トーマス(John Thomas Lofting, 1832 - 1915)は国教会の信徒でした。ジョン・トーマスはアイルランド出身のカトリック信徒であるメアリー・アン・オブライエン(Mary Ann O'Brien, 1830? - ?)と結婚し、メアリーが次男(ヒューの父)のジョン・ブライアン(John Brien Lofting, 1857 - 1933)ら7人の子供には国教会でなくカトリックの洗礼を受けさせたので、ロフティング家はこの代にカトリックへ復したと見た方が良さそうです。

 ジョンはイズリントンの工房で従来は牛革や青銅を用いた製品が中心だった裁縫用の指貫を丈夫な真鍮で作り、年間200万個を生産するヒット商品に育て上げます。需要の拡大に対応するためバッキンガムシャーへ新工場を建設して増産を進め、18世紀半ばには「ロフティング型指貫」はイギリス全土でその名を知られるようになっていました。
 また、ジョンの発明としてもう一つ有名なものがあります。それは、消防車です。ロンドンは1666年9月1日に発生したロンドン大火で市街の85%を焼失した痛い経験より、木造建築を禁止して煉瓦ないし石造りの建物を中心にするなどの防災対策を進めていました。それまでの消火活動は人力でポンプを運び、テムズ川から水を汲み上げて放水していましたがジョンはこの放水用ポンプに車輪を取り付け、移動を容易にするアイデアを思いついたのです。このエントリの図は大英博物館に所蔵されているジョンが発明した消防車の実演図で、ロンドン大火記念塔の展望台から放水する様子がジョンの肖像画と共に描かれています。ジョンが発明した消防車はイギリスから故国のオランダへも輸出され、画家としても知られる「オランダのダ・ヴィンチ」ことヤン・ファン・デル・ハイデン(Jan van der Heyden, 1637 - 1712)が最初からポンプにホースを取り付けて水勢で消火するタイプへ改良し、現在の消防車の基礎が出来上がりました。

 ジョンはイギリスへ帰化した翌1689年、ロンドンの聖ニコラス教会(この教会の宗派は国教会です)でヘスター・バッセ(Hester Basse, 1670 - 1709)と結婚します。へスターの兄、ジェレマイア(Jeremiah Basse, 1665 - 1725)は新大陸のジャージー植民地(現在のアメリカ合衆国ニュージャージー州)で総督を勤めた人物で、帰国後に義弟のジョンと共に造船会社を設立しました。しかし、ニューヨーク植民地の取引先へ納品した船が知事に押収され、第三者へ売却されたので知事に対して訴訟を起こし、勝訴判決が出る前の1700年3月に会社は破産してしまいます。
 最後に、家系について述べるとジョンの七男、サミュエル・ロフティング(Samuel Lofting, 1696 - 1779)がヒューの直系の先祖に当たります。サミュエルはイギリス海軍において大佐(Captain)にまで昇り詰めた海の男で、退役までに3隻の艦船で艦長を務めました。1741年には南氷洋で沈没事故に遭い、奇跡的に生還するなど波乱に満ちた人生を送った人物だったようです。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 17:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(5)──ロフティング・ロード
 もうすぐ開幕するロンドンオリンピックのマラソンコースにも入っているチープサイド通りの西端から、A1道をまっすぐ北上した場所にあるイズリントン区にはロフティング・ロード(Lofting Road)と呼ばれる道路があります。

 この道路の名前の由来になっている「ロフティング」はヒュー・ロフティングではなく、その遠い先祖であるジョン・ロフティング(John Lofting, 1659-1742)です。ジョンはネーデルラント連邦共和国、つまり現在のオランダ・アムステルダムの出身で機械工を営んでいました。
 15世紀から16世紀にかけてオランダはカトリック国のスペインに支配されていましたが、ネーデルラント連邦共和国として独立した際にスペイン色の一掃を企図してプロテスタントの一派であるカルヴァン派を国教に定め、カトリック禁止令を公布します。首都であるアムステルダムの商人や職人にはカトリック信徒が多かったのですが、スペイン時代のプロテスタント弾圧に対する反動からカトリックに対する弾圧が激化を極めたのでジョンは兄弟を連れてイギリスへ亡命したと見られています。

アムステルダムを追放されるジョン・ロフティング
アムステルダムを追放されるジョン・ロフティング
(パンフレット『ドリトル先生の出来るまで』より、
ヒュー・ロフティング画)

 ジョンはイギリスへ亡命し、ロンドン北部のイズリントンに工房を置きました。この工房に面した道が後年「ロフティング・ロード」と呼ばれるようになったのです。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
テレビアニメ『ドリトル先生物語』のDVD-BOX発売
 今日発売されたテレビアニメ『ドリトル先生物語』のDVD-BOX紹介記事をAニュースに投稿しました。

日米合作のテレビアニメ『ドリトル先生物語』のDVD-BOX発売



 BOX以外に1〜4巻の分売・レンタルもあります。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 20:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(10)──ドリトル先生のコロンブス観
 ドリトル先生はダホミー(現在のベナン)を経由して南米のベネズエラに向かうキンイロカケスから、1492年に新大陸を“発見”したクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus, 1451? - 1506)にまつわる逸話を聞かされます。

船員の反乱に遭うコロンブス
船員の反乱に遭うコロンブス(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 コロンブスにまつわるエピソードが語られる第2部3章では、次の水曜日を「7月18日」とする記述があります。1830年代で7月18日が水曜日の年は1832年1838年なので、本作の時代設定はヴィクトリア女王が即位した1837年の晩秋から1838年の後半ぐらいまでなのかも知れません。ただ、第2巻『航海記』は第1部が文中で「1839年」と明言されていますし、史実において世界最初の切手「ペニー・ブラック」が発行されたのは1840年です。しかし、1838年を逃すと次の7月18日が水曜日になる年は11年後の1849年で、ずいぶんと間が空いてしまいます。対して、1838年と仮定した場合でも『郵便局』と『航海記』の間に第4巻『サーカス』、第6巻『キャラバン』、第11巻『緑のカナリア』、そして最終巻『楽しい家』の3エピソードを挟むと言うのは日程的に窮屈感が否めません(この点も『サーカス』を『アフリカゆき』の直後と見て『郵便局』をその後と見る説における根拠の一つとなっています)。

 中南米方面への配達を担当するキンイロカケスは出発の直前、ふと振り返ってドリトル先生に「クリストファー・コロンブスという人物をご存知ですか」と尋ねました。先生が、そして先生でなくともこの人物を知らないはずがありません。そう、1492年に無謀と言われた大西洋横断を決行し、後にアメリカ大陸と呼ばれる“新大陸”へ到達した西洋人の探検家です。このカケスは「コロンブスが“新大陸”へ到達したのは自分の先祖が彼を導いたからに他なりません」と言い、コロンブスにまつわる逸話を語り始めました──そのカケスの先祖は、カリブ海のバミューダ諸島と南米のベネズエラを往来する群れのリーダーに選ばれ、バミューダに向かう途中で一隻の船に遭遇します。その船では船員たちが反乱を起こし、船長に「今すぐスペインへ引き返せ。さもなくば我々はあんたを殺してでも帰る」と要求していました。カケスはその船長の顔を一目見るなり、昔のことを思い出します。その船長──コロンブスは、まだ見習い船員だった頃に北大西洋上で強風に煽られて失速し船の甲板に不時着したカケスを介抱し、逃がしてくれた恩人だったのです。それから月日が経ち、コロンブスは「地球は丸く、ヨーロッパから西へ進めばインドへ行けるに違いない」と考え、スペイン王室の援助を取り付けて航海に出る計画を立てます。しかし、当時は未知の海域だった大西洋のさらに西へ好んで行きたがる船員がいなかったので、恩赦を与えられた服役囚が船員となりました。こうしてコロンブスの船はインドを目指して出発しますが、進めど進めど陸地は見えて来ません。次第に船員たちの間で疑心暗鬼が広がり、その疑念は船長であるコロンブスに向けられて反乱が起きたのです。
 そこで、カケスは仲間たちに呼びかけて何度も船の上を飛び回りました。船員たちは陸地の鳥であるカケスの姿に気付き「もしかすると船長の言っている通り、陸地が近いのかも知れない」と思って次々に武器を手放し、反乱は収束します。その数日後、船はカリブ海のワトリング島(現在のサン・サルバドル島)に到達し、船員たちはコロンブスは偉大な船長として口々に称賛したのでした──コロンブス自身は生涯、自分が到達した場所をインドだと誤認し続けていたのですが。
 カケスは最後に「もしコロンブスが船員に従ってスペインへ引き返すか、あのまま船員に殺されていたら“新大陸”は1492年には発見されなかったでしよう──もっと後には発見されていたかも知れませんが」と付け加え、西へ飛び立って行きました。

 このエピソードで、コロンブスは極めて情に満ちた好人物として描かれています。思えば前巻『航海記』でも先生はコロンブスが樽に封印して海へ沈めた日記帳の行方を気にしていました(結局、日記は「深い穴」へ沈んだままクモサル島が「深い穴」に蓋をしてしまったので伏線は回収されないまま終わってしまいましたが)。しかし、現代の感覚においては──特に、コロンブスがアメリカ大陸へ到達する以前から住んでいた人々にとっては、こうした人物評が屈辱的なものであることにもまた、目を向けなければならないでしょう。コロンブス自身、あるいはその部下たちはカリブ海の島々で島民から掠奪と殺戮を重ね、コロンブスの後にはアステカを滅ぼしたエルナン・コルテスやインカ帝国を滅ぼしたフランシスコ・ピサロらのコンキスタドールが続々とアメリカ大陸へやって来て、元から大陸に住んでいた人々──自分が到達した場所をインドと誤認したコロンブスに「インディオ」と呼ばれた人々の平穏な生活は、徹底的に破壊され尽くしたのです。
 本作が刊行された1920年代は、元から大陸に住んでいた人々のコロンブス来訪に端を発する苦難に満ちた歴史にはまだまだ目が向けられていなかった時代でした。アメリカ合衆国や中南米の国々、そしてスペインではコロンブスがサン・サルバドル島に上陸したとされる10月12日ないし10月の第2月曜日を「コロンブス・デー」ないし「民族の日」として祝日に指定していますが、アメリカではコロンブス・デーの祝賀行事に対して毎年、激しい抗議デモが繰り広げられています。
 ロフティング自身は晩年、特にヨーロッパ大陸の「旧弊」とアメリカ大陸の「自由」を対比したアメリカ礼讃思想へと傾斜して行くのですが、本作の執筆当時から彼が同時代の多くの西洋人と同様に、コロンブスを「アメリカ大陸を(当時の概念に従えば)“発見”した偉人」として肯定的に評価していたことは疑うべくもありません。後年に非難された『アフリカゆき』や『航海記』に比べると人種差別や植民地主義に対するアンチテーゼ的な思想が目立つ本作ですが、本シリーズが書かれた当時の時代認識や元からアメリカ大陸に住んでいた人々から見た歴史観についても理解を深めていただければ幸いです。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 17:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(9)──チープサイド
 ファンティポの国内郵便を正常化する為にドリトル先生が呼んだロンドンっ子のスズメ・チープサイド(Cheapside)は予想よりも早くファンティポに駆け付けます。チープサイドの采配で国際郵便に比べて立ち遅れていた国内郵便は驚くような速さで正常化しますが、喧嘩っ早いこのスズメは何度も騒動を起こすのが玉に瑕でした。

ロンドンっ子のスズメ・チープサイド
ロンドンっ子のスズメ・チープサイド
ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 前巻『航海記』では顔見世程度の登場だったチープサイドですが、この巻では縦横無尽に暴れ回って読者に強いインパクトを与えます。まず、その喋り。原文からコックニー(Cockney)、つまりロンドンの労働者階級に特有の強いなまりが強調されており、井伏鱒二はこれをチャキチャキの江戸っ子が使うべらんめえ口調に置き換えました。これがチープサイドの気が強くて喧嘩っ早い性格にはまることと来たら、もう!
 そして、チープサイドという名前も実に秀逸です。チープサイド通りというのはロンドン中心街、テムズ川の北を走る通りの名前で、まもなく開幕するロンドンオリンピックのマラソンコースにもこの通りが組み入れられています。



 チープサイドが巣を作っているのはこの通りの南側にあるセント・ポール大聖堂にある聖エドモント像の左耳とされていますが、残念ながら実在のセント・ポール大聖堂に聖エドモント像は無く、聖エドモントのステンドグラスならば存在すると言うことです。

 チープサイドが国内郵便の現場監督に就任するやいなや、日頃からロンドン中のスズメの群れを束ねる采配の冴えでファンティポの市街に住む小鳥たちに作業分担させて驚きの速度で正常化を進めて行きました。しかし、このスズメは──『航海記』で紫極楽鳥のミランダを中傷した時もそうでしたが──とにかく気が短く、何度も騒動を起こしてはドリトル先生を怒らせました。特にココ王が可愛がっている白孔雀が気に入らないようで、何度も挑発したり仲間のスズメと徒党を組んで尻尾の羽を引き抜いたりの狼藉を繰り返し、遂に堪忍袋の緒が切れた先生はチープサイドに首を言い渡したのでした。
 しかし、チープサイドが首になった途端にせっかく正常化した国内郵便はトラブルが多発する元の黙阿弥に戻ってしまいます。チープサイドの方も、何だかんだ言いながら先生が自分を必要としていることはわかっていたので、イギリスへ帰ってしまうことはなく数日が経つと何食わぬ顔で郵便局に戻って来ました。
 そして、チープサイドは郵便局に戻って来てからも依然として白孔雀とは反りが合わず、インク瓶を投げつけるなど乱暴な行動を繰り返しては月に1度は首になり、その度に国内郵便が乱れて協力が必要になった頃合を見計らって戻って来ると言うパターンを繰り返すのでした。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 22:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(8)──動物文字
 ファンティポ郵便局の再建作業で依然として残っている懸案が国内郵便の正常化でした。ドリトル先生は猫肉屋のマシュー・マグ宛に手紙を出し、イギリスから国内郵便正常化のための助っ人を呼ぶことにします。

動物文字の授業
動物文字の授業(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ファンティポ郵便局の国際郵便が開業し、無人島はいつしか「動物の楽園」と呼ばれるようになっていました。先生は足しげく水上郵便局から島に通い、島の動物や国際郵便の集配で島に集う渡り鳥を相手に動物文字の授業を開講します。文字を一番最初に覚えたのは島に住む猿たちで、次第に慣れて来ると猿たちは補助教員として他の動物に文字を教えるようになりました。

 こうして、国際郵便は人間も動物も利用可能な世界最高水準のサービスが実現したものの、ファンティポの国内郵便は依然として正常化の目処が立っていませんでした。スキマーらツバメは長距離を運ぶ国際郵便ならまだしも、市街地をきめ細かく回る国内郵便には適していないのです。そこで、先生は都市事情に詳しい鳥ならスズメだと言うことでロンドンっ子のチープサイドを助っ人に呼ぶことにします。
 先生は早速「イングランド スロップシャー州 沼のほとりのパドルビー マシュー・マグ様」宛てに手紙を書き(マシュー本人は字が読めませんが奥さんのテオドシアは読めます)、留守宅の様子を見るついでにロンドンからいつも庭へ飛んで来ているスズメに同封した手紙を渡して欲しい旨を書いて発送しました。

 ここで出て来るスロップシャー州(Slopshire)というのは架空の地名です。但し、綴りの似たシュロップシャー州(Shropshire)という地名はイングランド西部に実在します。シュロップシャー州はロフティング家の次兄、ジョン・ヘンリーの出身地で、ヒューにとっても全く馴染みの無い場所ではなかったと言えます。恐らく、実在するシュロップシャーと豚の餌にする野菜の粕汁(slop)を組み合わせたのが、ここで出て来るスロップシャーという地名の由来なのでしょう。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(7)──世界最速の国際郵便
 ドリトル先生は世界中の渡り鳥に協力を呼びかけ、遂に世界唯一・最速を誇るファンティポ郵便局の国際郵便事業が立ち上がります。

国際郵便事業開始のあいさつ
国際郵便事業開始のあいさつ(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 
 ドリトル先生はファンティポの国内郵便正常化作業と国際郵便の立ち上げ準備を並行して進め、スキマーの協力で世界中の渡り鳥から国際郵便事業への協力を取り付けることにします。その際、種の異なる鳥同士での意思疎通を容易にするためのサイン──むしろ「動物文字」と言うべきものを作ることも決めました。
 3日後、スキマーの指示でツバメたちが拡散した「ジョン・ドリトル先生が新たに国際郵便事業を立ち上げるに際し、鳥たちの協力を求めている」旨の知らせを受けて世界各地から様々な種類の鳥がファンティポ沖の無人島へ集いました。先生はシュロの葉を丸めてメガホン代わりにし、鳥たちに向かって「ファンティポ郵便局の国際郵便事業を今から開始する」と宣言しました。鳥たちは一斉にこの偉大な事業への協力を表明し、その鳴き声は対岸の町まで届いたのでファンティポの人々は「無人島で竜同士が喧嘩しているに違いない」と思ったそうです。
 先生は開会式を終えると早速、集まった鳥たちから普段の生活で使用している仲間同士のサインについて聞き取りを行い、それらのサインを基に「動物文字」を作り、ゆくゆくは配達に当たる鳥やその他の動物を対象に文字を教える授業を行うことも決まりました。
 翌日、先生がココ王に謁見し、無人島の沖合に水上郵便局を設置する為の屋形船を新造して欲しい旨を申し出たところ、ココ王は太后のたたりを恐れて面白くなさそうな顔をしました。先生は「正式に島を立ち入り禁止区域としていただければ、1ヶ月後にはファンティポの国際郵便は世界最高のサービス水準となることを保証します」と進言しますが、ココ王はまだ先生の言うことがにわかに信じがたいと言いたげな態度でした。数日後、まだ半信半疑のココ王は水上郵便局を訪れて先生にテストを一つ出します。
「今日まで、世界じゅうで取りあつかわれた外国郵便で、いちばん早いのは、なんであったか。」
「イギリス郵便局です……これは、ロンドンからカナダまで、十四日で手紙を運んだといって、自慢しています。」
「よろしい……わしは、ここに、アラバマで靴みがき店を出しておる友だちにあてた手紙を持っておる。この返事を、あなたが、どのくらい早くわしに届けるか、見せてもらいたい。」

(訳・井伏鱒二)
 先生はまだ外国郵便のサービスが準備中であることをココ王に説明しようとすると、スキマーはすかさずクイップを呼びつけ、指示を出しました。
「この手紙を、できるだけ早く、アゾレスまで運んでくれ。そこで、ちょうど今、夏を慕ってアメリカへ渡ってゆこうとしている、白い尾のアメリカ・ムシクイをつかまえるのだ。あれたちに、この手紙を渡して、できるだけ早く返事を届けるようにいっておけ。」

(訳・井伏鱒二)
 アゾレス諸島はアフリカ大陸北西の北大西洋上にあるポルトガル領の島で、アラバマ州はアメリカ合衆国の南部にある州です。かつてはスペイン領フロリダの一部でしたが、1819年に合衆国22番目の州となりました。アメリカにおいて靴磨きという職業は伝統的に南部・北部を問わず貧困層の職業とされて来た経緯があり、殊に南部は奴隷制度が堅固に維持されていた地域であることを考えると、靴磨き店を経営するココ王の友人と言うのは暗に奴隷貿易の取引先を意味しているのかも知れません。

 ココ王が水上郵便局へ手紙を持参したのは夕方4時でしたが、クイップはその手紙を携えてすぐさまアゾレス諸島へ飛んで行きます。そして、翌日の朝食時にはアラバマからココ王へ宛てた返信がテーブルの上に置いてあったのでした。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 19:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(6)──動物たちの楽園
 ファンティポ港の沖合に浮かぶ無人島へたどり着いたドリトル先生は、そこで既に絶滅したと思われていた恐竜と出会います。現地の人々が竜のたたりを恐れて近付こうとしないその島は、動物たちの楽園だったのです。

草食恐竜ピフィロソウルス
草食恐竜ピフィロソウルス(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生とジップは港から無人島まで泳ぐ途中に危うく溺れそうになりますが、海の底から巨大な爬虫類が現れて先生たちを無人島の浜辺に引き上げてくれました。先生は目の前にいる首長の恐竜は太古の昔に絶滅したと考えられているクイフェノドクス(quiffenodochus)ではないかと見ますが、その恐竜が言うには自分はクイフェノドクスと遠縁のピフィロソウルス(piffilosaurus)で、クイフェノドクスは2000年前に絶滅したと言うことでした。

 ここで出て来るクイフェノドクスやピフィロソウルスと言うのは架空の恐竜ですが、挿絵を見る限りアパトサウルス(ブロントサウルスの別名で有名)と同種のようにも見えます。アパトサウルスは19世紀にアメリカの古生物学者、オスニエル・チャールズ・マーシュ(Othniel Charles Marsh, 1831 - 1899)が発見し、20世紀初頭には広く知られていました。前巻『航海記』で先生はダーウィンを余り高く評価していない節がありましたが、本作の時代設定である1830年代後半はまだ『種の起源』(1859年刊)が発表されるよりも以前で、後の進化論に繋がる考え方そのものはキュヴィエやラマルクらの提唱により学界の一部に存在していましたが、自明のものではありませんでした。それから80年ほど経過し、ロフティングが本作を執筆した1920年代前半には(アメリカ南部などの宗教保守的な思想が強固な地域を別にすれば)進化論は既に自明のものとなっていたので、その時代の観点から進化論の生き証人をドリトル先生に引き合わせたのは書き手にとってごく自然な成り行きだったのでしょう。

 結局、ファンティポの人々が「カカブーチ王の太后が化身したのだ」と思っている竜の正体はこのピフィロソウルスで、そのピフィロソウルス自身はバナナが好物のおとなしい草食恐竜でした。手つかずの自然が残る動物の楽園を守りたいピフィロソウルスは人が近付く度に霧を吐いて威嚇し、それを繰り返している内に現地の人々は太后が怒って火を吐いていると思い込んで島へ近寄らなくなってしまったのだそうです。当の太后は無人島でも誰かに喋り続けないと気が済まなかったようで、動物たちを相手に延々と一人言を繰り返すのにたまりかねたピフィロソウルスはアフリカ南部のコンゴまで太后を連れて行き、耳の遠い王様と再婚させたと言うことでした。
 それから1ヶ月間、先生は国内郵便を正常化する作業の合間に何度も無人島へ出かけ、島に住む動物たちの治療や相談に当たったりスキマーと国際郵便のネットワークについて打ち合わせを重ねたりしました。その結果、国際郵便局は無人島を拠点に渡り鳥が運ぶ便宜を考慮して屋形船を新造し、無人島の沖合に停泊させることになりました。いよいよ、画期的なファンティポ郵便局の国際郵便が開業する日が秒読み段階に突入したのです。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 19:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(5)──飛脚のクイップ
 ココ王にファンティポ郵便局の再建を依頼されたドリトル先生は、かつてアフリカで猿の国が伝染病で危機に陥った際の報せを運んで来たツバメ、クイップ・ザ・キャリアー(Quip-the-Carrier)と再会します。

先生の船に巣を作るツバメたち
先生の船に巣を作るツバメたち(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生がファンティポの大臣たちに紹介され、郵便局の再建作業に着手することになった日の早朝。先生がベッドでダブダブの用意した朝食を摂っていると、一羽のツバメがスキマーの伝言を携えて窓から飛び込んで来ました。そのツバメは飛脚のクイップと言い、かつて『アフリカゆき』で猿の国が伝染病で危機に瀕した際に決死の覚悟でイギリスへ飛んで来たあのツバメに他成りませんでした。当初はスキマーが行くつもりだったのですが、ツバメたちは優秀なリーダーを失いたくなかったので公平にくじを引いてクイップが選ばれ、見事に大役を果たしたのです。それ以前は二つ名が無く単なるクイップだったこのツバメは、冬のイギリスへの決死行を成し遂げた功績により「飛脚」の二つ名で呼ばれるようになり、勲章としてトウモロコシの毛を赤く染めたリボンを脚に巻きつけていました。
 郵便局の再建に当たり、国内郵便は杜撰な扱いの郵便物を整理して集配作業のを基礎から局員に教えるしか無さそうでしたが、一筋縄で行かなさそうな課題は国際郵便でした。船の出入りと言っても、ファンティポには大型客船は年に数回しか寄港しないのです。
 その問題をどうするか考えていた時にクイップの話を聞いた先生は、ツバメを始めとする渡り鳥のネットワークを使えば世界中にどんな船よりも速く郵便物が届けられるに違いないと考え、具体的なネットワークの案を練り始めました。早速、スキマーにその案を相談してみたところスキマーは「今年の夏は例年のようにイギリスへ渡らず群れをここに留まらせましょうか」と提案して来ました。しかし、ファンティポの民家は土壁に藁ぶき屋根なのでツバメが巣を作るのに適しておらず、代わりに港へ停泊している先生の船に巣を作ることになりました。
 こうして、渡り鳥の国際郵便ネットワーク構築が具体的に動き出した最中、ジップが牛や豚のものではなさそうな珍しい骨をくわえて帰って来ました。先生がその骨に興味を持ち、どこで拾ったのか尋ねるとジップは「港の沖合にある無人島(No-mans-land)で拾いました」と答えました。先生はその無人島へ行ってみたいと思い、ココ王に丸木舟と作業要員の提供を求めますが、ココ王は驚きの余り玉座から転げ落ちそうになったかと思うとそのまま先生の顔を見ないように退散してしまいました。街の人々から話を聞いたところ、沖合の無人島には「今から1000ほど前、義理の母親である太后が朝から晩までお喋りを続けることに辟易したカカブーチ王が太后を無人島へ住まわせることにしたところ、太后はある日いなくなり代わりに巨大な竜が現れるようになった。その竜は太后の化身で、今でも無人島に人が近付くと怒り狂って炎を吐きかけるので手間では誰もあの島には近付かない」と言う伝承があると言うのですが、ジップは「そんなものは迷信ですよ」と全く取り合わず、港からは泳いで行けなくもなさそうな距離なので先生は思い切って無人島まで泳いで行くことにしたのでした。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 20:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(4)──ファンティポ郵便局
 ドリトル先生とスキマーの活躍で奴隷商人の一味は逮捕され、捕らわれていた人々は解放されました。しかし、ズザナの夫が奴隷商人に売られてしまったそもそもの原因はファンティポ王国の杜撰な郵便制度にあったと聞かされた先生はイギリスへの帰国を遅らせてファンティポ郵便局の再建に乗り出します。

希少なファンティポ7ペンス切手
希少なファンティポ7ペンス切手(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 奴隷商人ジミー・ボーンズの一味に捕らわれていた人々は解放され、イギリス海軍の船で各自の故郷に帰されます。ズザナも夫のベッグウィと無事に再開を果たしますが、ベッグウィが奴隷商人に売り渡されてしまったそもそもの原因はファンティポ王国の郵便制度が正常に機能していなかったのが原因でした。

 イギリスでローランド・ヒル(Rowland Hill, 1795 - 1879)が近代的郵便制度を考案し、世界初の郵便切手「ペニー・ブラック」が発行されたのは史実では1840年です。しかし、前巻『航海記』の冒頭が1839年と明示されており、本作は先生とスタビンズ少年が出会う以前の話と言う条件が動かないとすると、本作では史実よりも10年ほど早く切手が発行されていたと見た方が良いのかも知れません。ちなみに、ヴィクトリア女王の即位は史実では1837年です。

 ファンティポ王国の君主・ココ王は新し物好きで西洋の流行りに次々と飛び付き、スコットランド人からゴルフを習ったり自転車を乗り回したりしていました(ドイツで自転車が発明されたのは1817年で、当初は現在のようなペダル式でなく足で地面を蹴りながら移動するタイプでした)。数年前、謁見した西洋人からイギリスで考案されフランスやアメリカに広まっている近代郵便制度の話を聞いたココ王は街角にポストを作り「この箱に切手を貼った手紙を入れれば世界中どこにでも届く」と言うお触れを出します。ところが、水牛がポストに首をこすり付けて壊してしまい中に投函された手紙がそのまま入っていたので、人々は「あの西洋人はインチキを教えたに違いない」と騒ぎ出します。ココ王が西洋人を呼びつけて抗議すると、その西洋人は「ポストの魔力で郵便物が家庭に届く訳ではなく、郵便局が人力で集配を行っている」と言うことを懇切丁寧に説明しました。この説明に納得したココ王は早速、郵便局を開設するのですが王の肖像入り切手を外国のコレクターが欲しがることに着目し、珍しい切手を立て続けに発行して莫大な外貨を稼いだのと引き換えに集配機能は完全に破綻してしまいます。
 ちょうどその頃、戦争でファンティポ軍の捕虜になったベッグウィを取り戻すべくズザナはココ王に直談判し、ファンティポに住む親戚が所有する家畜との交換を条件にベッグウィを解放する約束を取り付けます。しかし、ファンティポ郵便の集配がまともに行われていないせいでズザナが送った手紙は期限までに親戚へ配達されず、ベッグウィは奴隷商人に売り渡されてしまったのでした。
 この事情を聴いたところへ、一隻の丸木舟がファンティポ港へ寄港している先生の船に近付いて来ました。ココ王自ら、自分の肖像入り切手を西洋人の船へ売り込む為に舟を漕いで来たのです。先生はココ王に海軍から贈られたお茶をご馳走した席で、ファンティポの郵便制度がいかにいい加減なものであるかを説いて厳重に抗議しました。ココ王は先生とズザナ夫妻に謝罪し、先生にファンティポ郵便局の再建を協力して欲しいと要請します。

 この場面で、先生がそもそもファンティポの非人道的な奴隷貿易を非難しなかったのはやや不思議な感じがします。ただ、奴隷貿易をやめさせるのは(それこそ、イギリス軍の強大な軍事力を以てすれば)さほど難しいことではないにしても、それだけでは奴隷貿易のような非人道的貧困ビジネスが発生する原因を絶つことには繋がらないと言う所までの深慮が存在したと解釈する余地はあるでしょうし、そのように読むのが正しいのではないかと筆者は考えます。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 20:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(3)──ドリトル先生 vs. 奴隷商人
 奴隷船の拿捕を命じられたイギリス海軍の巡洋艦・HMSヴァイオレット号をあざ笑うかのように奴隷船は逃走します。しかし、ドリトル先生がスキマーの協力で撃った大砲の弾が奴隷船のマストを吹き飛ばし、命運尽きた奴隷商人ジミー・ボーンズは敢えなく逮捕されたのでした。

スキマーが照準を定め、奴隷船を砲撃
スキマーが照準を定め、奴隷船を砲撃
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生が自分の船に戻ると、そこにはイギリス海軍の巡洋艦・HMSヴァイオレット号の艦長が怒りの形相で待ち受けていました。先生が船を停泊した際に明かりをつけていなかったのでヴァイオレット号がぶつかってしまい、奴隷船かと思って船内を偵察したところ人は誰も乗っておらず水兵の一人が寝ている豚に蹴つまずいてしまったと言うのです。先生は艦長の命令で一旦は勾留されますが、一人の軍人が同行していたズザナの態度から「この紳士は奴隷商人の一味ではないのでは」と進言し、拘束を解かれます。
 ヴァイオレット号は指名手配犯の奴隷商人ジミー・ボーンズを追ってこの沿岸まで来たものの、ボーンズ一味は巧妙に海軍の追跡を逃れるので捜索は難航していました。しかし、ドリトル先生の手にかかればスキマーたちが西アフリカ中の沿岸をくまなく偵察してくれるので何のことはありません。翌日の昼にはボーンズ一味の船が給水の為に停泊しているのが発見され、ヴァイオレット号は奴隷船の拿捕に向けて慎重に奴隷船へ接近しました。
 しかし、功を焦った砲手の一人が誤って大砲を撃ってしまい、その音に気付いた奴隷船は急いで給水作業を切り上げ海の彼方へ姿を消してしまったのでした。

 このHMSヴァイオレット(HMS Violet)号は同名の艦船が実在し、本作の時代設定であるヴィクトリア朝初期は4代目のヴァイオレット号(1835 - 1842)が就役していた時期に当たります。オランダのスヘフェニンゲン港で漁船のフェアリー号をイギリス海軍が買い取って改造し、1812年に事故で大破し廃船となった3代目ヴァイオレットの名前を襲名したもので、1842年に民間へ払い下げられました。就役時は主に北海近辺の沿岸警備に当てられていたようで、西アフリカの奴隷船拿捕に使用された記録は見当たりません。

 ヴァイオレット号は奴隷船を取り逃がしてなるものかと最新鋭の蒸気エンジンを極限まで稼働させ、必死に追跡しますがボーンズ一味の船はヴァイオレット号をあざ笑うかのように遠ざかって行きます。それでも、双方の距離は次第に縮まって行きどうにか大砲の射程範囲に入りました。しかし、既に日は暮れていて照準が上手く定まりません。砲手たちは先刻、誤って砲撃してしまった砲手を口々に非難していました。そこでスキマーはすかさず、自分が照準を定めるので空いた大砲を撃つように先生に進言します。

「撃て!」

 スキマーの号令で先生は大砲を発射し、砲弾はボーンズ一味の奴隷船のマストを直撃して木っ端微塵に吹き飛ばしました。こうなってはイギリス海軍に辛酸を舐めさせ続けたボーンズもどうにもなりません。先生とスキマーの活躍により奴隷船は拿捕され、帝国勅令により指名手配されていた奴隷商人ジミー・ボーンズとその一味は全員が逮捕されました。
 ヴァイオレット号の艦長は協力に感謝し「女王陛下は今回の勲功を讃えて貴殿を騎士に列するか、勲章を賜るだろう」と言いましたが、先生はどちらも辞退し代わりに「お茶を一袋いただきたい」と申し出たのでした。

 ロフティングがナイジェリアで鉄道建設に参加していた1910年代初頭には、非人道的な奴隷制度は形式的には過去の話となっていました。しかし、ロフティングが敢えて本作の冒頭にこのエピソードを持って来た意図は「形式的に奴隷制度が無くなっても、植民地の支配者は依然として現地の人々の尊厳を軽視し続けている」と言う告発にあったのではないかと思えてなりません。
 アメリカの事情について付け加えると、ロフティングが移住したニューヨークやコネチカットなどの北部と異なり当時の南部諸州は人種差別的な法律が存在し、クー・クラックス・クランに代表される過激なレイシズムを主張する団体が公然と活動していました。ロフティングは1960年代の公民権運動を契機に、特に『アフリカゆき』の描写が原因でレイシストであるかのような非難をしばしば受けることになるのですが、本作を読む限りロフティングは決して白人至上主義者ではなく、また植民地支配の在り方にも強い疑問を抱いていたに相違無いだろうと筆者は考えます。しかしながら、本作も『アフリカゆき』と『航海記』に見られた未開の人々に対する作者の認識の限界が散見されることは否めず、特にアメリカで1988年に復刊されて以降の改訂版ではアフリカ人を描いた多くの挿絵が削除された為に、本巻は他巻に比べて極端に挿絵が少ない巻になってしまっています。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(2)──奴隷商人を追って
 世界最速のツバメ、スピーディ・ザ・スキマー(Speedy-the-Skimmer)から「近海で丸木舟に乗った黒人女性が一人で泣いている」と知らされた先生はその女性──ズザナに事情を聴きます。彼女の夫は戦争でファンティポ王国の捕虜となり、奴隷商人に売り渡されてしまったのでした。そこへ、イギリス海軍の巡洋艦が奴隷商人の船を拿捕(だほ)する為に近くを通りがかっていることをスキマーに知らされた先生は奴隷船を拿捕すべく海軍に協力を申し出ます。

ズザナに声をかけるドリトル先生
ズザナに声をかけるドリトル先生
(『ドリトル先生の郵便局』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 以前の解説でも述べた通り、イギリスでは1833年に奴隷制度廃止法が成立し翌1834年には世界中の帝国植民地を含む全域で正式に奴隷が解放されました。しかし、アメリカ合衆国でリンカーンが大統領に就任し奴隷解放を宣言するのはイギリスの奴隷解放よりも四半世紀以上も後の1862年のことで、特に一旦は1801年に奴隷制度を廃止したフランスがナポレオン帝政下でアフリカの植民地における奴隷制度を復活させたり(1848年の第二共和制下で廃止)、ブラジルなどの旧ポルトガル植民地でも19世紀後半まで奴隷制度が存続するなど(ポルトガル本国とゴアなどのインド植民地は1761年廃止)、各国の足並みが揃っているとは言い難い状況でした。そんな中、ヨーロッパでも早期に奴隷制度と訣別したイギリスは自国民が関与していない第三国の奴隷売買に関しても「海賊行為」とみなし、積極的に取り締まる方針を打ち出します。1830年代から19世紀末にかけて、イギリス海軍は大西洋上で奴隷商人の拿捕とラゴスなど他国の奴隷貿易拠点となっていた都市の解放に全力を挙げていました。これが本作『郵便局』の時代背景にあります。

 さて、ズザナの丸木舟を発見して先生に報告したツバメのスピーディ・ザ・スキマーは井伏訳では「韋駄天のスキマー」、昨年刊行された河合訳では「波飛びのスピーディー」と訳されています。原文を確認してみると場面により"Speedy"とも"Skimmer"とも呼ばれていますが、井伏訳では原文に関わらずほぼ後者(稀に「韋駄天」)、河合訳では同じく前者に統一しているようです。後で登場する飛脚(河合訳では「運び屋」)のクイップ(Quip-the-Carrier)が「最初は単に『クイップ』で後に“飛脚”の二つ名をもらった」と言う説明から考えると、スピーディ・ザ・スキマーも"Skimmer"の方が二つ名で、本来の名前は"Speedy"なのでしょう("Skimmer"は意訳するならば「水面を跳ねるように飛ぶ」と言った感じのニュアンスです)。なお、この解説では「固有名詞などは特に断りの無い限り原則として井伏訳に依る」と言うことで、以後は「スキマー」に統一します。

 先生は船を入り江に停泊してズザナと共に丸木舟で奴隷船が寄港しそうな場所をくまなく探し回りますが、奴隷船の手掛かりは得られませんでした。ところが、スキマーが奴隷船とは別の大きな船を発見し、その船体に書かれた"HMS"の文字を先生の手のひらに書くと、先生は驚きの余り飛び上がりました。"HMS"と言うのは"Her Majesty Ship"、つまり「女王陛下の御船」の略で、その船は奴隷船を拿捕する為に勅令を受けたイギリス海軍の巡洋艦だったのです。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 18:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生の郵便局』(1)──冬休みの終わりに
 本作は第2巻『ドリトル先生航海記』の続きではなく、スタビンズ少年がドリトル先生に弟子入りする前の話となります。詳細は続巻『サーカス』の冒頭でも解説する予定ですが、本作が時系列順でどの時期に当たるかは様々な意見があり、確実なことは「第1巻『アフリカゆき』よりは後、第7巻『月からの使い』よりは前」としか言えません。

『ドリトル先生の郵便局』ジョナサン・ケープ版表紙
ドリトル先生の郵便局』ジョナサン・ケープ版表紙(1924年)

 本作は1923年にアメリカのF・A・ストークスより刊行され、翌1924年にイギリスでジョナサン・ケープより刊行されました。日本では1952年に井伏鱒二の訳で岩波少年文庫へ収録されたのが最初の紹介となり、この際の刊行順は続刊の『サーカス』よりも後でした。以後、60年近く井伏訳が唯一の日本語訳だったのですが2011年に角川つばさ文庫から河合祥一郎の新訳版が刊行されています。

 本作は時系列順では『航海記』よりも以前(但し、本文中で述べられている世界最初の切手「ペニー・ブラック」の発行年を史実と同じ1840年と仮定し『航海記』より後と見る説も存在する)である可能性が高いのですが、作品のテーマは『航海記』の後半でドリトル先生がクモサル島の王に祭り上げられてしまった後の展開を継承しているとも言えます。しかし、本作では植民地支配の不条理を肯定的・否定的いずれの側面からも描き出すようなことは余り無く、穏便かつ平和裏にアフリカの小さな王国が破綻してしまった郵便制度の立て直しを通じて発展して行く過程が描かれます。それは同時に王国が前時代的な貧困ビジネスの象徴である奴隷貿易から脱却して経済的に自立の道を歩む過程でもあり、1ページごとにロフティングがナイジェリアの鉄道建設に参加して直面した植民地支配の現実に対する強烈なメッセージが込められているように感じます。

 物語の冒頭は、アフリカ生まれでイギリスの寒い冬が苦手なオシツオサレツが先生に「ほんの短い間、西アフリカへ出かけませんか」と進言する所から始まります。先生はオシツオサレツとジップ、ダブダブ、ガブガブ、トートー、白ネズミを連れて西アフリカへ航海に出て、オシツオサレツは懐かしい牧草地でのんびり草を食べながら冬休みを満喫したのでした。そして、冬休みを終えてイギリスへ戻ろうとした矢先に一羽のツバメが飛んで来て、先生にある異変を知らせたのでした──。
| 84oca | ドリトル先生の郵便局 | 14:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(4)──ナイジェリア時代
 1911年、ヒューは土木技師になって最初の仕事だったカナダでの金鉱測量を終えて西アフリカのイギリス保護領・南ナイジェリアでの鉄道建設に参加しました。『ドリトル先生』シリーズの第3巻『ドリトル先生の郵便局』はこの時代の体験が色濃く反映されたものとなっています。


 西アフリカのギニア湾に面したナイジェリアへ西洋人が最初に入植したのは、コロンブスが大西洋を横断してアメリカ大陸へ到達する20年前の1472年と言われています。この年にポルトガル人が奴隷貿易の拠点として建設したラゴスは西アフリカでも有数の大都市として発展し、1976年から1991年にかけて中央部のアブジャへ遷都するまでは首都の地位に在りました(現在でもナイジェリア、ひいては西アフリカ最大の都市である地位に変わりはありません)。
 ポルトガル人の入植から300年余り、ナイジェリア沿岸からダホミー(現在のベナン)、トーゴにかけての一帯は「奴隷海岸」(Slave Coast)と呼ばれていました。西洋の列強諸国がこの沿岸の王国に武器を供与して互いに争わせ、負けた陣営の兵士は捕虜として奴隷商人に売られ、アフリカ大陸からヨーロッパや南北アメリカへ連れ去られて行ったのです。ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660 - 1731)の『ロビンソン・クルーソー』で主人公が遭難して絶海の孤島へ流れ着いたのも、奴隷貿易で一山当てようとした矢先の出来事でした。
 イギリス本国では1772年に奴隷待遇から逃亡したアフリカ人男性の法的地位が争われたサマーセット事件で人を奴隷の身分に置く行為が非合法であることが判例により確定しましたが、世界各地のイギリス植民地では依然として奴隷貿易や強制労働が公然と行われていました。サマーセット事件の後、主に植民地からの引揚者を中心とする奴隷廃止運動が拡大したことを受けて政府は1787年に奴隷貿易廃止委員会を設置し、1807年に最初の奴隷貿易法が成立します。しかし、この法律の施行後に奴隷商人がイギリス海軍に拿捕されることを恐れて奴隷を海へ“投棄”する事件が頻発し「奴隷制度そのものを根本的に犯罪とすべき」との世論が喚起される結果となりました。こうして、1833年に奴隷売買のみならず奴隷の所有を全面禁止とする奴隷制度廃止法が新たに成立し、1834年に植民地を含むイギリス帝国内の奴隷全員が解放されたのでした。
 このように、世界に先駆けて奴隷制度廃止を宣言したイギリスは他の列強諸国の奴隷貿易拠点攻撃にも力を入れ、1861年にポルトガルの奴隷貿易拠点だったラゴスを陥落させます。ラゴスは周辺のイギリス植民地であった南ナイジェリア(1894年に領域確定)・北ナイジェリア(1901年併合)と合わせて1914年に3植民地を併合し、保護領の英領ナイジェリアとされました。

 ヒューが南ナイジェリア植民地の首都(総督府所在地)だったラゴスを訪れた1911年は3植民地の統合作業が進行している最中でした。ヒューが参加した鉄道建設計画はラゴスと北部の炭鉱を接続する貨物路線を敷くもので、最終的には国土全体をアルファベットの「H」字状にラゴスとポートハーコートの2箇所の港と炭鉱を接続する路線が計画されていました。未開の地に鉄道を建設し、現地の人々の生活を改善することを夢見ていたヒューはこの鉄道の主目的がイギリスで消費する石炭の輸送であることに少なからず失望を覚えたらしく、また現地の人々が生活の為に営んでいた狩猟を支配者となった西洋人が「非文明的」と言って禁止する一方で、自分たちは現地の人々から取り上げた狩猟地でスポーツハンティングに明け暮れると言った不条理を目の当たりにして強い憤りを感じたようです。
 ヒューは1911年にナイジェリアとキューバで鉄道建設に当たっていた時期について後年「その一瞬一瞬、全てを嫌悪していた」と強い口調で振り返っていますが、それは自分の理想と南ナイジェリアで体験した「支配者と被支配者」の現実に横たわる余りにも埋め難いギャップがそう言わしめたのだと感じます。その憤りと、かつて自分が思い描いていた理想の社会貢献のスタイルは12年後に『ドリトル先生の郵便局』となって結実したのでした。

 なお、ナイジェリアはヒューが鉄道建設に参加してから50年後の1960年にイギリスから独立し、1963年に共和制国家となりました。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 09:42 | comments(0) | trackbacks(1) |
解題『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(後)
『タブスおばあさん』は、イングランドが舞台であることを除いて『ドリトル先生』とストーリーや登場キャラクターなどの接点はありません。しかし、動物たちが知恵を出し合って直面する難題に立ち向かうというシチュエーションには『ドリトル先生』との共通点を見出すことが出来ます。
『タブスおばあさんと三匹のおはなし』挿絵
タブスおばあさんと三匹のおはなし』挿絵
(ヒュー・ロフティング画)

 この物語の主人公は100歳を超える長生きのタブスおばあさん(Mrs. Tubbs)ですが、おばあさんはドリトル先生のように動物と会話が出来る訳では無く、困ったことが起きてもただうろたえるばかりで決断力や行動力を持ち合わせている訳でもありません。それでも、動物に対する愛情の深さではドリトル先生に負けず劣らずのものを持ち合わせていて、動物に優しいおばあさんが大好きな動物たちが恩返しの為に知恵を出し合って奮闘するというのがこの物語の基本設定です。

 おばあさんが特に可愛がっているのは子豚のパトリック・ピンク(Patrick Pink)、アヒルのポリー・ポンク(Polly Ponk)、犬のピーター・パンク(Peter Punk)。それぞれのキャラクター類型は『ドリトル先生』に登場するガブガブ、ダブダブ、ジップと同じと考えていただいても全く問題ありません。
 タブスおばあさんは農場にピンク・パンク・ポンクと住んでいましたがある日、農場の所有者から「ロンドンに住んでいる甥を住まわせることにしたから出て行ってくれ」と言われ、おばあさんは行く宛も無いまま農場を追い出されてしまいます。
 年老いて一人では食糧を調達することもままならないおばあさんの為にピンクは鼻でトリュフを掘り、ポンクは羽毛で枕を作り、パンクは薪を拾い集めてうろたえるおばあさんを懸命に元気付けます。
 そこへ、三匹はたまたま小川で水浴びをしていた水ネズミ(ミズハタネズミのこと。オセアニア原産のミズネズミではない)の王様、トミー・スキーク(Tommy Skeak)に出くわしました。以前におばあさんの食糧庫でチーズをかじっていた所を見逃してもらったトミーは三匹の頼みを聞き入れ、近隣のネズミをかき集めて農場を徹底的に荒らしました。しかし、農場主の甥はロンドンから三千匹の猫を連れて来たのでトミー率いるネズミたちは一目散に逃げ出してしまいます。
 三匹は次にツバメの女王、ティリー・ツイッター(Tilly Twitter)と出会います。ティリーも以前に巣から雛鳥が落っこちてしまった時に雛鳥へ襲いかかったイタチをおばあさんが追い払い、何も言わずに巣へ戻してくれた恩義があるので三匹の頼みを聞き入れ、ツバメの大軍を率いて農場を泥だらけにします。しかし、ティリー率いるツバメの大群も三千匹の猫を相手に苦戦を強いられ、この作戦も失敗に終わってしまいました。
 もう打つ手が無いと三匹が諦めかけ、ひとまずおばあさんの寝床を探そうとパンクが大木の洞を覗き込んだその時。その木に巣を作っていたスズメバチの大群がパンクに襲いかかって来ました。パンクが一目散に農場へ駆け込むと、パンクを追って来たスズメバチは農場主の甥を襲ったのでたまりかねた甥は「ロンドンへ帰る」と言い出し、タブスおばあさんは再び農場で三匹と一緒に暮らせるようになったのでした。

 本作の続編『トミーとティリーとタブスおばあさん Tommy, Tilly and Mrs. Tubbs』はかなり間が開いて13年後の1936年に刊行されました。本作を刊行した1923年はロフティングの生涯で最も輝かしい時期だったのに対し、続編『トミーとティリー』を刊行した1936年は度重なる悲劇を乗り越えてジョセフィン・フリッカーと再々婚し、15年を過ごしたコネチカットを離れて転居したロサンゼルスで次男のクリストファー(Christopher Clement Lofting, 1936 - )が誕生した年でした。
| 84oca | ドリトル先生以外のHL作品 | 16:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(前)
 ヒュー・ロフティングが61年の生涯に残した作品の過半数は『ドリトル先生』(全12巻+番外編1巻)でしたが、それ以外の作品も何点か刊行されています。絵本が4点と小説が1点、そして詩が1点です(初めて書いた短編小説『排水溝と橋 Culverts and a Bridge』はこの中には含まれていません)。
 今回は『ドリトル先生航海記』と『ドリトル先生の郵便局』の合間に当たる1923年に刊行された初めての絵本『タブスおばあさんと三匹のおはなし The Story of Mrs. Tubbs』を紹介します。
『タブスおばあさんと三匹のおはなし』表紙
タブスおばあさんと三匹のおはなし』ストークス版表紙
(ヒュー・ロフティング画、1923年)

 この絵本は1923年に『ドリトル先生』と同じアメリカの出版社、F・A・ストークスより刊行され翌1924年にはイギリスでジョナサン・ケープより刊行されました。日本における最初の紹介は1954年で、岩波書店から光吉夏弥(1904 - 1988)の訳により『もりのおばあさん』の表題で刊行されています。この際は「フクちゃん」で有名な漫画家の横山隆一(1909 - 2001)が挿絵を描きました。


 それから50年以上が経ち米英でも原書は既に絶版となって久しいのですが、日本では幼少期に読んだ『ドリトル先生』の影響で英文学を志した小説家で英文学者の南條竹則氏が2010年に集英社から新訳版を刊行しました。


 この新訳版では、岩波版と異なりロフティングが描いた挿絵を使用しています。
 光吉訳『もりのおばあさん』は固有名詞なども含めて全てひらがな表記で本当に未就学児から小学校低学年向けになっているのに対し、南條訳『タブスおばあさんと三匹のおはなし』は小学校で教えない漢字も多用されており(読み仮名は振られています)、光吉訳よりも年齢層は高めで『ドリトル先生』に親しんでいる小学校中・高学年の児童や大人の『ドリトル先生』ファン向けと言えるでしょう。実際、発行元の集英社では対象年齢を「小学生」としており、岩波版より高めの年齢を想定しているようです。



| 84oca | ドリトル先生以外のHL作品 | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(18)──まとめ
 本作は巻頭こそ「コリンとエリザベスへ」と2人の子供に対する献辞で始まっていますが、発売されるとまたたく間に前作以上の評判を米英の子供たちの間に呼び起こし、翌年には全米児童図書館協会が主催するニューベリー賞の第2回受賞作品となったのでした。
『ドリトル先生航海記』のエンドカード
ドリトル先生航海記』のエンドカード(ヒュー・ロフティング画)

 前作が淡々とした三人称文体で書かれているのに対し、本作ではトーマス・スタビンズ少年を語り部とし、彼が直に見聞きした(世間では何かと変人扱いされることの多かった)ジョン・ドリトル先生の偉大な業績についての記録という形を取っています。このスタイルの違いにより、純朴な童話的世界観の前作『アフリカゆき』と重複する「鳥がバッドニュースを運んで来る」「目的地への到着寸前に遭難」というシチュエーションを上手く別の角度から見せて読者にワンパターンと思わせない工夫が為されているのですが、これは前作を読んでいない新規の読者に対する配慮と取ることも可能です。当のロフティング自身も、2人の子供の為に書いた私的な創作が意外な経過で世に出た『アフリカゆき』は広範な読者層を対象にしたものではないと考えていたらしく、出版社より続編の執筆を依頼されたは良いにしろ最後まで好きになれなかった土木技師を辞めて専業作家となるかどうかの決意はなかなか固まらなかった形跡が見られます。クライマックスで先生が王位を降りてイギリスに帰るか否か苦悩する場面は、ロフティング自身の「本当に専業作家として活動すべきなのか、土木技師として途上国を開拓するのが自分の使命だったのではないのか」と言う逡巡が反映されたものだったのかも知れません。結局のところ、その問いに対してロフティング自身が出した答えは「創作の中で、理想的な開拓を描写する」ことだったと言うのが続巻『郵便局』の端々に強く感じられます。

 本作の後半、特にドリトル先生がシンカロット王として即位して以降の展開はよく島田啓三(1900 - 1973)の漫画『冒険ダン吉』と「先進国の指導者が未開の民に文明的な生活知識を伝授する」と言う植民地主義に肯定的な側面からの類似点が指摘されますが『ダン吉』完結から2年後の1941年、同じ雑誌(講談社『少年倶楽部』)で井伏鱒二訳の『ドリトル先生船の旅』が連載されたことと共に奇妙な運命の巡り合わせと言えるでしょう。

 そして、本作の後半における「未開の地に文明の恩恵をもたらす」と言うテーマは続巻『郵便局』で形を変えて繰り返されることになるのですが『郵便局』は「貧困からの自立」を隠れた主題としてミックスしている点が『航海記』と大きく異なっています。1920年代に列強の植民地や新興国が貧困ビジネスの悪循環に陥っている現場を目の当たりにし、その体験を基に貧困ビジネスの本質とその正しい解法を鋭く描写したロフティングは90年前にあって稀有な感性の持ち主だったことに、現代の読者は驚嘆させられるのです。


The Voyages of Doctor Dolittle - 原文。

『ドリトル先生航海記』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生航海記』 ドリトル先生物語全集2こども図書館ドットコム


解題『ドリトル先生航海記』目次
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 15:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(17)──さらば、クモサル島
 ポリネシアとスタビンズ少年はシンカロット王ことドリトル先生に悟られないよう、極秘に進めていたクモサル島脱出計画を実行に移します。
シンカロット王、真夜中の脱出
シンカロット王、真夜中の脱出(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 尻尾を痛めていた海カタツムリはようやく元気を取り戻しました。事はポリネシアの作戦通りに進んでいましたが、クモサル島の島民に愛着を感じている先生を連れ出すのはなかなか骨が折れそうでした。そこで、ポリネシアは「1週間ほど公務を休む」とお触れを出してはどうかと提案し、先生も了承します。同じ頃、南米大陸へ渡っていたロング・アローは再びクモサル島へ戻り、先生に長年かけて採取した珍しい昆虫や植物の標本を提供しました。それらの標本は、西洋では未知のものばかりでした。
 そして、一行は島民に気付かれないよう真夜中に王宮を脱出します。スタビンズ少年とバンポ、ロング・アローの3人は荷物をまとめ、先に海岸へ運んでいました。明け方、大ガラス海カタツムリの待つ海岸でポリネシアは先生に「これからイギリスへ帰る」と打ち明けました。ポリネシアはイルカやウニ、ヒトデを介して海カタツムリにイギリスまで送ってもらえるよう話を付けていたのです。
「ねえ、先生……王さまの事務は、先生の一生のうちの、ほんとうのお仕事ではありません。住民たちは、先生なしでもなんとかやってゆきますでしょう……いまは、なにもかもすてて、海カタツムリの申し出を承知なさってはいかがですか? 先生がこれからなさるお仕事や、お国へお持ち帰りになる報告は、ここでなされるどんなことよりも、はるかに値うちがあるのです。」
「いや、おまえ……それはできないよ。あれたちは、あの不衛生なやり方に、ふたたび逆もどりするだろう。悪い水、料理しない魚。下水のない町。伝染病……。いや、いけない。わしはあれらの健康と幸福を守ってやらねばならぬ。」

(訳・井伏鱒二)
 この場面は後年になって、大英帝国の威容華やかなりしヴィクトリア朝の国是であった「未開の民を善導するのが世界の最先進国たるイギリス人の責務」という価値観を吐露したものとして強い批判に晒されることが多くなりました。先生は飽くまで純粋に自分を慕う善良なクモサル島民のことを考えているのですが、同時に彼等は自分がいなくても一人立ちして行けるほど賢いと思っていないと言うこの記述に関しては、残念ながら『アフリカゆき』と同様に1920年代の人権感覚と、その時代を生きたロフティングの認識の限界と評価せざるを得ないところです。

 その後も、先生は何かと理由を付けて王宮へ自分の荷物を取りに戻ろうとするのですが愛用の手帳はスタビンズ少年が、ロング・アローの貴重な最終標本は当人が、食糧は休暇中の分を既に用意させたとポリネシアが言い、愛用のシルクハットをバンポが差し出した所で先生は観念し、遂に王冠を脱いだのでした。

 先生が王冠を砂浜に置き、島民に許しを請いながら涙ぐむ場面は本書の刊行後にロフティングが追加で挿絵を描き下ろしており、没後の1967年に刊行された『ドリトル先生物語選集 Doctor Dolittle: A Treasury』に収録されています。

 そして、世にも珍しい1週間の海底旅行を経て先生たちはようやく2年余りの長い航海を終え、イギリスへ帰って来たのでした。この続きは、第5巻『ドリトル先生の動物園』で語られることになります。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:30 | comments(1) | trackbacks(0) |
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兵庫県伊丹市の新図書館“ことば蔵”へ行ってみた
| 84oca | お知らせ | 19:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(16)──海カタツムリ現る
 全く気が進まないままクモサル島の王に推挙されてしまったジョング・シンカロット王ことドリトル先生。退位を申し出ようにもなかなかその機会は訪れず、次第に自分を慕う島民への愛着も湧いて来ます。そんなある日、ポリネシアは島の入り江で以前に銀色フィジットから聞いたあの巨大生物を発見したのでした──。
蝶を追いかけるシンカロット王
蝶を追いかけるシンカロット王(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 シンカロット王が即位後、最初に取り掛かったのは漂流前はクモサル島の沿岸部にあったポプシペテルの集落を内陸の高台に再建する作業でした。上水道や下水道の整備、煉瓦作りなどのインフラ整備がシンカロット王の指導で次々に進められ、ポプシペテルの町はテントが立ち並んでいた以前の集落とはすっかり様変わりしたのでした。
 町の建設が一段落した後もシンカロット王は学校を開いて自ら老若男女の島民に知識を授け、また揉め事を仲裁したり医師として島民を診察したりの多忙な日々を送りました。愛用のシルクハットも使わせてもらえず、僅かな自由時間を研究に当てて虫取り網を手に蝶を追いかける時も王冠が頭上にありました。
 こうして月日は流れ、シンカロット王の即位から2年が経ちました。スタビンズ少年もバンポもポリネシアもチーチーもジップも、最初は物珍しかったクモサル島の生活にすっかり飽き飽きしてしまいました。また、ロング・アローは島での用を終えてアンデスへ帰って行きました。
 そんなある日の早朝、島で地震が起きました。震源地と見られる入り江に様子を見に行ったポリネシアは興奮した様子で以前、英語で歌う魚の銀色フィジットが言っていた大ガラス海カタツムリを発見したとスタビンズ少年に伝えます。知恵者のポリネシアは、今のままだとイギリスへ帰ろうにも船が無い有様だが海カタツムリを説得すればイギリスへ帰れるのではないかと言い、相変わらず島民の求めに応じて惜しみなく西洋の文明を伝授するシンカロット王ことドリトル先生には内密で海カタツムリを説得する計画を立て始めたのでした。
 スタビンズ少年とポリネシアは脱出計画のことを伏せて先生を海カタツムリと対面させました。古代の貝類である海カタツムリの言語は難解で、間に様々な種類の魚や貝を挟んでようやく意思疎通が出来る有様でした。海カタツムリは銀色フィジットが言っていた通り、世界最深の海溝である「深い穴」に住んでいたのですがクモサル島が漂流をやめて現在地、つまり「深い穴」を塞ぐように沈降して来たので慌てて飛び出したものの、尻尾を挟まれてしまったのでした。それから長い月日の──何万年も生きているこのカタツムリの生涯から見ればごく短い時間なのでしょうが──悪戦苦闘の末に、ようやく尻尾にのしかかっていた島を払いのけたのが地震の原因だったのでした。先生は腫れ上がった海カタツムリの尻尾に手当てを施している間、スタビンズ少年とポリネシアは海カタツムリの回復を待って先生に気付かれないよう脱出計画の準備を進めることを確認しました。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(15)──ジョング・シンカロット王の即位
 クモサル島で起きた難題を立て続けに解決したドリトル先生はポプシぺテル族の選挙で新しい長老に選ばれ、遂には島の王様に祭り上げられてしまいます。
ささやき岩と休火山のかかり石
ささやき岩と休火山のかかり石
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生がバグ・ジャグデラグ族の集落へ講和条約を締結に行っている間にポプシぺテル族の集落では亡くなった長老に代わる新しい長老を決める選挙が執り行われ、先生が新しい長老に選出されました。それどころか、島を統一する偉大な王として島内のささやき岩(The Whispering Rocks)で戴冠式が実行されることになってしまいます。
 先生は「自分は王になどなりたくないし、その器でもない」と辞退しますがポプシぺテルの人々の意志は固く、また講和条約を結んだバグ・ジャグデラグ側もこの結果を受け入れると伝えて来たので困り果ててしまいました。バンポは自分の父王──かつて「白人だから」と言うだけの理由で先生を投獄したジョリギンキ国王に120人の夫人がいることを引き合いに出して「王様になるのも悪くないのでは」と言いますが、先生は「それはよろしくない。120倍もよろしくない」と顔をしかめるばかりでした。
 この場面はよく「先生は女嫌いである」と言う意味で引き合いに出されますが実際のところ、19世紀前半のジェントリ(地主階級)は独身者が珍しくなかったことと先生にとって長年、最も身近な女性が何かにつけて口やかましい妹のサラだったと言うあたりの印象を率直に述べているだけで、そこまで深読みする必要はないのかも知れません。ブリタニカ百科事典では「独身者の自由奔放な生活を生き生きと描写している」点に本シリーズの魅力があるのだと解説されていることもまた事実ですが。
 また、ロング・アローは島民の意思が固い以上、自分にはそれを拒む術がわからないと言った風で先生に同情のまなざしを送るだけだったので、とうとう先生は即位を受諾せざるを得なくなってしまいました。
 そして、島の中心部にあるささやき岩で戴冠式が執り行われることになりました。このささやき岩はすり鉢状の峡谷で、ひそひそ声で話したことでも峡谷いっぱいに声が伝わるのでそう呼ばれています。その中心には象牙で作られた玉座があり、その玉座で島を統一する偉大な王に王冠を授ける時、クモサル島は漂流をやめると伝承されているのでした。戴冠式の当日はポプシぺテルの人々が全員、円形競技場を埋め尽くすように、クモサル島の師史上初めて全島を統一する偉大な王の即位に立ち会おうとささやき岩へ集いました。
 この即位に際し、先生のジョン・ドリトル(John Dolittle)──"Dolittle"は"do little"、つまり「僅少な働き」を意味し、それは先祖が怠け者だったのでそう呼ばれていたと思われますが──と言う名前は偉大な王にふさわしくないとして、新たにジョング・シンカロット(Jong Thinkalot)つまり「多くを考える」と言う意味の"Think a lot"へ勝手に改名してしまいます。
 先生が木製の王冠をかぶり、玉座に腰かけるとポプシぺテルの人々は一斉に「ジョング王万歳!」「ジョング王の末永き治世を!」と叫び始め、新王の即位を祝福する声が峡谷中に響き渡ります。すると、島の最高峰である休火山の山頂にあるかかり石(the Hanging Stone)がその響鳴に揺り動かされて火口へ転落し、そのままクモサル島の地下に広がるガスの溜まった空間を貫いてしまいました。その結果、クモサル島は伝説の通り漂流をやめてようやく安住の地を得たのでした──その際、海岸沿いの海抜が低い場所にあったポプシぺテルの集落は水没してしまいましたが、一人の例外も無くささやき岩で戴冠式に立ち会っていたので全員が無事でした。

 ロング・アローにしてもクモサル島の島民たちにしてもそうですが、現在では政治的な理由で"Native American"と呼ばれることが多い人々のことをロフティングは作中で"Indian"と一貫して表記しています。しかし、その外観や慣習はアングロアメリカ(アメリカ合衆国とカナダ)のインディアンとラテンアメリカ(メキシコ以南、南アメリカ大陸、カリブ海)のインディオを混同してしまっている感が否めません。ロング・アローの場合、ペルーのアンデス山中で生まれ育ったと言うぐらいなので15世紀から17世紀にかけてスペインのコンキスタドールに滅ぼされたインカ帝国の末裔、つまりインディオのようにも思えますがその風貌はどう見てもアングロアメリカのインディアン風ですし、クモサル島の島民にしてもラテンアメリカのインディオ(インカ帝国、或いはアステカ帝国)のように王を戴くかと思えば、トーテムポールを築くなどやはりその風習は血縁支配の伝統が存在しないアングロアメリカのインディアン風です。こうした描写の不正確さは何もロフティング個人の取材不足という問題ではなく、よく「コロンブスが連れて来た」と言われる白人の視点から書かれた多くの文学作品や映画作品──何度も映画化されているジェイムズ・フェニモア・クーパー(James Fenimore Cooper, 1789 - 1851)の『モヒカン族の最後』なども共通して抱える問題であり、そうした刊行時には余り重視されなかった問題点の存在を現代の読者は認識する必要があるでしょう。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(14)──相次ぐ難題
 無事にロング・アローを救出したものの、クモサル島には相次いで難題が降りかかって来ます。ドリトル先生は動物たちの協力も得ながらそれらの難題を次々に解決し、島民の絶大な信頼を得て行くのでしした。
「恐るべき三人衆」の壁画
「恐るべき三人衆」の壁画
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 クモサル島はポプシペテル族とバグ・ジャグデラグ族という部族が勢力を二分しています。ロング・アローは、少数派のポプシぺテル族は気立てが良く勤勉なのに対して多数派のバグ・ジャグデラグ族は好戦的でいつもポプシぺテル族の収穫を掠奪するばかりの横暴な集団だと言い、心底からバグ・ジャグデラグ族を軽蔑しているようでした。
 ロング・アローやその道案内をしたポプシぺテルの村民が先生たちに連れられて集落へ戻って来ると、長老は今朝方に風邪をこじらせて亡くなったと知らされました。地下に広大なガスの溜まった空間が有る浮遊島のクモサル島は、どうやら南氷洋に向かって流されているらしく日増しに気温が低下し、風邪が流行していたのです。先生は火を起こして暖を取らせなければいけないと考えますが、クモサル島では誰も火の起こし方を知りませんでした。そこで、古いリスの巣と木片を用意させてこすり合わせ、摩擦を利用して火を起こすと人々は驚きます。それから先生は一晩をかけて火を使って人々に暖を取らせたり、灯りを作らせたり、魚を焼いて食べる方法を教えたりしたのでした。
 翌日、バグ・ジャグデラグ族がポプシぺテルの村を襲撃して来ました。以前にポプシぺテル族が和平交渉の為に使者を送った際は、バグ・ジャグデラグ族はポプシぺテル側の意向を一笑に付しその使者を斧で惨殺してしまったと言います。話し合いが通じない相手であることを聞かされた先生は気が進まないながらも戦うことを決意し、バンポとロング・アローも加勢しました。
 ポプシぺテルの村はたちどころにバグ・ジャグデラグ族の戦士に取り囲まれてしまいますが、へポリネシアが南米大陸から連れてきた黒オウムの大群が参戦して戦況は一転します。黒オウムたちは戦士の耳たぶへ器用に噛み付き、戦士たちはほぼ例外無く三角形のギザギザの刻印を付けられて悶絶し、一斉に退却しました。後年、この耳たぶはバグ・ジャグデラグ族の大きな特徴として語り継がれるようになります。

 そしてジョン・ドリトル、ロング・アロー、バンポ・カアブウブウのそれぞれ異なる人種である3人もその果敢な戦いぶりが後世まで伝えられ「恐るべき三人衆」の壁画と次のような歌が作られたのでした。
 三勇士の歌

ああ、きいてくだされ「三勇士」の歌を、
海辺の崖の上で戦った三人の働きを。
むらがる地バチのようにバグ・ジャグデラグ族が、
山から、岩の上から、崖の上からおりてきた。

この村はかこまれ、垣は破られた。
ああ、もうだめか、町も人間も苦境におちた!
ところが、天はお助けくださろうと、
この村に「三勇士」をお送りくだされた。

ひとりは色が黒い──夜のように黒かった。
ひとりは肌が赤く、山のような背高童子。
だが、大将は白い人で、ミツバチのように丸っこい。
そして、一列にならんだこの「三勇士」。

肩をならべて、なぐったりたたいたり、
阿修羅のように、けったり、かみついたり。
壁のように一列に立ちはだかり、
一撃のもと六人の敵を張り倒す。

ああ、赤は強く、黒はものすごい。
バグ・ジャグデラグはふるえあがって逃げ失せる。
だが、敵方が「用心しろよ!」とおそれたのは、白い人、
ひとかかえの敵をぽんぽん空高く投げとばす。

のちのちまでも、この赤、黒、白の話がでると、
夜中に泣く子も黙るだろう。
そこでみんな、のちのちまでうたおう、「三勇士」の歌を、
海辺の崖の上で戦った三人の働きを。

(訳・井伏鱒二)
 井伏訳の「阿修羅のように」は、原文では"Like demons of fury"とされています。ロフティングは第一次世界大戦の激戦地であった西部戦線で戦争の凄惨な現実を目の当たりにしたことが作家活動に進む直接的契機となっただけ有り反戦と平和への願いを強く持ち続けていましたが、一方で暴力的手段による掠奪や自由な言論・表現を封殺する全体主義への対抗手段は、やはり武力しか無いのではないかと言う諦念にも似た感情を抱き続けていた形跡があり、それは晩年に顕著となるのですがこのエピソードや続巻『郵便局』の後半など1920年代前半の、彼の人生において最も幸福だったであろう時期においてすらも「戦争の無益さ」と「話し合いを否定する脅威への抵抗」と言う半ば矛盾する二つの価値観の葛藤が見て取れることは非常に興味深いものがあります。

 バグ・ジャグデラグ族の襲撃を斥けた先生は翌日、バグ・ジャグデラグの集落を訪ねてポプシぺテルとの講和条約締結を要求しました。抵抗しようにも、集落の周りはあの恐ろしい黒オウムに取り囲まれていたのでバグ・ジャグデラグ族は本気で改心し「今後は未来永劫、ポプシぺテル族から掠奪しない」「互いの部族は、一方が飢饉や災害などの難題に見舞われた場合は協力し合う」という二箇条からなる条約を受け入れます。この条約は「オウム講和条約」と命名されました。
 こうして、長きにわたる部族間の紛争を解決した先生は次に南氷洋に向かって漂流するクモサル島をクジラの群れに頼んで赤道近くまで押し戻すことにしました。適当な浅瀬でガスが溜まった地下空間に穴を開ければ、島は兵糧を止めて固定するだろうと考えたのです。ところが、ポプシぺテルの村では風邪で亡くなった長老に代わる新しい長老を決める選挙が行われていました。そして、選挙により新しい長老に選ばれたのは──。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |


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