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ある在野の文学研究者の行動記録。

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解題『ドリトル先生航海記』(13)──ロング・アロー救出
 クモサル島に到着したドリトル先生の一行は岩盤の崩落で遭難していた偉大な博物学の大家、ロング・アローを救出し、世紀の対面が実現します。
世紀の対面
世紀の対面(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生の一行はクモサル島へ上陸し、まずは島民が住んでいる集落を探しましたが近くに集落は無く、ひとまずジャングルを抜けることにしました。アフリカ生まれでジャングルの移動に手慣れたポリネシアやチーチーの道案内で一行は大きな危険に遭うことも無くジャングルの中を進みますが、途中で先生は希少種のカブトムシ・ジャビスリー(Jabizri beetle)を発見して捕獲します。そのジャビズリーの脚にはクモの糸で何か絵が描かれた葉っぱが括り付けられており、先生はその絵の意味を「鷹の頭の形をした山で岩盤が崩落し、洞窟に閉じ込められた人がいる」と解釈しました。そして、敢えて希少種のジャビズリーに手紙を託したのは「この珍しい虫を見た人が必ず捕まえるだろう」と考えてのことで、そう考えるのは博物学の大家、ロング・アローその人に違いないと推理します。
 特徴的な形でジャングルの中からもはっきり見えていた鷹頭山(Hawks' head Mountain)で岩盤が崩落した現場に到着すると、確かに絵手紙の通りとても3人では動かせそうにないほどの巨大な岩が洞窟の入り口を塞いでいました。しかし、大岩が乗った地盤はそれほど硬くなさそうだったので、ジップの発案により地面を掘って岩を地滑りで下に落とすことにします。この作戦は見事に成功し、地面を掘ると巨大な岩はバランスを崩して前のめりに倒れ、真っ二つに割れたのでした。
 そして、ドリトル先生は洞窟に閉じ込められていた博物学の大家、ロング・アローと世紀の対面を果たします。しかし、先生はインディアンの言葉を知らずロング・アローも英語を知らないので互いの意思疎通は上手く行きません。そこで、先生は様々な動物の言葉で語りかけますがやはりロング・アローには通じませんでした。ようやく、ワシの言葉で語りかけるとロング・アローに通じました。ロング・アローは先生ほど動物語を自由に操れないものの、鳥の言葉は習得していたのです。
 ロング・アローはこの洞窟にだけ生えている薬用のコケを採取する為にクモサル島へ渡り、島民の案内で洞窟に入ったところ岩盤が崩落して閉じ込められてしまったのでした。ロング・アローと共に救出された島民は何人かが衰弱していたものの命に別状は無く、全員がポプシぺテルの村に生還しました。

 先生とロング・アローという互いに尊敬し合っていた者同士が人種はもとより、言語をも超越して初めて対面するこの場面は本作における最大の名場面と言えるでしょう。本作も前作『アフリカゆき』も後年に一部の描写を以て人種差別的と指弾されることが多かったのですが作品の本質、ひいてはロフティングの理念がこの場面のように人種の相違を超越した敬意や友情にあると言うことが本作の刊行時も現在もいささかの揺るぎも無く多くの読者に伝わったからこそ、発表から90年以上も経った現在もなお読み継がれているのだと筆者は考えます。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(3)──ニューヨーク時代
『ドリトル先生』の作者、ヒュー・ロフティングは1912年から1921年までニューヨークに住んでいました。
 ヒューが最初に渡米したのは1904年にダービーシャーの寄宿校を卒業し、マサチューセッツ工科大学(MIT)へ留学した時でした。しかし、ヒューは1年でMITを中退しボストンでの生活は早々と終わりを告げてしまいます。イギリスへ帰国し、1907年に職業訓練校のロンドン・ポリテクニック(現在のウェストミンスター大学の前身校の一つ)を卒業して土木技師となったヒューは最初にカナダで金鉱の測量、その後にイギリス保護領だった西アフリカのナイジェリアと1902年に独立したばかりだったカリブ海の新興国・キューバで鉄道建設に当たったことは以前にも何度か紹介した通りですが、キューバでの仕事を終えてそのまま2度目の渡米に踏み切った訳ではなく、1911年の前半に一度イギリスへ戻っていることが同年の国勢調査記録より確認されます。この記録によれば両親や兄妹ら家族とロンドン西部のブレントフォードで同居しており、次兄のジョン・ヘンリーが父親の家業である積算士の仕事を継ぐ目処が立ったので独立を考えたのではないかと見られます。
 1912年にニューヨークへ移ったヒューは同年に知り合った5歳年上のフローラ・スモール(Flora Small, 1880 - 1927)と結婚します。ちなみにヒューの父母であるジョン・ブライアンとエリザベス夫妻も祖父母のジョン・トーマスとメアリー・アン夫妻もヒューとフローラ同様に、夫人の方が年上でした。フローラは生まれも育ちもニューヨークで、ヒューは1913年にこの結婚を理由としてアメリカ合衆国の永住権を申請しています。
 ロフティング夫妻は当初、ニューヨーク市北部のハドソン川上流に在るキャットスキル山の近くに居を構えていました。この頃に新聞や雑誌に紀行文やコラム、最初に書いた短編小説『排水溝と橋 Culverts and a Bridge』などを投稿しますが、これらの文章の内どの程度が採用されたのかは明らかではありません。
 1913年11月に長女のエリザベス(リン)、1915年9月に長男のコリンが生まれた後、イギリス陸軍の志願兵となって西部戦線で1918年に負傷し、送還先のロンドンへ家族を呼び寄せた1年後の1919年秋に再びニューヨークへ戻ることにします。この際、アメリカの永住権申請に際してイギリス国籍を放棄しなかったヒューはごく短期間、イギリス情報省のニューヨーク駐在員として働いていました。情報省は外交に関する情報収集やプロパガンダ工作を専門に行う中央省庁で、第一次世界大戦を機に設立され第二次世界大戦後まで存続しましたが、外務省(現在の外務連邦省)の下部組織でウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham, 1874 - 1965)がスパイとして所属した情報局秘密情報部との業務内容重複などを理由に統廃合された後身組織の情報調査局は国内での政党工作発覚などの不祥事が相次いだこともあり、1977年に廃止されました。
 1919年にニューヨークへ戻ったロフティング一家は、1920年の国勢調査記録によると以前に住んでいたキャットスキルの南隣に当たりアイルランド系移民が多いことで知られるアルスターに住んでいたようです。しかし、この年に刊行した『ドリトル先生アフリカゆき』が全米で大評判となり、土木技師の仕事を辞めて専業作家として活動する決意をして1921年にコネチカット州マディソンへ転居し、そこで15年余りを過ごすのでした。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 20:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──テレビアニメ「ドリトル先生航海記」
『ドリトル先生』は過去に何度か映像化されていますが、最初のテレビアニメは1970年にアメリカのDFEエンタープライズが制作した『ドリトル先生航海記』(原題「Doctor Dolittle」)です。製作・著作は20世紀フォックステレビジョン(20世紀フォックスグループは米国内での『ドリトル先生』シリーズの映像化権を保有しています)で、NBC系列で放送されました。日本では、1972年にNHK総合で放送されています。

 追って紹介する1967年の映画『ドリトル先生不思議な旅』と同様に20世紀フォックスが主導するメディアミックスの一環として製作されたこのアニメは、原作に対する風当たりが強まっていた時期と重なったこともあってか映画が興行的に失敗した中での放映となった事情を反映してか原作からはかなりアレンジされた内容となっています。ドリトル先生やスタビンズ少年のキャラクター造形も原作とは大きくかけ離れており、スマートでトレンチコートを着た先生はどこかアメリカナイズされた印象を受けます。
 内容は動物と話せる先生の能力を悪用してようと目論むスカービー海賊団との追いつ追われつの逃走劇が中心となっており、決め台詞の「我ら、スカービー海賊団!」はある年代より上の方だったら、覚えておいでかも知れません。

 本作は現在のところ、日本でもアメリカでもDVDなどは発売されていません。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 21:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(12)──遭難、そして到着
 長い航海の末に船はようやく目的地のクモサル島へ近付きます。しかし、突然の大嵐に見舞われて船が大破し一行は遭難してしまいました。スタビンズ少年は大破した船のマストに縛られた状態で目を覚まし、イルカの群れに導かれて先生、バンポ、ポリネシア、チーチー、ジップと無事に再開します。こうして、一行は苦難に満ちた航海を終えて目的地のクモサル島にたどり着いたのでした。
大破した船のマストに縛られた状態で目を覚ますスタビンズ少年
大破した船のマストに縛られた状態で目を覚ますスタビンズ少年
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 以前の解説でロフティングは同じシチュエーションを何度も再利用する傾向があると書きましたが、この場面もまさしくその典型と言えます。思い出してみてください。前巻『アフリカゆき』でも、先生の一行を乗せた船がアフリカへ上陸する直前に嵐が襲って来て、岩礁にぶつかって大破してしまいました。今回も「目的地への上陸寸前に嵐が襲って来て船が大破する」シチュエーションは同じです。しかし『アフリカゆき』が三人称で書かれているのに対して本作『航海記』はスタビンズ少年の一人称文体で書かれているので、読者にワンパターンと感じさせない工夫が為されているのです。
 ようやく嵐が去り、スタビンズ少年が目を覚ますと大破した船のマストにロープで縛り付けられていた状態でした。どうやら先生が海に投げ出されないように気絶したスタビンズ少年を縛り付けたようです。スタビンズ少年がポケットナイフで縄を切ると、そこへ紫極楽鳥のミランダが舞い降りて来ました。ミランダは先生たちが全員無事であることを知らせ、イルカの群れが船の残骸をクモサル島まで導いていることを教えてくれました。
 ミランダはシリーズ中、彼女に対して悪態を吐いたスズメのチープサイドに比べると出番は非常に少ないのですが印象に残るキャラクターです。他に(特に、人間の登場人物では)“お姉さん”的なポジションのキャラクターがいないこともその理由でしょう。
 そして、スタビンズ少年は無事に先生たちと再会し一行は「運まかせの旅行」の儀式で目的地となったクモサル島に上陸したのでした。

 次回以降は再度、周辺の話題を2〜3回挟んだ後に『航海記』の解説を再開する予定です。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 19:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(11)──歌う魚・銀色フィジット
 カパ・ブラカン島を出航し目的地のクモサル島へ近付く一行。先生は航海中も魚介類の言葉を研究し、驚くべきことに英語で歌う魚と遭遇したのでした。
英語で歌う魚を発見して驚く先生
英語で歌う魚を発見して驚く先生
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生が大西洋上で採取した銀色フィジットという種類の魚が英語で歌っていることに気が付いた先生はスタビンズ少年を呼んで歌を聞かせます。驚くべきことに、まだ魚介類はおろか動物の言葉も初歩のスタビンズ少年にもその魚が英語で歌っているのがはっきりと聞こえ、その歌以外にもこの魚が発する「禁煙」「おや、ごらん。へんてこなものがいるよ」「トウモロコシに、絵はがきがあるぞ」「ここが出口」「つばをはくべからず」などの英語を聞き取ることが出来ました。そして、この銀色フィジットはどこでこの歌を覚えたのか──歌詞の意味は全くわかっていなかったのですが──自身の生い立ちを話し始めたのでした。
 この魚の故郷は南太平洋のチリ近海で、2510匹家族の一員でした。しかし、生まれてから間もなくクジラの群れに追われて家族は散り散りになり、妹のクリッパと2匹で北へ泳いでようやくクジラやサメから逃れることが出来ました。そしてアメリカ合衆国西海岸の港で休息していた際に2匹とも網で掬い上げられ、水族館で飼われるようになったのでした。水族館の狭い水槽での生活は退屈そのものでしたが、そこで係員の注意喚起や顔馴染みの清掃員がいつも歌っていた歌を(意味はわからないながらも)覚えて退屈を紛らわしていました。しかし、水族館での生活に飽きて1年余りが過ぎたある日、2匹は一か八か死んだふりをして水槽の外へ脱出することを計画します。結果、清掃員は2匹が死んだものと思って水槽から網で掬い上げて海に投げ捨てた(帰してやり)、2匹は再び自由の身となったのでした。
 1839年当時のアメリカ西海岸は今よりも狭く、現在のカリフォルニア州はメキシコ領でした(1848年にテキサスなどと共にメキシコより編入)。現在のオレゴン州とワシントン州に当たるオレゴン・カントリーはアメリカ東部からの入植者が続々と入って来ていた時期で、1818年のアングロ=アメリカン会議に基づき米英の共同所有とされていた時期に当たり、正式にアメリカ領となるのは1848年にオレゴン準州が成立してからとなります。従って、作中の1839年には「アメリカ合衆国西海岸」と呼ばれる地域は存在しなかったことになるのですが、この部分をロフティングの十八番である時代錯誤(アナクロニズム)と見るべきかスタビンズの回顧録として19世紀末から20世紀初頭の時代状況に合わせてそう記述したのかは、どちらとも判断が付きません。
 ただ、主人公のドリトル先生がイギリス人である以上はイギリスが主な舞台となるのは致し方が無いとは言え、発行元のストークス的には「アメリカを舞台にしたエピソードを入れて欲しい」という意向も当然に働いているはずで、その要望を受けてこのエピソードが入れられたのだとすれば、時代背景と多少の矛盾が存在しても大目に見られたのかも知れません。シリーズ全12巻と番外編1巻を通じてドリトル先生自身がアメリカ合衆国は無論のことアメリカ大陸に上陸することは無いのですが、続巻の『郵便局』を始めとしてアメリカ国内の地名が時折、話題に出るのはそう言った事情を反映しているのでしょう。

 銀色フィジットの身の上話が終わった後、先生はこの魚にいくつかの質問します。一つは、グアム近くのネロ深海(マリアナ海溝か)よりも深い海溝が大西洋に存在すると言う仮説について。この質問に、銀色フィジットは「深い穴」と呼ばれ、恐れられている海溝の存在を明らかにします。そして、その「深い穴」には太古から生き長らえる貝類の大ガラス海カタツムリが住んでいるとも。もう一つの質問は、コロンブスが書いた2冊の航海日誌について。1冊は既に発見されており、もう1冊は樽に封印して海に投げ込んだと言われているがその所在を知っているか。フィジットの回答は、その樽は海底を移動して今は「深い穴」にあるというものでした。
 ここで先生がコロンブスの名前を出したのは、遅くとも20世紀の前半まで西洋人の間でコロンブスは「新大陸を“発見”した偉人」と認識されていたことと無関係ではありません。特にロフティングはコロンブスを非常に尊敬していたであろうことが続巻『郵便局』からも伺えるのですが、それは同時に『アフリカゆき』の描写が人種差別的であるとの非難に加えて『航海記』に対する「白豪主義・植民地支配肯定」と言う非難の一因となっている面にも目を向けなければならないでしょう。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(10)──闘牛対決
 ドリトル先生の一行が寄港したカパ・ブランカ島はスペイン領だけあって闘牛が盛んでした。先生は闘牛のような野蛮で残虐なスポーツは大嫌いだと持論を展開して町の有力者と口論になり、遂には闘牛の廃止を賭けて本職の闘牛士と対決することになってしまいます。
古代ローマを思わせる見事な芸当
古代ローマを思わせる見事な芸当
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 島の中心、モンテベルデの町の有力者であるドン・エンリケ・カルデナスは闘牛の素晴らしさと闘牛士がかに勇敢であるかを先生に力説し、遂には闘牛の廃止を賭けて先生と町の闘牛士、ぺピート・デ・マラガと対決することになってしまいます。マタドールの正装は先生の肥満体には窮屈と見え、島の子供たちは先生を見て「ホアン・アガポコ(Juan Hagapoco)!」と囃し立てるのですが、先生の名前"John Dolittle"をスペイン語に意訳した"Juan Hagapoco"の部分は残念ながら井伏訳では再現されていません。一方、バンポはポリネシアからアドバイスを受けて素知らぬ顔でジョリギンキ王国第一王子としてエンリケの前に現れ、先生の勝ちに3000ペセタ(2001年まで使用されていたスペインの通貨)を賭けたのでした。

 カパ・ブランカ島は架空の島ですが、そのモデルになっているのは恐らく1911年にロフティングが首都のハバナから島の東西に伸びる鉄道網の敷設に従事したキューバであろうと思われます。キューバは1902年にスペインから独立したばかりの新興国でしたが、独立と言っても名ばかりで実態は支配者がスペインからアメリカに変わっただけと言うべき状況に在り、アメリカの大企業が島の主力産業であるサトウキビの栽培から製糖までの工程を牛耳っていました。ヒューが関わった鉄道建設計画も、その前に関わったナイジェリアの鉄道建設がイギリスで消費される石炭の運搬を主目的としていたのと同様にアメリカで消費される砂糖の原料運搬を主目的としていたのです。こうしたアメリカ企業の搾取に対するキューバ国民の反発は根強く、何度も反乱が起きた末にバティスタが独裁体制を敷いてアメリカ政府の傀儡政権を樹立しました。そして、1959年にはチェ・ゲバラとフィデル・カストロが傀儡政権打倒を掲げてバティスタを追放するキューバ革命が起きたのです。
 もっとも、メキシコや他の旧スペイン領のカリブ海諸国とは異なり、キューバにおいては植民地時代から闘牛を支配者たるスペインの象徴とみなしていたのか余り盛んには行われなかったようで、独立直前の1901年には正式に廃止されました。従って、ロフティングがキューバで闘牛を観賞して義憤に駆られたと言う事実は認められませんが、第4巻『サーカス』で自国のキツネ狩りに対して憤っているように自国であれ他国であれ余興の為に動物の生命を奪うブラッド・スポーツに対して強い憤りを感じていたことは間違いの無いところです。
 近年では本国のスペインでも闘牛は外国からの非難や他のスポーツ、とりわけサッカーに押されての人気低迷に直面し、1991年にはドリトル先生ゆかりの地でもある(『アフリカゆき』でバーバリ海賊団を解散に追い込んだ)カナリア諸島で正式に廃止されたのを皮切りに、2012年にはバルセロナなどカタルーニャ地方でも全面禁止となっています。

 そして、対決の日がやって来ました。先に先生が「一度に6頭の牛を相手にする」と宣言し、普段は1頭の牛しか相手にしないぺピートは怖じ気づいて逃げ出してしまいました。先生はもちろん事前に牛と打ち合わせをしているので何も恐れることは無く、牛の角を掴んで宙返りをしたりとてもあの肥満体からは想像も付かないアクションを次々に披露します。
 こうして、闘牛対決は先生が勝利しカパ・ブランカ島の闘牛廃止が決定しました。バンポがエンリケから掛金の3000ペセタを受け取ると、一行は港の近くの市場で買えるだけ食糧を買い込みました。しかし、間もなく闘牛廃止に抗議する群衆が暴徒と化して港へ押し寄せたので、一行は急いで出港せざるを得ませんでした──目的地のクモサル島までの船旅は、あと少しです。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 03:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(9)──バンポ王子の来訪
 次の航海の目的地はクモサル島に決まったものの、船の操舵に必要な人員はまだ確保の目処が立ちません。そこへオックスフォード大学に留学しているあの王子が先生を訪ねて来て二つ返事で航海への動向を承諾し、ようやく長い航海が始まったのでした。
ベン・ブッチャー
ベン・ブッチャー「船長はどこだ?」
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生とスタビンズ少年がいそいそと荷物を船に積み込んでいると、いかにも海の男然とした一人の巨漢が声をかけて来ました。その男、ベン・ブッチャー(Ben Butcher)は本人曰く「腕利きの航海士」で、職にあぶれていた所を「先生が船の乗組員を探している」と聞き付けて売り込みに来たのですが、ブッチャーの傲岸不遜な態度に先生もスタビンズも呆れ返るばかりで、先生はブッチャーの乗船を断ることにしました。ブッチャーはと悪態を吐いてその場を立ち去りますが、その次にスーツを着込んだ──しかし、靴を履いておらず裸足で歩き緑色の日傘を差した黒人の青年が「こちらはジョン・ドリトル医学博士の船ですか」とスタビンズに尋ねて来ました。そうです。ポリネシアがオックスフォード大学に留学していると言っていたジョリギンキ王国の第一王子、バンポ・カアブウブウ(井伏訳では「カアブウブウ・バンポ」と姓名が逆になっていますが、ここでは原文の"Bumpo Kahbooboo"に従います。日本人と同じで「姓-名」の順だと思われます)です。バンポは航海への同行を二つ返事で承諾し、ようやく船の操舵に必要な3人が揃いました。ドリトル家の動物たちはアフリカから帰って来たばかりのポリネシアとチーチー、そして直前の旅行には連れて行ってもらえず「私もいっしょに行きたいな」と強く同行を志願したジップを連れて行くことになりました。ダブダブ、ガブガブ、トートー、白ネズミ、オシツオサレツはパドルビーで留守番です。
 しかし、船が出発してからほどなく密航者が次々に顔を出して一行を困らせる事態になってしまいました。最初に、何故か出航の際に顔を見せなかった猫肉屋のマシュー・マグが発見され「外国を旅行したい衝動にかられて船に乗り込んだものの、持病の神経痛に耐え切れなかった」と弁解しました。次に、あの巡回裁判で無罪を勝ち取った後に復縁した世捨て人のルカとその夫人が見つかりました。二人は「あの裁判ですっかり時の人となり、パドルビーに居づらくなったので他の場所へ移住しようと思った」と言うのですが、奥さんがひどい船酔いに苦しむのでそろそろ船を降りたいと言いました。先生は仕方なく3人をイングランドの西端、コーンウォール半島のペンザンスという港町で降ろして一泊することにします。その際、怒るでもなくマシューにはパドルビーに近い西部の港町・ブリストル行きの馬車代を、ルカ夫妻にはペンザンスの友人に宛てた紹介状を書いて家と仕事を世話してもらうように言い聞かせたのでした。
 翌日、船は再びクモサル島へ向けて出港しますが今度はあの厄介者のベン・ブッチャーが食糧庫に隠れているのが発見されます。しかも、この巨漢は保存用の塩漬け肉をすっかり食べ尽くしてしまっていました。この事態にポリネシアの発案でブッチャーを食堂へ誘い込み、外側から鍵を掛けて監禁してしまいます。そして、食糧を調達する為にやむなくスペイン領のカパ・ブランカ島へ寄港して痩せ細ったブッチャーをモンテベルデ港で降ろし、一行はしばらくモンテベルデの町に滞在することになったのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(8)──運まかせの旅行
 船の操舵に必要な人員の確保が振り出しに戻ったところで先生が到着を待ちわびていた紫極楽鳥のミランダがようやくパドルビーに到着しますが、先生は彼女がもたらしたニュースに落胆します。それでも気を取り直し、次の航海の行き先を決める「運まかせの旅行」の儀式を執り行ったところ、鉛筆が示した行き先は──。
紫極楽鳥のミランダ
紫極楽鳥のミランダ(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 歴史的な巡回裁判の喧騒を抜け出して先生とスタビンズ少年がオクスンソープ通りのドリトル邸に戻って来ると、そこには先生が待ちわびていた来客──アマゾンの熱帯雨林から毎年夏にイギリスへ先生を訪ねて来る紫極楽鳥のミランダが到着していましたが、彼女はさめざめと泣いていました。ポリネシアが言うには、ミランダが到着するやいなや庭にたむろしていた口の悪いロンドンっ子のスズメ、チープサイド(Cheapside)に「おまえさんなんか、ここの庭に来るもんじゃないよ……婦人装身具店の陳列窓の中にいればいいんだよ」と中傷されたと言うのです。先生は怒ってチープサイドを追い返し、落胆するミランダをなだめますが彼女がひどく落ち込んでいる理由はチープサイドの中傷だけが原因ではないようでした。チープサイドは、ここでは単に「嫌な奴」として顔見せだけの登場ですが次巻『ドリトル先生の郵便局』以降ではドリトル家の動物たちも顔負けの活躍を見せてくれるようになります。
 ミランダが落ち込んでいるもう一つの理由は、ロング・アローが消息不明になったことでした。アンデス山麓に居を構えてはいるものの、ドリトル先生以上に方々を旅して回り西洋人には未だ知られていない昆虫や植物の知識に長けているロング・アローはしばしば、足取りが掴めなくなるのですが南米の鳥たちが上空から狩りの姿を見つけるとその噂はすぐにミランダの所へも届き、ドリトル先生は彼女を通じて西洋人の多くの学者には全く存在を知られていない偉大な博物学の大家について知っていたのでした。ミランダが言うには、ロング・アローの姿が最後に確認されたのは南米大陸の沖合に浮かぶクモサル島(Spidermonkey Island)だと言うことでしたが、その島から外に出た形跡が無いと言うのです。
 この、ミランダがバッドニュースをもたらしてそれが旅の動機になると言う展開は前巻『アフリカゆき』で季節外れのツバメがアフリカの猿たちの危機を知らせて来た時と非常によく似ています。ロフティングはこれに限らずシリーズ中、過去に用いられたシチュエーションをパターン化して再利用を繰り返すことが少なくないのですが、特にシリーズ7 - 9巻(いわゆる「月世界三部作」)の頃は本人もそれに気付き、世間では依然として高評価で人気は健在だったにも関わらず創作者としての限界を感じ、かなり苦しんだと言われています。

 そして、先生はバッドニュースを振り切るかのように次の旅行の行き先を決める恒例の儀式をやることに決めます。その儀式は運まかせの旅行(Blind travel, 直訳すれば「目隠し旅行」でしょうか。昔は別の、差別用語を含む訳語が主に使われていましたがここでは岩波の2000年改版での修正に従います)と呼ばれるもので、目を閉じながら地図帳(一枚物の地図ではありません)を拡げてページを早めくりし「ここだ」と思った場所に鉛筆を突き立てて先端が示した場所を目的地にすると言うのが基本ルールです。特例として「過去に一度でも行ったことのある場所は対象外」とされています。
 先生がこの遊びを始めたのは「妹のサラと同居する前」だと言うので、故郷のパドルビーを離れて大学(第4巻『サーカス』で改めて解説しますが、先生の母校はイングランド北部にあり、西部のパドルビーから通学出来るような場所ではありません)に通っていた頃だと思われます。当時から愛用しているという地図帳は1808年にスコットランド(グレートブリテン島の北部、連合王国を構成する国の一つ)のエディンバラで発行されたもので、最初に太陽系(海王星の発見は作中の1839年から7年後の1846年で、天王星が太陽系の一番外にある惑星だと思われていました)、その次に北半球と南半球(正射図法を用いているのでしょう)、太平洋や大西洋などの海洋、大陸、そして各国図の順で様々な地図が掲載されています。
 スタビンズ少年は物珍しそうに地図を眺めながら、先生に例えば北極点が行き先に決まったらどうなるのかと聞いてみました。ここで先生は「1809年4月に北極点へ行ったことがある」と打ち明けます。先生はそこで北極点の地下に大量の石炭が埋まっていることをホッキョクグマに教わったものの、そのことが知れ渡ったら人間が次々にやって来て乱開発で彼らの住処が荒らされるに違いないと思って公表しないことを約束したと言うのです。「しかし、前巻『アフリカゆき』でのポリネシアの年齢から逆算すると先生か動物語を教わったのは1820年代後半から30年代前半なのでは?」と言う突っ込みはさておき、儀式が始まりました。そして、スタビンズ少年が突き立てた鉛筆の先端は──ロング・アローが消息を絶ったクモサル島を指し示していたのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(7)──巡回裁判
 次の航海の準備が始まり、先生は新しい船を調達しました。新しい船の操舵は3人で行わなければならないので、先生とスタビンズ少年は町外れに住む世捨て人のルカ(Luke the Hermit)を訪ねます。しかし、ルカは15年前に起きた殺人事件の容疑者として逮捕され、間もなく巡回裁判が始まろうとしていたのでした──。
巡回裁判
巡回裁判(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生は毎年、夏にパドルビーを訪ねて来る紫極楽鳥のミランダ(Miranda, the Purple Bird-of-Paradise)からロング・アローの近況を聞かされているのですが、1839年の夏は例年よりミランダの到着が遅いので次の旅行先はまだ決まっていないものの航海の準備を始めることにします。最初に、船の調達を貝掘りのジョーに相談して新しい船・シギ丸(Curlew, 「ダイシャクシギ号」とも)を手配してもらいました。しかし、シギ丸は3人乗りで操舵には1人足りません。猫肉屋のマシュー・マグは持病を抱えているので候補から外れ、先生とスタビンズの共通の知人である世捨て人のルカが候補になりました。
 2人は早速、ジップを連れて町外れにあるルカの家を訪ねてみますがルカは不在で飼い犬のブルドッグ・ボッブだけが取り残されていました。ジップは以前に口外しないことを約束してボッブからルカが15年前にパドルビーへ移り住んだ理由を知らされていたのですが、今まさにその理由──かつて、ルカがメキシコで金の露天掘りを行っていた際に一人占めを目論んで仲間のビルを謀殺した殺人容疑で逮捕され、間もなくパドルビーの巡回裁判所で裁判が始まろうとしているというのです。
 先生はルカと面会し、その後で弁護人のパーシー・ジェンキンズにある提案をしたところ、ジェンキンズ弁護士はその突拍子も無い提案に賛同しました。その提案とは、事件の目撃者であるボッブの証言を先生が通訳するというものです。
 検察官はルカとビルの仲間だったメンドーサを証人として出廷させ、事件が金の一人占めを目論んだルカの単独犯であると主張しましたがジェンキンズ弁護士が裁判長にボッブの目撃証言を採用するよう提案し、裁判長は条件付きでこの提案を受理します。それから間もなく、裁判所の職員が裁判長の愛犬を連れて来て先生はその犬から裁判長が夕飯に何を食べたのかを聞き出したので、裁判長は面妖な顔をしながらもボッブを証言台に立たせることを認めました。
 そして、ボッブは事件の一部始終について証言を始めました──1824年11月29日、事件で死亡したビルに検察側証人のメンドーサが「ルカを殺して2人で金を山分けしよう」と謀議を持ちかけていたのを聞き付けたボッブは、ルカがビルの乗り込んだバケツを引き上げている途中でメンドーサが背後からルカを狙撃しようと銃を構えていることに気付いてルカの足に噛み付きました。メンドーサはルカがビルを引き上げていることに気付いていなかったのです。ルカは驚いてバケツを引き上げるロープから手を離し、ビルは露天掘りの穴底で転落死してしまいました。
 結局、この証言の状況に不自然な点が無かったことで(本来ならば業務上過失致死は免れないところを)ルカの正当防衛が認められたのか無罪の判決が下されます。判決が下される時点で検察側証人だったメンドーサは裁判所から逃亡してしまっていたのですが、メンドーサに限らず本シリーズ中に登場する悪人はほとんどが法に基づく裁きを受けること無く表舞台から姿を消してしまうのは、ロフティングが「人が人を裁く」と言う行為に対して強い忌避感を持っていたことの表れであるように思えます。
 無罪判決を勝ち取って一躍、時の人となったルカは別れていた夫人とも縁を戻したのですが、そのせいでとても航海に同行して欲しいと頼めるような状況ではなくなってしまい、もう1人の同行者探しは振り出しに戻ってしまうのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──幻のパンフレット「ドリトル先生の出来るまで」
 1920年に刊行され、たちまち全米で話題作となった『ドリトル先生アフリカゆき』の反響を受けて、発行元のF・A・ストークスはロフティングに続編の執筆を依頼します。そうして1922年に刊行されたのがシリーズ第2巻の『ドリトル先生航海記』で、ストークスは『航海記』の発売前から大々的にPR活動を行っていました。
 現在では貴重な1922年の案内用パンフレット「ドリトル先生の出来るまで The Making of Doctor Dolittle」は発行から90年余を経た現在、インターネット上で無償公開されています。

「ドリトル先生の出来るまで」(1922年)表紙
「ドリトル先生の出来るまで」表紙(ヒュー・ロフティング画、1922年)


 このパンフレットで注目すべき点は、何と言っても作者であるヒュー・ロフティングの自画像が掲載されていることでしょう。表紙でポーズを取っている豚のガブガブをキャンバスに模写している人物はドリトル先生のように見えなくもありませんが、鼻はあの特徴的な団子鼻でなく尖っていて体格もどことなくスマートなので、ヒューの自画像に違いありません。

ヒュー・ロフティング近影
ヒュー・ロフティング近影


 2ページ目は新聞や雑誌に掲載された『アフリカゆき』の書評。3ページ目は出版社に寄せられた全米各地の読者からのファンレターが掲載されており、6ページ目に『航海記』のあらすじ紹介、7・8ページ目に再び『アフリカゆき』の書評が掲載されています。
 4ページ目にはヒューの経歴紹介と、ニューヨークから1921年頃に引っ越したコネチカット州マディソンに在った新居の様子が掲載されており、アイリッシュ・ウルフハウンドを1頭とカナリアを1世帯などドリトル先生には及ばないながらも、多数の動物を飼っていたことが記されています。5ページ目の自己紹介では「晴れた日は寝室よりも屋外で虫の声を聴きながら寝る方が落ち着く」と、非常にアウトドア志向だったことがうかがえます。

アウトドア志向
アウトドア志向(「ドリトル先生の出来るまで」掲載の
自己紹介より、ヒュー・ロフティング画)


 また、この自己紹介では後年にヒューの評伝を書いたブリッシェン、シュミットの両名がいずれも誤っていたロフティング家の出自に関するヒュー本人の貴重な言及があり「先祖は17世紀に宗教弾圧でアムステルダムを追放された」と述べています。もう少し具体的に言うと長年、カトリック国だったスペインの支配下に在ったネーデルラント、つまりオランダがスペインの支配を脱してネーデルラント連邦共和国として独立し、プロテスタントの一派であるカルヴァン派を国教に定めた際にそれまでの支配層だったカトリックを禁止したことを指しているのでしょう。もっとも、ロフティング家は先祖代々の敬虔なカトリック信徒だったという訳ではないようで、ヒューの祖父であるジョン・トーマスは国勢調査の記載によれば洗礼を受けた教会も妻のメアリー・アンと結婚式を挙げた教会も国教会(アングリカン・チャーチ)でした。しかし、メアリー・アンはアイルランド南部のティペラリー出身でカトリック信徒だったと見られ、ヒューの父である次男のジョン・ブライアンら子供たちは母親の意向でカトリックの洗礼を受けたようです。つまり、ヒューの血統はダブリン出身の純然たるアイルランド人である母・エリザベスと合わせてアイルランド系が4分の3を占めていたことになり、ブリッシェンとシュミットが(ブリッシェンが「母親はイングランド人」、シュミットが「ロフティングは母方の姓」としたのは完全な誤りであったにしても)ジョン・ブライアンの血統をアイルランド系としたのはこの祖母の存在が念頭に有ったのかも知れません。
 ところで、ヒューが言うところの「オランダを追放された先祖」の職業は機械工で、世界の工業史に残る発明をした人物なのですがその話は日を改めて書く予定です。

 次回より、再び『航海記』の解説を再開します。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(2)──バークシャー州メイデンヘッド
『ドリトル先生』シリーズの作者、ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting)は、1886年1月14日にイングランド南東部のバークシャー州(Berkshire)にあるメイデンヘッド(Maidenhead)という町で生まれました。しかし、現在ではメイデンヘッドのみならずイギリス全域でロフティングの知名度は存命時に比べて低下しており、地元でも「郷土作家」としては扱われていないようです。


ドリトル先生の世界』(国書刊行会、2011年)の著者、南條竹則氏は日本航空の機内誌『SKYWARD』2008年4月号に掲載された「イギリス ドリトル先生に誘われて」で現地を訪問しており、その記事や新潮社『考える人』2010年冬号特集記事、そして『ドリトル先生の世界』などで現地取材について詳述しています。氏によれば、メイデンヘッドの公立図書館にロフティングや『ドリトル先生』についてまとめた一冊のファイルが保管されており、中には出生証明書の現物(岩波少年文庫の『秘密の湖』下巻に2000年改版より掲載されている解説「ロフティングの出生証明書」で、新井満氏が述べているものと同じでしょう)や新聞記事の切り抜き、主にポーランドや旧ユーゴスラビアのファンから送られて来たファンレターなどがまとめられているそうです。
 出生証明書によれば、ヒューの生家はメイデンヘッドのノーフォーク・ロード(Norfolrk Road)に面していたそうですがその家が現存するのか、また現存しないにしてもどの場所に建っていたのかはわからないと言うことです。

ノーフォーク・ロードの位置 大きな地図で見る


 当のヒュー自身も生前にこのメイデンヘッドという場所を「故郷」として強く意識していたかは疑問の余地があります。何故なら、1881年から1911年までの国勢調査記録を調べてみるとロフティング家の五男一女は以下のように出生地がそれぞれ異なっており、父のジョン・ブライアン・ロフティングもメイデンヘッドではなくロンドン北部のハイゲートで1857年に生まれたとされているからです。
  • 長男:ヒラリー(Hilary Lofting, 1881 - 1939)‥ロンドン南部、ノーウッド生まれ。
  • 次男:ジョン・ヘンリー(John Henry Lofting, 1882 - ?)‥シュロップシャー州オスウェストリー生まれ。
  • 三男:エリック・エドワード(Eric Edward Lofting, 1884 - 1950?)‥バークシャー州クッカム生まれ。
  • 四男:ヒュー・ジョン(Hugh John Lofting, 1886 - 1947)‥バークシャー州メイデンヘッド生まれ。
  • 五男:フランシス・バジル(Francis Basil Lofting, 1891 - ?)‥ロンドン南部、バラム生まれ。
  • 長女:メアリー・アンジェラ・エリザベス(Mary Angela Elizabeth Lofting, 1892 - 1982)‥フランシスと同じバラム生まれ。

 また、弟のフランシスが生まれた1891年の国勢調査記録によるとロフティング家は当時、ロンドン南部のストリーサムに居住していたものの、何故か当時5歳のヒューと7歳の三兄・エリックはイングランド南部のボーンマス(Bournemouth)という町に住んでいた祖父のジョン・トーマス(John Thomas Lofting, 1832 - 1915)宅に預けられていたことがわかります。ストリーサムの家が手狭なことと、弟の出産が近かったことが理由かも知れません。

 ジョン・ブライアンの職業は長兄のヒラリーが5月に生まれる直前に実施された1881年の国勢調査では"Staircase Maker (Wood)"、つまり「木製螺旋階段職人」となっていますが、後に王立サーベイヤー協会の認定資格である積算士(Quantity Surveyor)の資格を取って1933年に亡くなるまでこの仕事を家業としていたようです。積算士というのは発注者が提示する予算の内訳を見積もって施工業者と価格交渉を行う技能職で、何百年も同じ建物を補修しながら使い続けるヨーロッパならではと言える職業です。特にイギリスでは、王立協会公認資格として安定した地位と収入が保証される伝統的な職業となっています。
 ロフティング家では当初、ケンブリッジ大学構成校の一つである聖エドムント・カレッジを卒業して土木技師となった長男のヒラリーが家業を継ぐはずだったものの、ヒラリーは王立協会の認定試験合格が叶わなかったようで1915年にオーストラリアへ移住し、代わりに次男のジョン・ヘンリーが資格を取って家業を継いだようです。また、三男のエリックも建築家となりイングランド北部のニューカッスル・アポン・タインに建つ聖ジェームズ&聖バジル教会(The Church of St. James and St. Basil地図)など、エリックが設計した建築物がイングランド北部やスコットランドに何点か現存しています。
 積算士は各地で建築・補修の需要があれば機動的に対応しなければならない職業のため、ロフティング家の子供たちも一箇所に留まらずイギリス各地を転々としていたのでしょう。ヒューの出生地であるメイデンヘッドも、パドルビーの所在地とされるスロップシャー州(Slopshire)の名前の由来と見られ次兄のジョン・ヘンリーが生まれたシュロップシャー州(Shropshire)も海には面していませんが『ドリトル先生航海記』の冒頭でトーマス・スタビンズ少年がパドルビーの運河で往来する船を眺めていた光景は、もしかするとヒューが祖父宅に預けられていた頃に見たボーンマスの光景がモデルの一つになっているのかも知れません。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(1)──2冊の伝記
『ドリトル先生』シリーズの作者、ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting, 1886 - 1947)の伝記は、現在のところ日本では書籍の形では出版されていません。イギリスとアメリカではそれぞれ、1冊ずつ出版されているので今回はその2冊の伝記を紹介します。


 まず、1968年にイギリスのボドリー・ヘッドより刊行されたエドワード・ブリッシェン(Edward Blishen, 1920 - 1996)の評伝から。

 タイトルを見ていただければわかるように、本書はロフティングだけでなくジェフリー・トリーズ(Geoffrey Trease, 1909 - 1998)、ジェームズ・マシュー・バリー(James Matthew Barrie, 1860 - 1937)の評伝と合わせて1冊の本になっています。バリーの代表作は今更、説明不要の『ピーター・パン』(1908 - 1911年発表)で、もう一人のトリーズは『この湖にボート禁止 No Boats on Bannermere』で知られています。
 ブリッシェンはレオン・ガーフィールド(Leon Garfield, 1927 - 1996)との共著『ギリシア神話物語 The God Beneath the Sea』で1970年にカーネギー賞を受賞した他、チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens, 1812 - 1870)を始め数多くの作家の伝記を執筆しています。ロフティングの評伝もその中の一点として書かれたものですが、執筆された時期はアメリカで『アフリカゆき』における描写が人種差別的であるとして糾弾されていた時期に重なります。
 評伝の部分に関しては、次男のクリストファー(Christopher Clement Lofting, 1936 - )からの取材内容を含むものの参照文献が少なく、母親をイングランド人とするなど両親の家系に関する部分を始めとしていくつかの事実関係に誤りが見られます。

 次に、1992年にアメリカのトウェイン・パブリッシャーズより刊行されたゲイリー・シュミット(Gary D. Schmidt, 1957 - )の評伝。ブリッシェンのものと異なり、ロフティングのみを単独で扱った書籍は2012年現在でこれ一点のみです。

 シュミットはカルヴィン大学文学部教授で、自身も『最高の子 牛小屋と僕と大統領』(2005年)など何点かの小説を執筆しています。
 評伝の部分はブリッシェンのものと分量的に大きな差異は有りませんが、作品論に関してはブリッシェンのものよりも大きなウェイトを占めています。評伝の内容に関しては、次男のクリストファーだけでなく長女のエリザベス(Elizabeth Mary "Lynne" Lofting Mutrux, 1913 - 2002)と長男のコリン(Colin McMahon Lofting, 1915 - 1997)からも取材を行っている点は特筆すべきでしょう。ただ、ブリッシェンが両親の出自を誤っているのに引きずられたのか「ロフティング姓は母方のもの」とするのは誤りで、母方の旧姓はギャノン(Gannon)であることが1861年から1911年まで6回分の国勢調査記録などの資料により確認されます。別の機会に詳しく解説する予定ですがロフティング姓は紛れも無く父方のものであり、1920年にアメリカで行われた国勢調査記録でもヒュー自身が両親の出自について父のジョン・ブライアン・ロフティング(John Brien Lofting, 1857 - 1933)はイングランド人、母のエリザベス・A・ギャノン・ロフティング(Elizabeth A. Gannon Lofting, 1855 - 1939)はアイルランド人と記載しています。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 04:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(6)──ドリトル先生とダーウィン
 スタビンズ少年がドリトル先生の助手になった時期、先生は魚介類の言葉を研究していました。しかし、旅先から連れて帰って来た珍しい魚と貝の中間種、イフ・ワフ(Wiff-Waff)の言語解析では思うような成果を挙げられず研究は行き詰まってしまいます。
女装したチーチーの帰還
女装したチーチーの帰還(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 アフリカからポリネシアが帰って来てからほどなく、チーチーもドリトル家へ帰って来ます。チーチーの場合は、ポリネシアのように飛べる訳ではないので女物の服を調達してイギリス行きの船に密航し、船内で何度も怪しまれながらも持ち前の機転で切り抜けてようやく懐かしのパドルビーにたどり着いたのでした。

 さて、ドリトル先生がスタビンズ少年と知り合う以前から、先生は小型の魚介類の言葉を研究していました。それ以前から『アフリカゆき』でバーバリ海賊団を懲らしめた時のようにサメのような大型種であれば会話が出来たのですが、先生の飽くなき探求心はさらに小さな魚や貝との会話に向けられていたのです。直前までの旅行も珍しい魚と貝の中間種であるイフ・ワフを持ち帰り、その言語を解析するためでした。しかし、このイフ・ワフは余り知能が高くなく「暑い」「寒い」など数種類の感情表現をするのが精いっぱいだと言うことで、研究は行き詰まってしまいます。
 スタビンズが先生に弟子入りを志願した際、スタビンズは母親が自分に基礎的な読み書きを習わせたいが貧しくて学校に通えないことを気にしている旨を打ち明けると、先生はこう言いました。
「さよう、どんなものかな。だが、読み書きができるのは、けっこうなことだ。しかし、博物学者にも、いろいろある。たとえば、いま人のうわさにうるさい、あの若いチャールズ・ダーウィンという男は、ケンブリッジ大学の卒業生で、読み書きにひいでておる。それから、キュヴィエーは先生をしておった。だが、よいかね、その連中の中でも、いちばんえらい博物学者は、じぶんの名まえさえ書けないし、ABCも読めないのだ……まことにふしぎな人物だ。名まえはロング・アローといって、ゴールデン・アローのせがれだ。アメリカ・インディアンでね。」

(訳・井伏鱒二)
 先生がチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin. 1809 - 1882)のことを「いま人のうわさにうるさい」と述べているのは1831年から5年を費やしてイギリス海軍の測量船・ビーグル号で世界一周を敢行し、本作の時代設定である1839年頃には学界の内外を問わず一躍、時の人としてもてはやされていたことを指しているのは言うまでもありません。この航海に関する記録が出版されたのは1842年ですが先生は1837年以降に順次、学界で出回っていた学術論文には接していたはずで、ダーウィンの文才は高く評価しているものの学者としての姿勢は余り高く評価していないようにも取れます。これは先生が学会内で異端ないし変人扱いされていることが関係している訳でも新進気鋭の博物学者に対して一方的にライバル意識を持っている訳でもなく、他の博物学者がいくら世間に受ける発表をしたところで、研究対象たる動物とのコミュニケートが取れる真の学者は自分やロング・アローなどごく少数しか存在しないと言う自負がそうさせているように取れなくもありません。河合祥一郎の新訳版では訳者あとがきにおいて、あらゆる生命は「神様がお創りになった」と考える敬虔なキリスト教徒であるドリトル先生はダーウィンが後に提唱した自然選択(適者生存)説に冷たさを感じたのではないかと述べていますが、筆者はこの読み方に対して「ちょっと違うかな」と感じています。何しろ、シリーズ全巻を通じて教会で礼拝を捧げる描写は皆無に等しく、聖書からの引用句も稀なことが「キリスト教徒なら知ってて当然」な知識や経験を前提とした描写の多い欧米の作品と一線を画し、キリスト教国でない日本で多くの愛読者を獲得した理由の一つになっていると感じるからです。また、作者のロフティング自身はイングランドにおいてマイノリティに属するカトリック信徒だったものの、晩年には信仰の放棄にまでは至らずともキリスト教そのものに対して懐疑的になっていたことが、特に第10巻『秘密の湖』の記述に色濃く現れているように思えます。

 ダーウィンと合わせて名前を挙げられていたジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier, 1769 - 1832)は本作の年代には既に故人となっていた人物で、生前はコレージュ・ド・フランスで教鞭を執っていました。また、前巻『アフリカゆき』でオシツオサレツについて著書の『博物誌』に何か記述を残していないかとして先生が名前を挙げたビュフォン(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon, 1707 - 1788)も実在する博物学者です。ところで、アフリカの猿がオシツオサレツを先生に寄贈する際、他にイグアナとオカピが候補に挙げられていましたが、チーチーが「ロンドン動物園で飼われている」と言っていたイグアナの生息地は主に南米で、アフリカではマダガスカル島に生息地が限られています。チーチーが「アントワープ動物園にいた」と言っていたオカピは19世紀には知られておらず、もっと後の1901年にザイール高地(現在のコンゴ民主共和国)で初めて確認された動物で、アントワープ動物園での飼育開始は1919年のことでした。『アフリカゆき』の完成直前にこのニュースが報じられたことが、ロフティングの十八番である時代錯誤(アナクロニズム)を引き起こした一例と言えるでしょう。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 18:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(5)──ドリトル家の庭園
 ドリトル家の広大な庭園では、数多くの動物や昆虫が共存していました。その設計に先生の徹底した思想が貫かれていることにスタビンズ少年は感心し、遂には弟子入りを志願します。
ポリネシアに指導を受けるスタビンズ少年
ポリネシアに指導を受けるスタビンズ少年
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生の人柄にすっかり心酔したスタビンズ少年は連日、ドリトル家へ通うようになります。そして、かつて先生がそうであったようにポリネシアから動物語の基礎を習うよえうになり、先生には遠く及ばないながらも少しずつ動物語を習得して行くのでした。

 さて、前作『アフリカゆき』でも若干、触れられていたように妹のサラがドリトル家を飛び出してお嫁に行ってしまう以前から、さすがは英国紳士と言うべきか庭の手入れだけはドリトル先生がこだわりを持って直に行っていました。
 それから長い月日が経ち、ドリトル家の広大な庭園は博物学者としての研究素材の集積と動物たちにとって理想的な環境の実証実験を行う場に生まれ変わっていました。スタビンズ少年は先生の案内で庭園を見て回り、昆虫や植物を飼育する為の温室や19世紀前半にはまだ珍しかったポンプ付きの水槽が立ち並ぶ小規模な水族館など最新鋭の設備に感心させられます。
 また、この庭にはリスやアナグマなど数多くの小動物、馬や牛、それからかつてアフリカの猿から先生に贈られた双頭のオシツオサレツなども全て、檻に閉じ込められることも無く放し飼いにされていました。その光景に違和感を持ったスタビンズ少年は、不意に尋ねます。
「ライオンやトラも、いるんですか?」と、私は先生とならんで歩きながら、いいました。
「いや、いない。」と、先生はいいました。「ここでは、飼うことができないのだ。いや、飼うことができるとしても、わしは飼わないつもりだ。わしの流儀でゆくと、世界じゅうどこをさがしても、おりにとじこめられたライオンやトラは、一頭もいてはならんのだ。かれらは、とじこめられるのがきらいなのだ。幸福でもないし、けっしておちつかない。ライオンやトラのような動物は、じぶんの生まれた国を、いつも忘れることができないのだ。それは、かれらの目を見ればわかる……おりの中では、なにがあたえられるだろう。ねえきみ、そもそも、なにがあるというのだろう。鉄格子のはまった、みすぼらしいおり、一日一回なげこまれる死肉のきれ、それから、口をぽかんとあけて、かれらを見にやってくるたくさんのまぬけども。ああ、スタビンズ君! ライオンやトラは、けっして動物園なんかに入れてはいけないのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 この場面で強く打ち出されているドリトル先生の、ひいては作者であるロフティングの思想は後の第4巻『サーカス』や第6巻『キャラバン』の伏線とも言えるものになっています。時系列上はサーカス団時代の方が『航海記』よりも以前の出来事なので、先生がかつてサーカス団で寝食を共にした巡回動物園のライオンやヒョウのことを思い浮かべていたのは間違い無いでしょう。理想論の吐露が鼻についてなんとなく読み流してしまう読者も多そうな場面ですが、後の巻で先生がこの思想に基づいて不潔な巡回動物園で飼われていた動物たちの福祉を常に優先し、サーカス団の解散後はそれぞれの動物を故郷に送り返すところまで理想を貫徹・実践したうえでの発言であったことを知ると、飽くまでもフィクション上の出来事とは言えこの発言が単なる理想論ではなかったと言うことに読者は気付かされるのです。

 後日、スタビンズ少年は正式に先生への弟子入りを志願します。両親は10歳にも満たない一人息子が余りにも早く一人立ちを宣言したことに戸惑いますが、家が貧しく学校に通わせられないことを気にしていたのでドリトル先生の弟子にしてもらえるのならこれほど名誉なことは無いと賛成し、息子を送り出してくれました。こうして、スタビンズ少年はドリトル家に下宿して先生の研究を手伝いながら初歩的な勉強を教えてもらい、またポリネシアからは引き続き動物語の基礎を教わる生活が始まりました。

 ヒュー・ロフティングはスタビンズ少年よりも早く8歳の時には当時、ロンドンの郊外に住んでいた両親の元を離れてダービーシャー州の寄宿校に入学し、11年間をそこで過ごしました。卒業する頃には5歳年上の長兄、ヒラリー・ロフティング(Hilary Lofting, 1881 - 1939)が聖エドムント・カレッジ(ケンブリッジ大学構成校の一つ)を卒業して土木技師になりイギリスを離れて海外で仕事をしていたので、幼少期から世界各国を自分の足で回りたいと思っていたヒューも長兄と同じ土木技師を志したようです。
 そして、パドルビーの運河で見たことも無い遠くの国と行き来する船を眺めるのが趣味だったスタビンズ少年にもドリトル先生に弟子入りしてからほどなく、初めての航海の機会が訪れるのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 14:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(4)──ポリネシアの帰還
 スタビンズ少年がジョン・ドリトル先生と初めて出会い、すっかり心酔した晩はアフリカ生まれのあの鳥が舞い戻って来た晩でもありました。
燭台を器用に運ぶダブダブ
燭台を器用に運ぶダブダブ(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ずぶ濡れになったスタビンズ少年はドリトル先生に言われるがまま屋敷へ上がり、雨宿りをさせてもらうことになります。そして、先生がアヒル語で指示を出すとダブダブが火を灯した蝋燭を燭台に立てて片足で器用に掴み、階段を下りて来たのでスタビンズは驚きました。
 そして、ようやく雨が上がり先生がスタビンズを家まで送ってくれることになった矢先に、前作『アフリカゆき』で生まれ故郷のアフリカに残ったはずのポリネシアが帰って来ます。アフリカでの生活が退屈になって、イギリスへ戻って来たというポリネシアは先生にバンポが長年、探し求めていた眠り姫を見つけて結婚しその相手はジョリギンキでバンパァ王太子妃(Crown princess BumPAH)と呼ばれていること──この、原文でポリネシアが特に強調した「パァ」を強く発音する云々の部分は、井伏訳では単に「王子夫人」とされていますが──や、そのバンポがイギリスのオックスフォード大学に留学していることなどを先生に話して聞かせます。とても長生きで記憶力の良いポリネシアはもちろんスタビンズ少年のことも知っていて「生まれたばかりのスタビンズは猿みたいにみっともない赤ちゃんだった」と振り返るのでした。
 スタビンズ家で先生は大変に歓迎されました。父親のジェイコブにとって先生は古くからのお得意先の一人で、また先生もジェイコブの職人芸を高く評価していたのですが、ジェイコブも母親も(世間では変人扱いされることも少なくない)ドリトル先生を大変な名士だと思っているので、まさかその先生が自分の一人息子をこんなに褒めてくれるなんてと望外の喜びを感じたのです。そして、スタビンズ少年はようやく怪我をしたリスを先生に診察してもらうことが出来たのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(3)──偉い大人、偉そうな大人
 パドルビーの町に住む人々から博物学者にして世界最高の獣医であるジョン・ドリトル先生の話を聞いたスタビンズ少年はオクスンソープ通りに面したドリトル家の屋敷を訪ねますが、先生は不在でした。それでも諦め切れず、何日も通い続けてとうとうある日の夕方に激しい雷雨の中で先生とスタビンズ少年は運命的な出会いを果たします。
ドリトル先生とスタビンズ少年の出会い
ドリトル先生とスタビンズ少年の出会い(ヒュー・ロフティング画、
オルガ・フリッカー編『ドリトル先生物語選集』より)

 その月曜日は昼から曇り空で、今にも雨が降りそうな天気でした。スタビンズ少年は父親のお使いでベロス大佐に修繕を頼まれた靴を大佐の家へ持って行き、そのまままっすぐには帰らずこのところすっかり習慣となってしまったのに従いオクスンソープ通りのドリトル家の様子を見に行くことにします。その道すがらスタビンズはベロス大佐に出会うのですが、スタビンズが時間を訪ねると大佐はさも迷惑そうな顔でこう返答しました。
「おまえはそもそも……このわしが、おまえごとき子どもに時間をきかれたとて、それで、わざわざ、外套のボタンをはずせると思うのか。」

(訳・井伏鱒二)
 腕時計が発明されたのは18世紀末と言われていますが、まだ一般には広く普及しておらず懐中時計が主流でした。ベロスは軍人なので懐中時計を持っているのですが、子供に時間を聞かれて懐中時計を取り出すのは軍人のプライドが許さないと言わんばかりの態度に平素から子供扱い、特に坊や(lad)と呼ばれるのが何より嫌いなスタビンズは失望します。
 ベロス大佐と別れてオクスンソープ通りのドリトル家へ差し掛かった時、急に雷を伴う激しい雨が降り出しました。スタビンズ少年が急いで帰ろうと思い、全速力で自宅に向かって走り出した矢先に真っ暗闇で誰かとぶつかります。その相手は、背が低く肥満体で使い古したシルクハットをかぶった紳士でした。
「これが、きみのあやまちであったとすれば、わしのあやまちでもあった……同様に、わしも下をむいておったのだ。」

(訳・井伏鱒二)
この紳士こそ、つい今しがた長期の旅行から帰って来たばかりのジョン・ドリトル先生その人だったのです。
 互いに自己紹介を終え、スタビンズ少年はドリトル先生が自分のことを「トミー」でも「坊や」でもなく「スタビンズ君」と呼ぶことに何よりも好感を抱きました。この場面は、先刻のベロス大佐との対比で「偉そうな大人」と「本当に偉い大人」は全く、根底から違うものだというロフティングの考え方が顕著に表れていると言えるでしょう。

 なお、今回のエントリで使用しているイラストは『航海記』の初版本で使用されたものではありません。『航海記』の刊行後にロフティングが追加で描き足し、生前には未公開となったイラストの内の1点でロフティングの義理の姉妹であるオルガ・フリッカー(Olga Fricker, 1902 - 1997)が編集し、1967年に米英で刊行された『ドリトル先生物語選集 Doctor Dolittle: A Treasury』で初めて収録されたものです。1988年にYearling Booksで『航海記』が復刊された際にも使用されました。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 14:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(2)──トーマス・スタビンズ少年
 イングランド西部の田舎町、沼のほとりのパドルビーに住む靴屋の一人息子、トミー(Tommy)ことトーマス・スタビンズ(Thomas Stubbins)少年はある日、森の中で鷹に襲われて怪我をしたリスを保護して途方に暮れていた所で同じ町に住んでいるジョン・ドリトル先生の噂を耳にします──。
パドルビーの運河
パドルビーの運河(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

『ドリトル先生』シリーズの第2巻『ドリトル先生航海記』は前作『ドリトル先生アフリカゆき』の好評を受ける形で1922年にアメリカ合衆国の出版社、F・A・ストークスから刊行されました。翌1923年にはイギリスのジョナサン・ケープから、そして日本では先に解説した通り1925年に大槻憲二の訳により「ドーリットル博士の航海」と題して博文館の雑誌『少年世界』で連載され、1941年から42年にかけては井伏鱒二の訳により「ドリトル先生船の旅」の表題で講談社『少年倶楽部』に連載されました。書籍化は1952年の講談社・世界名作全集版が最初で、この際に現在も定着している「ドリトル先生航海記」の表題が採用されています。井伏訳「航海記」は講談社の出版権が切れた後、1960年に岩波少年文庫へ編入され1961年には愛蔵版「ドリトル先生物語全集」の第2巻として現在も刊行されています。
 本作は1923年に全米児童図書館協会の主催でアメリカ国籍ないしアメリカ在住の作家が英語で執筆した児童文学作品を対象に最優秀作品を表彰するニューベリー賞の第2回受賞作品となっていることもあり、多くの小中学生向け児童文学全集ではこの『航海記』のみが収録されている場合も珍しくありません。井伏訳以外では、偕成社や学研より刊行されていた前田三恵子(1930 - )の訳も比較的ポピュラーな部類に入ると見られます。

 さて、前作『アフリカゆき』は三人称文体でしたが本作では一転してパドルビーに住む9歳半の少年、トミー・スタビンズの一人称で物語が進行します。スタビンズ少年はパドルビーで靴屋を営むジェイコブ・スタビンズ夫妻の一人息子で、貧しくて学校に通わせてもらえないので家業の御用聞きをする傍ら野山を駆け回ったて遊んでいました。同年代の友達は(ほとんどが学校に通っているので)おらず、人付き合いは前作にも登場しドリトル先生が獣医に転職する契機を作った猫肉屋──本作でマシュー・マグ(Matthew Mug)という名前が明らかになりますが──や近海の浅瀬に潜って泥の中に潜む貝やロブスターを採って生計を立てている貝掘りのジョー(Joe, the mussel-man)、そして後に登場する世捨て人のルカ(Luke, the Hermit)ら大人との付き合いが主でした。

 最初にスタビンズ少年の生い立ちを読むと、作者であるヒューの少年時代を反映させたかのような印象を持つ方も多いと思いますがヒューは五男一女の四男で庶民ながら家計は安定しており、8歳から18歳まで親元を離れて寄宿校に在籍していたのでスタビンズ少年とはかなりかけ離れた境遇でした。しかし、野山を駆け回って小動物や鳥、昆虫を観察するのが趣味という好奇心が旺盛な部分は共通しています。

 そしてある日、スタビンズ少年は森の中で鷹に襲われて負傷したリスを保護して自宅に連れて帰ります。とは言ったものの、獣医の知り合いなどおらず自分で看病するにも限界があるので途方に暮れて貝掘りのジョーに相談すると、ジョーは「このリスを治療できるのはジョン・ドリトル先生しかいない」と断言しました。「ジョン・ドリトル」という名前を名前を初めて聞いたスタビンズ少年はマシュー・マグに先生のことを知らないかと聞くとマシューは先生のことを「自分の女房・テオドシアと同じぐらいかそれ以上によく知っている」と言い、先生の家は町外れのオクスンソープ通りに面した場所に建っていると教えてくれました。大急ぎで訪ねてみたものの、先生は旅行から帰って来ていないようで屋敷はひっそりと静まり返っています。果たして、スタビンズ少年は無事にドリトル先生と会ってリスを診察してもらえるのでしょうか──。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(1)──波瀾の連載「船の旅」
 1941(昭和16年)の初頭、白林少年館は井伏鱒二の訳で『ドリトル先生「アフリカ行き」』を刊行しました。井伏鱒二は『アフリカ行き』の訳を終えるとすぐに第2巻"The Voyages of Doctor Dolittle"の翻訳に取り掛かり、講談社の雑誌『少年倶楽部』で連載が始まりますが、その年の暮れに日本は太平洋戦争に突入したのでした──。
『ドリトル先生航海記』ジョナサン・ケープ版表紙
ドリトル先生航海記』ジョナサン・ケープ版表紙(1923年)

 講談社の『少年倶楽部』は1914(大正3)年に創刊した雑誌で、先行する博文館『少年世界』や実業之日本社『日本少年』などを追撃してシェアを拡大し全盛期の1936(昭和11)年には75万部を発行していました。
「ドリトル先生船の旅」の連載が始まったのは1941年1月号ですが、この時期の日本は1936年に開戦した日中戦争の膠着状態に加えて米英との関係も悪化の一途をたどっており、開戦は秒読み段階とみられる非常に厳しい状況下に置かれていました。そうした事情は連載の第1回から既に色濃く現れており、あろうことか「井伏鱒二」「河目悌二・畫(画)」と原作者であるロフティングの氏名表示を完全に削除し、あたかも井伏鱒二の創作であるかのようなクレジットになってしまっているのです。この措置には1893(明治26)年制定の出版法に基づく検閲が大きく関わっており、日本の“敵国”たるイギリス出身でアメリカ在住のロフティングの名を出版物に出すことが憚られる状態に在ったことは疑うべくもありません(但し、白林少年館版やその後を受けて刊行されたフタバ書院版『アフリカ行き』にはロフティングが原作者としてクレジットされており、検閲を実施していた内務省の画一的な指示ではなく講談社側の判断による自主規制だったと見るべきでしょう)。
 どうも第4巻『ドリトル先生のサーカス』や第10巻『ドリトル先生と秘密の湖』における記述を見るにロフティングは生前、しかも太平洋戦争の開戦よりも以前から日本という国に対して良い印象を抱いていなかったのではないかと思わざるを得ない箇所が作品中に散見されるのですが、殊に後者──恐らく、1945(昭和20)年の春頃に書かれたであろう箇所に関しては、この『少年倶楽部』における原作者の氏名削除と言う重大な問題(氏名表示権侵害)も全く無関係とは言えなかったのではないかと思えます。「船の旅」の連載が後半に差し掛かった1942(昭和17)年にはロフティングが晩年を過ごしたロサンゼルスでも日系人の強制収容が大々的に行われたのですが、戦争の無益さと全体主義への抵抗と言う二つの価値観の葛藤に生涯、悩み続けたロフティングはその光景に何を思ったのでしょうか。

 さて、この「船の旅」連載は原作者の氏名削除以外にも異例ずくめの中で続けられました。連載が中盤に差し掛かった頃、井伏は陸軍に徴用され宣伝班員としてマレー半島へ出征します。真珠湾攻撃が決行され、日米が交戦状態に突入したというニュースを知ったのは昭南島(シンガポール)へ向かう船の中だったそうで現地に到着後は「アブバカの話」「マレー人の姿」などの手記を執筆し、この当時の体験は後に『徴用中のこと』で一冊にまとめられました。井伏が日本を離れている間、連載は井伏名義のまま代理の訳者(「ゴーストトランスレーター」とでも言うのでしょうか)が作業を引き継いで、打ち切りに遭うことも無く1942年12月号で全24回の完結を迎えます。
 この連載が続いている間にも『少年倶楽部』の誌面は軍国主義一色に染め上げられ「愛国」「報恩」の勇ましいフレーズが記事にも広告にも氾濫する状態でしたが、そんな中で“敵国”の作家が創作した物語がその事実を伏せられた状態で連載されていたというのは『アフリカ行き』の刊行時と同様に、物語が読者を惹きつける強い力を持っていたからに相違無いでしょう。

 終戦後、光文社が『アフリカ行き』(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)を復刊した際に巻末で「船の旅」上・下巻が近日中に刊行される旨の予告が掲載されていますが、井伏は代訳の部分までも自分の名義で刊行することを良しとせず、結局『少年倶楽部』連載版「船の旅」の光文社からの刊行は中止されたようです。井伏は帰国してから直ちに後半部分も自分で訳し直して『ドリトル先生航海記』に改題し、1952(昭和27)年にようやく講談社・世界名作全集の一巻として刊行されました。この際には、連載時と違ってロフティングの氏名が原作者として正しく表示されていたことは言うまでもありません。

The Voyages of Doctor Dolittle - 原文。

 今回の記事執筆に当たっては「ホームズ・ドイル・古本 片々録 by ひろ坊」様のBLOG記事を参考にしました。
- 井伏鱒二「ドリトル先生船の旅」(『少年倶楽部』昭和16年1月号)
- (ドリトル先生2)ヒュー・ロフティング:南條竹則訳『ガブガブの本』(図書刊行会 平成14年11月21日)

『ドリトル先生航海記』をもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生航海記』 ドリトル先生物語全集2こども図書館ドットコム
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 19:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──白林少年館の挑戦、そして挫折
 博文館『少年世界』に大槻憲二の訳で「ドーリットル博士の航海」が連載されてから13年後の1938(昭和13)年、五・一五事件に斃れた元内閣総理大臣・犬養毅(1855 - 1932)の邸宅に犬養道子(1921 - )の家庭教師として出入りしていた石井桃子(1907 - 2008)は、道子の母・仲子の薦めで毅の書斎を提供され遺品となった蔵書の整理に当たり、後にその書庫を改造して児童書専門の図書館・白林少年館を開館しました。白林少年館の開館に至る背景には、当時の日本において国是とされた軍国主義が児童書の分野にも影を落とし「愛国」「報恩」が強調される読み物一色になって行くことに息苦しさを感じた石井の「真に子供が読みたいものを提供する」強い信条があったことは現在でもよく知られています。開館から2年後の1940年には出版部を立ち上げ、最初に中野好夫(1903 - 1985)の訳でケネス・グレーアム(Kenneth Grahame, 1859 - 1932)の『たのしい川べ』(抄訳)が刊行され、その次のラインナップとして選ばれたのが『ドリトル先生アフリカゆき』でした。
 母親を亡くし、生まれ育った埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)から東京府豊多摩郡井荻町(現在の東京都杉並区)へ転居した石井はアメリカ在住の友人から送ってもらった『The story of Doctor Dolittle』のあらすじを近所に住んでいた井伏鱒二(1898 -1993)に話して聞かせ、その話を気に入った井伏は白林少年館からこの物語を翻訳出版したいと言う石井の下役を持参しての希望を快諾します。そして、手始めに文藝春秋の雑誌『文學界』1940年12月号で冒頭部分をエッセイ「童話 ドリトル先生物語」として発表したのでした。このエッセイで井伏は主人公の名前「Dolittle」を日本語訳に当たって「ドリトル」とした経緯について、以下のように説明しています。
 この「ドリトル先生物語」は、外国の発音通りにいへばドウーリトル先生物語である。しかしドウーリトルという云ひまはしは、日本の子供には舌先に親しみがないだらうと思はれる。ヴエルレーヌをベルレン、ボードレールをボドレルと日本語で書けと云つた詩人もある。私はその説に七分通り賛成する。だからここでは仮りに「ドリトル先生物語」と読むことにする。
 現在に至るまでほとんどの日本語訳が井伏案の「ドリトル」表記を採用し、慣例としてすっかり定着してしまっていることを考えると井伏訳から遡ること15年前の大槻訳が「Dolittle」を「ドーリットル」としたのに対し井伏訳が「ドリトル」とした時点でこの訳の成功は半分、保障されていたと言えるかも知れません。
 こうして、1941(昭和16)年に白林少年館出版部より第1巻の最初の日本語訳『ドリトル先生「アフリカ行き」』が刊行されました。しかし、当の白林少年館は先の見えない日中戦争に加えてこの年の暮れに真珠湾攻撃が決行され、太平洋戦争に突入するなど戦況の激化を受けて閉鎖され、出版部も前述の2冊を最後に活動を停止せざるを得なくなってしまいました。しかし、1941年12月にフタバ書院成光館が『ドリトル先生アフリカ行』の出版を白林少年館より引き継ぎ、戦後は1947(昭和22年)に光文社より復刊されるなど(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)、戦時下にあっても子供の心を捉えて離さなかったのは物語が持つ強い力を実感させるに十分な出来事だったと言えると思います。

 そして、井伏は白林少年館の『アフリカ行き』の刊行を見届けた後に講談社『少年倶楽部』で第2巻を「ドリトル先生船の旅」の表題で連載することになったという所から『ドリトル先生航海記』の解説を始めたいと思います。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 13:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──忘れ去られた日本への最初の紹介
『ドリトル先生』シリーズの日本における最初の紹介は、多くの方が岩波版の巻末に書かれている「1940年に石井桃子がアメリカの友人から送ってもらった『ドリトル先生アフリカゆき』の原書を井伏鱒二に紹介し、井伏訳で白林少年館出版部から1941年に刊行された」のが嚆矢だと認識されていると思います。事実、石井・井伏の両名とも生前はそう認識していたようでした。
 ところが、実際は井伏訳の『アフリカゆき』が刊行される15年も前の1925(大正15/昭和元)年に第2巻『ドリトル先生航海記』は別の翻訳者の手で日本に紹介されていたのです──。

 現在は日記帳を主力商品とする博文館新社の前身企業・博文館は1923年の関東大震災で社屋を失ったダメージにより失速するまでは日本最大の出版社として出版業界の頂点に立っていました。この博文館が1895(明治28)年に巌谷小波を主筆に迎えて創刊した児童誌『少年世界』は幸田露伴、佐佐木信綱、田山花袋、徳田秋声、泉鏡花ら錚々たる執筆陣を迎え、創作童話や海外児童文学作品の紹介に大きな役割を果たして来た雑誌で、例えばルイス・キャロルの『アリス』も1899(明治32)年に第2作『鏡の国のアリス』が長谷川天渓(1876 - 1940)の訳により「鏡世界」の表題で本誌に連載されたのが日本における最初の紹介です。この連載では登場人物の名前が日本風にローカライズされ主人公のアリスは美代(美ィちゃん)、トゥイードルダムとトゥイードルディは「太郎吉と次郎吉」、ハンプティ・ダンプティは「権兵衛」と言う名前になっていました。
『ドリトル先生』の日本における最初の紹介はそれから四半世紀後の1925年、博文館がなお1年半前の関東大震災の痛手に苦しむ状況下において『少年世界』1月号から12月号まで雑誌連載という形で行われました。翻訳者は戦後に精神分析の第一人者と称された心理学者の大槻憲二(1891 - 1977)で、プロレタリア文学に批判的な立場から文芸評論を行っていた一環として1923年にアメリカで第2回ニューベリー賞を受賞した評判の児童文学作品である『航海記』の翻訳を行ったようです。連載時の表題は「ドーリットル博士の航海」。挿画はロフティングのオリジナルでなく、小笠原寛三が新規に描き起こしたものが使われています。

 この大槻訳は単行本化もされず、長く忘れ去られた状態となっていましたが2007年に大空社より刊行された『図説 児童文学翻訳大事典』第3巻で『アフリカゆき』の初訳である白林少年館版と共に連載の冒頭部分や挿画が紹介され、約80年ぶりに日の目を見ることになりました。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 13:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(12)──まとめ
 1917年に西部戦線の塹壕で生まれ、3年後に思わぬ機会を得て世に送り出された『ドリトル先生アフリカゆき』の物語はまたたく間に全米で評判を獲得します。この成功を受けてヒュー・ロフティングは土木技師の仕事を正式に辞めてニューヨークからコネチカット州のマディソンという町へ引っ越し、専業の児童文学作家になったのでした。
『ドリトル先生アフリカゆき』のエンドカード
ドリトル先生アフリカゆき』のエンドカード(ヒュー・ロフティング画)


 アメリカのストークス版では第10版よりイギリスの小説家、ヒュー・ウォルポール(Sir Hugh Seymour Walpole, 1884 - 1941)が執筆した『アフリカゆき』の解説が巻頭に掲載されています。この解説でウォルポールはルイス・キャロル(Lewis Carroll, 1832 - 1898)の『アリス』やマーガレット・ガティ(Margaret Gatty, 1809 - 1873)、或いはシャーロット・ヤング(Charlotte Mary Yonge, 1823 - 1901)、ジュリアナ・ユーイング(Juliana Horatia Ewing, 1841 - 1885)ら19世紀の代表的な児童文学作家の名を挙げ「ロフティングはこれらの偉大な作家の後継者が現れなかった30年余りの空白期に終止符を打つ真打ちと言える非凡な才能を有している」と激賞しています。

 もっとも、エドワード・ブリッシェン1968年に刊行された評伝で指摘しているように、このウォルポールの解説はあくまでも『アフリカゆき』1巻のみが刊行されていた時点のものであり、その好評を受けて最終的に全12巻と番外編1巻の長大なシリーズ作品に発展した後の現在の視点からの解説ではないことに留意する必要があるでしょう。
 そして、ウォルポールが名前を挙げている(ガティやユーイングは日本では馴染みの薄い作家ですが)キャロルやヤングの作品とロフティングの作品は実際に読み比べてみると、それぞれ作風がかなり違うことに気付くと思います。特に、キャロルがアナグラムや複数の単語を合成する「鞄語」の創出などテクニカルな部分に徹底してこだわり、かつ文章のリズム感を損なわないことに努力を傾注しているのに対して、ロフティングは(少なくとも『アフリカゆき』の頃に関して言えば)素朴で淡々とした文体が大きな特徴となっています。元々、この物語が2人の子供に宛てた手紙という形で創作されたこともあるでしょうしロフティング自身が当初、この物語を思い付いた際には“童話”を志向していた形跡が認められ、結果的にウォルポールが挙げた19世紀を代表する児童文学作家たちの後継者と言うよりも、ヒレア・ベロック(Hilaire Belloc, 1870 - 1953)らユーモア作家のセンスを採り入れてそれまでの児童文学作品に例の無い独自の作風と世界観を創出したのです。ロフティングが何よりもキャロルと対照的なのは、挿絵も自分自身で描いたことでしょう。キャロルが『アリス』の出版に際して挿画家のジョン・テニエル(John Tenniel, 1820 - 1914)と激しいやり取りを繰り返したエピソードは非常に有名ですが、ロフティングは幼少期から山歩きの中で培ったスケッチと土木技師の仕事を通じて習得した作図の技法を駆使して自分で挿絵を描き、これが『ドリトル先生』の世界観を決定的なものにしていると言っても過言ではありません。
 結果的に『アフリカゆき』が2人の子供──エリザベスとコリンのみならず、全米の子供たちの心を捕えて離さなかったことで発行元のストークスは続編の刊行を決定します。そして『アフリカゆき』がロフティングの母国・イギリスでジョナサン・ケープより刊行されたのと同じ1922年に、アメリカでは第2巻『ドリトル先生航海記』が刊行されることになったのでした。


The Story of Doctor Dolittle - 原文。ウォルポールの解説も掲載されています。

『ドリトル先生アフリカゆき』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生アフリカゆき』 ドリトル先生物語全集1こども図書館ドットコム


解題『ドリトル先生アフリカゆき』目次
(1)戦場で生まれた物語
(2)小さなドリトル先生
(3)ドリトル先生、動物語を習得する
(4)「いいとも、お嫁にゆきなさい」
(5)オウムのポリネシア
(6)ライオンの大将
(7)オシツオサレツ
(8)人種差別問題
(9)1920年代の人権感覚
(10)海賊の襲撃
(11)ジップのお手柄、そして帰還
(12)まとめ ※本エントリ
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 19:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(11)──ジップのお手柄、そして帰還
 海賊船の倉庫に監禁されていた少年が持つ微かな手掛りから岩場へ置き去りにされた漁師を救い出したドリトル先生の一行は、ようやく長い旅を終えてイギリスへ帰還します。
漁師の妹から熱烈に感謝される先生
漁師の妹から熱烈に感謝される先生
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生はカナリア諸島で沈没した船の代わりに海賊船を接収しますが、トートーは船の倉庫から子供の泣き声が聞こえて来るのを聞きつけます。先生が鍵がかかっていた倉庫の扉を壊し、監禁されていた少年を救い出すと少年は涙ながらに自分が人質に取られていた理由を話します。少年のおじさんは漁師で、航海術の高さを買われてベン・アリにバーバリ海賊団へ入らないかと誘われたのですが断ったので少年を人質に取り、漁師を滅多に船が近寄らない岩場へ置き去りにしてしまったのでした。
 先生はまず、ワシを集めて上空から漁師を探させますがワシたちが懸命に北大西洋じゅうの岩場を巡っても、漁師は見つかりませんでした。そこで、犬のジップが漁師を特定する匂いが付いたものは無いか尋ねます。少年はこの問いに対しておじさんが嗅ぎタバコを愛用していると答え、おじさんのハンカチをジップに差し出しました。それからジップは船の舳先で海の向こうから漂って来るさまざまな匂いを嗅ぎ分け始めます──そして、3日目の早朝に嗅ぎタバコのにおいを嗅ぎ当てました。
 ジップが匂いを嗅ぎ当てた方角にある岩場には深い縦穴があり、漁師はそこで嗅ぎタバコの匂いを嗅ぎながら飢えをしのいでいました。衰弱はしていたものの命に別状はなく、甥の無事な姿を見て先生に感謝を述べると、そのまま2人の故郷である漁師町に向けて船は出航します。
 漁師町に船が到着すると、先生の一行は大変な歓迎を受けました。少年の母親、つまり漁師の妹であるトレベルヤン(Trevelyan)夫人は先生に何度も抱き着いてキスを繰り返し、2人を救出したことに感謝しました(この場面のイラストは何故か岩波版には収録されていないので、ここに掲載します)。そして、ジップには町長から「ジップ:世界一賢い犬」と刻まれた黄金の首輪が贈られました。
 この漁師町がどこであるかは明示されていないのですが、南條竹則氏の『ドリトル先生の世界』によると"Trevelyan"という姓はグレートブリテン島の南西、コーンウォール地方に多いそうです。
市場を回るドリトル先生の一行
市場を回るドリトル先生の一行
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 漁師町を後にした先生の一行はそのまままっすぐパドルビーには帰らず、箱馬車を1台用意して各地の市場を回り、アフリカから連れ帰ったオシツオサレツを6ペンスの入場料で人々に観賞させました。恥ずかしがり屋のオシツオサレツは人々にジロジロと見られるのを嫌がる気持ちに変わりはありませんでしたが、先生が貧乏で困っているので自分が頑張らなければならないと懸命に我慢しました。
 そうして市場を回っている間にタチアオイの花が咲き乱れる夏が訪れ、先生はすっかりお金持ちになったので一行はパドルビーの我が家へ帰ることにしました。先生がどのぐらいお金持ちになったかと言うと、壊してしまった船を弁償しただけでなく新しい船をもう一隻、船乗りに買ってもまだお釣りが来るほどでした。

 と言う訳で、シリーズ第1巻『ドリトル先生アフリカゆき』の物語はこれでおしまいです。次回は解説のまとめと目次。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 14:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(10)──海賊の襲撃
 アフリカからの帰り道、北大西洋上でドリトル先生一行の船はバーバリ海賊団に襲撃されますが動物たちの協力で危機を逃れます。
ベン・アリの襲撃
「さてベン・アリよ──」(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 バンポ王子の用意した船でジョリギンキを出発し、イギリスへの帰路を急ぐドリトル先生の一行は北大西洋上で「バーバリの竜」と呼ばれ、恐れられているバーバリ海賊団の頭領ベン・アリと遭遇します。海賊船が猛スピードで先生の船を追って来ますが、ツバメたちが舳先に結んだロープを引っ張って船を曳航し、上手く逃げおおせることが出来ました。
 ところが、船底に住んでいたネズミが先生に「この船は底板が腐っていてもうすぐ沈没する」と警告したので、先生はひとまずスペイン領のカナリア諸島へ寄港することにしました。
 しかし、先生の船が入り江に寄港すると見たバーバリ海賊団は外洋へ出られないように入り江を塞いでしまいます。先生の船を乗っ取ったベン・アリは「今夜はアヒルと豚の丸焼きだ」と勝ち誇り、ガブガブは泣き出してしまいました。そんな中にあって、フクロウのトートーは落ち着き払った態度で先生に出来るだけ長く、ベン・アリと交渉をするよう進言します。
 海賊の理不尽な要求を受け入れる訳は行かず、かと言って武器を持った相手を刺激してもいけない神経を使う交渉は2時間以上に及び、ベン・アリがしびれを切らし始めた頃にネズミの警告通り、船底に穴が開いて沈み始めました。海賊たちは大慌てで自分の船へ泳ごうとしますが、サメの大群が出没して追い回されてそれも適わなくなってしまいます。
 先生はベン・アリに海賊をやめてこの島で農家になり、カナリアの餌を作るように命じました。最初は不服そうだった海賊たちも、サメが先生の指示通りに自分たちを追って来るので空恐ろしくなりこの要求を受け入れることにします。先生はベン・アリにもう一度、強く念を押しました。
「だが、よくおぼえておくことだ。」と、先生はいいました。「万一、その約束を破ったら──ふたたび、ぬすみや人殺しをはじめたら、それは、すぐわしの耳にはいってくる。カナリアが飛んできて、わしに話してくれる。そのときは、たちまち罪のむくいがくるということを忘れるな……鳥や獣や魚という友だちのあるかぎり、海賊のかしらごときは恐るるにたらんのだ……」

(訳・井伏鱒二)
 そして先生は沈んだ船の代わりに海賊船を接収し、再びイギリスに向けて出発するのでした。

 ドリトル先生はシリーズを通じて「罪を憎んで人を憎まず」を実践する人です。どんな悪人であっても自分の行いを反省し、心を入れ替えてまっとうに生きることを約束した相手であれば警察に突き出すようなことはほとんど有りません。バーバリの竜に警告したように、相手が裏切った場合はすぐさま動物たちが、先生が世界中のどこにいようと直ちに教えてくれるからです。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 18:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(9)──1920年代の人権感覚
 前回からの続き。

 アメリカでは1960年代後半から1970年代にかけて、本作の黒人描写がステレオタイプ的な偏見に基づいているという非難を受けて書店や図書館から『ドリトル先生』シリーズ全巻が一斉に姿を消し、問題とされた箇所を削除・修正した改訂版の復刊までに20年近くを要しました。
 後年に批判の対象となった部分に関しては現代の人権感覚から見て「不適切」と評せざるを得ない描写を明らかに含んでおり、その点で批判に正当性があることは厳然たる事実と言わざるを得ないでしょう。しかし、それらの描写が作品の本質であるかのような全否定や、作者のヒュー・ロフティングがレイシストであるかのような非難は失当であると筆者は考えます。『オックスフォード世界児童文学百科』(原書房・1999年)の「ドリトル先生物語 Doctor Dolittle stories」の項では、以下のように解説されています。
……1970年代,(最初の2作での)黒人王子バンポの粗野な描写のせいで,人種差別だと批判された。これはたしかにロフティング側の判断ミスだったが,第1作はベロックやその流れをくむほかのユーモア作家から影響を受けたもので,シリーズ全体の特徴ではない。
 本作からの引用で例証するならば、例えばドリトル先生が猿の国へ行く為にジョリギンキ国王へ通行許可を求めた場面。
「わしの国を通すことは、ならん。」と、王様はいいました。「もう何年も前のことであったが、ひとりの白人が、この国へやって来た。わしはその男に、たいへんしんせつにしてやった。しかるに、その男は土に穴をあけて金を掘り、象を殺して象牙をとり、こっそりとじぶんの船で逃げ失せた。──『ありがとう』ともいわないで。二度とふたたび、白人には、このジョリギンキの国を通すことは、ならんのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 国王がドリトル先生を「白人だから」と言うだけで投獄してしまうのは八つ当たりもいいところで、以前に訪れた西洋人と違ってジョリギンキの国土を荒らすことなど微塵も考えていない先生から見ればとばっちり以外の何物でもありませんが、その原因となった西洋人の横暴に対する国王の怒りはもっともで、この視点を持つ作家は1920年代には極めて少数だったのではないかと思います。

 ヒューは1910年代初頭、当時はイギリスの保護領だったナイジェリアで鉄道建設に従事しました。実際に現地へ赴くまでは、未開の地に鉄路を敷いて現地の人々の生活を改善することを思い描いていたようです。しかし、実際にはこの鉄道建設は内陸で採掘した石炭をラゴスの港へ運ぶ為のもので、そこには歴然とした支配者と被支配者の構図が存在しました。ナイジェリア時代の体験は後に第3巻『ドリトル先生の郵便局』で色濃く反映されることになるのですが、支配する側に立つ西洋人が現地の人々に対して横暴な振る舞いを重ねることにヒューが失望し、怒りを覚えていたのは『郵便局』でも端々から感じられます。ただ、大英帝国の最盛期たるヴィクトリア朝後期に生まれたヒューが当時のイギリスにおける国是であった「未開の民を西洋人が正しく導く」という価値観に対する懐疑にまでは及ばなかったことも事実であり、刊行から90年近くが経った現在の感覚から作品を評価する際には、特に続巻『ドリトル先生航海記』や『郵便局』におけるこうした「大英帝国の国是」に肯定的な描写が受け入れ難いとする反応が生じることも、また正当であろうと思います。この点に関しては、岩波版『アフリカゆき』の1978年改版以降における石井桃子の総括が正鵠を得ているでしょう。
 ……それまで、ながく、いくつかの大国の、植民地とされていたところが、多くの独立国として歩きはじめました。これは、当然、それまで差別されていたひとたちの人権の問題にもつながってきます。
(中略)
「ドリトル先生物語」の場合にも、このなかにあらわれた、黒人にたいするロフティングの取り扱い方が大きな論議のまとになりました。ことに、黒人問題を大きな苦しみとしてアメリカでは、「ドリトル先生物語」は、公共図書館の公開の書棚にだしておくところは、ほとんどなくなったようです。
(中略)
 確かに、今日の目から見ると、誠実で、民族をこえて人間と言うものに愛情を抱いていたと思われるロフティングの作品のなかに、人種差別の気持ちがなかったとはいえない箇所にぶつかると、私たちはびっくりさせられます。しかし、一方、私たちはまた、ロフティングが生まれ、育った時代を考えてみる必要があるようです。彼が生まれた十九世紀の終わりごろといえば、イギリスは、世界のすみずみにまで植民地をもち、大英帝国の威容を誇っていたのでした。ロフティングも、いまに生まれれば、心から人種差別に反対しただろうと思えてなりませんが、一八八六年にイギリスに生まれた彼は、やはり、その時代の子であることをまぬがれなかったのです。
(中略)
 この作品の生まれてきた時代の、こうした背景を念頭におき、また、長い年月をかけて一連の「ドリトル先生物語」を書いているあいだに、ロフティングの心のなかに起こった考え方のちがいなども読みとっていただけると、幸いと思います。
 現在では米英でも差別的とされた箇所を削除・修正した改訂版でなく原書の表現を尊重したうえで執筆当時の時代背景について正しく解説し、読者の判断を仰ぐべきであるという意見も出て来ており、2010年には「現代の人権感覚上、不適切な表現を含んでいる」ことを明示したうえで原書の文章と挿絵を復元したオリジナル・バージョンが改訂版のペーパーバックとは別に刊行されていますし、プロジェクト・グーテンベルクインターネット・アーカイブでも原書を読むことが出来ます。

 なお付言すると、この『アフリカゆき』でバンポが顔だけを脱色するエピソードに影響を受けていると思われるのがフランスのクロード・アヴリーヌ(Claude Aveline, 1901 - 1992)が1937年に発表した『ババ・ディエーヌと角砂糖ぼうや』です。かつては岩波少年文庫に『黒ちゃん白ちゃん』の表題で収録されていました。当時フランスの植民地だった西アフリカのセネガルを舞台に村長の息子、ババ・ディエーヌと記憶を無くした状態で発見された角砂糖のように肌が白い少年の友情を描くこの物語では、後半に人種差別が如何に間違った考え方であるかを強調する作者の問いかけが入って来て角砂糖ぼうやの正体が実は肌を脱色する薬を飲んだ黒人の少年であると明かされます。この作品の執筆動機は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの侵攻で陥落したパリにおいてレジスタンスに参加した作者が抱いていたナチス・ドイツのアーリア人種優越思想に対する反発であったと言われています。
 そして、アヴリーヌがパリでドイツ兵と戦っていたのと同じ時期、ヨーロッパから遠く離れたアメリカ西海岸のロサンゼルスに居たロフティングもまたナチス・ドイツの全体主義が世界を席巻することに強い危機感を抱き、筆を執るのですがその話はまた後日に。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 10:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(8)──人種差別問題
 帰り道、ジョリギンキ王国で再び捕らわれの身となってしまったドリトル先生の一行。バンポ王子の協力で脱獄し、王子が手配した代わりの船に乗ってアフリカを後にします──アフリカ生まれのポリネシア、チーチー、そしてワニの見送りを受けながら。
アフリカを発ち、帰路に就く船
アフリカを発つ船を見送るポリネシア、チーチー、ワニ
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

※今回のエントリにおいて、本文中に差別用語や現在では不適切とされる表現を使用している場合がありますが、過去に差別が存在した歴史的な事実に関する解説が目的であり、それらの差別を肯定する意図はありません。

 1960年代後半から1980年代にかけて、アメリカ合衆国における『ドリトル先生』シリーズ、殊に『アフリカゆき』の扱いはそれまでと一変し「差別図書」の烙印を押され、書店や図書館から撤去される事態となりました。その背景には、1960年代を最盛期とする黒人──アフリカ系アメリカ人の公民権運動の高まりがあります。この際に、過去の文学作品における黒人描写への糾弾も大々的に行われ、日本でも1980年代に姿を消したヘレン・バンナーマン(Helen Bannerman, 1862 - 1946)の『ちびくろサンボ』などは言うに及ばずかつて南北戦争、ひいては第16代大統領・リンカーン(Abraham Lincoln, 1809 - 1865)の奴隷解放宣言に繋がる原動力の一つとなったハリエット・ビーチャー・ストウ(Harriet Beecher Stowe, 1811 - 1896)の『アンクル・トムの小屋』も「主人公が奴隷の境遇に対して余りにも卑屈である」などの理由で攻撃対象とされました。『アフリカゆき』に関しては、童話「眠り姫」を愛読し、その話中に登場する王子のような白い肌に憧れる黒人のバンポ王子に対し妖精・トリプシュティンカに扮したポリネシアが「父君に捕らわれている西洋の偉大なお医者様がその願いを叶えてくれるでしょう」と言って気が進まない先生に薬を調合させ顔だけを脱色すると言う筋書き、ひいてはロフティング自身の手になる挿絵の(後年、日本の漫画に対しても同じような指摘が為されることの多かった)「目を大きく、唇を分厚く」描くステレオタイプ的な黒人像が特に糾弾の対象となったのでした。
 結果、アメリカにおけるシリーズの出版元で1939年に廃業したストークスの出版物を継承していたJ・B・リッピンコットは大部分の巻を1970年までに絶版とし、公共図書館も『アフリカゆき』のみならずシリーズ全巻を開架から撤去してしまったのでした。イギリスでも若干の批判が有ったもののアメリカほど大きな社会問題には発展せず、1980年代に入ってもPuffin Booksからペーパーバック版が刊行されていました。その後、1986年がロフティングの生誕100周年に当たることを記念し、デル・パブリッシングがヒューの次男であるクリストファー・ロフティング(Christopher Clement Lofting, 1936 - )より承諾を得てYearling Booksレーベルで問題とされた箇所を削除・修正した改訂版として1988年より正式に復刊し、約20年に及ぶ「消失」の時代は終わりを告げました。具体的には、ある版では該当箇所が「ポリネシアがバンポを催眠術で操って牢獄の鍵を開けさせた」とされ、また別の版では「ライオンの勇敢さに憧れるバンポの為にドリトル先生が育毛剤を調合し、髪をライオンのたてがみのように伸ばした」とされています。もっとも、米英でもこうした措置に対する批判はあり、例えばイギリスのThe Sun紙は社説で「古典作品の表現が気に入らないのであれば『読まない』と言う選択肢もあるはずだ」と長年、愛されて来た作品に第三者が安易に手を加えるべきではないと主張しています。

 日本の状況に関しては追って第2巻『航海記』や第10巻『秘密の湖』の解説でも取り上げる予定ですが、多くの日本語訳(特に、1978年の岩波第1次改版以降)では先のThe Sun紙社説と同様の見解に立ち「削除・修正よりも作品の執筆された時代背景について、正しく解説を加えるべきである」という立場を採っています。但し、ポプラ社から刊行されている2種類の版(こども世界名作童話ポプラポケット文庫)ではどちらも改訂版を底本にしています。

 次回に続く。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 09:46 | comments(0) | trackbacks(1) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(7)──オシツオサレツ
 猿の国を危機に陥れた伝染病を終息させたお礼に、猿たちは世にも珍しい双頭の動物──オシツオサレツをドリトル先生に献上します。
オシツオサレツとの初対面
オシツオサレツとの初対面(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)


 ドリトル先生が猿の国で一心不乱に治療と予防接種の投与を続けた結果、猿たちを苦しめていた伝染病は終息しました。猿たちはこの偉大な先生にいつまでも猿の国に留まって欲しいと願いますが、チーチーは先生がアフリカへ来る為にイギリスで借金を抱えていることを説明し、猿たちは知恵を出し合ってお礼を考えます。
 その結果、ヨーロッパの動物園でも未だ飼われていない世にも珍しい2つの頭を持った珍獣・オシツオサレツを献上することになりました。

 この「オシツオサレツ」という訳語は井伏鱒二のオリジナルで、原文では"pushmi-pullyu"("push me, pull you"が語源)とされています。但し、最初からこの訳語を思い付いていた訳ではないようで1951年以前の旧訳(光文社版『ドリトル先生アフリカ行き』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)ではそのまま音訳して「プシュミプリュー」とされていました。本作を井伏鱒二に紹介した石井桃子(1907 - 2008)によれば、井伏は岩波少年文庫での改訳作業に際し「おしくらまんじゅう」に着想を得て「両方の頭と胴体が押しつ押されつ」しているという秀逸な訳語を思い付いたとされています。オリジナリティが際立ち過ぎるからか、他の日本語訳では余り継承されておらずソレオセヤレヒケ(訳・飯島淳秀、講談社文庫)、オシヒッキー(訳・麻野一哉、パブー)、フタマッタ(訳・小林みき、ポプラポケット文庫)、ボクコチキミアチ(訳・河合祥一郎、角川つばさ文庫)など様々に訳されています。

 このオシツオサレツは非常に恥ずかしがりで、最初はイギリスへ渡って見世物になることを嫌がるのですがドリトル先生との初対面で「この人は信頼出来そうだ」と一目で見抜き、着いて行くことを承諾します。2つの頭は人格(?)を共有している訳ではなく、それぞれ別々に物事を考えられるのですが、一方の頭がおしゃべりをする時はもう一方の頭が草を食べ、また一方の頭が眠っている時はもう一方の頭が人間や肉食動物の襲撃を警戒すると言った具合に分業を徹底しており、頭同士で喧嘩になることはまず無いのだそうです。純血種の動物ではなく、母方の血統はアジア種の小カモシカで父方の曾祖父は絶滅してしまった一角獣(ユニコーン)の最後の一頭だったと言います。
 こうしてドリトル家に新しい仲間が加わることになったのですが、猿の国を後にした先生たちは待ち伏せしていたジョリギンキの兵士たちに捕まり、再び投獄されてしまったのたでした。

 さて、オシツオサレツは見た目のインパクトが強いことも有ってか後々の作品でもリスペクトされており、"pushmi-pullyu"ないし「オシツオサレツ」の名前を持つ双頭の動物が色々と登場します。一例を挙げると、コンピュータRPG「ウルティマVI 偽りの預言者」やアニメ「世紀末オカルト学院」第5話など。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 08:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(6)──ライオンの大将
 数々の苦難を乗り越えて、ようやく猿の国にたどり着いたドリトル先生。病気に苦しむ猿が余りにも多過ぎるので、他の動物たちにも手伝ってほしいと要請するのですが──。
ライオンの大将との対面
「動物の大将たるこのわしに、けがらわしいサルどもの世話をしろだと?」
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 嵐に巻き込まれて船が沈没してしまったものの、どうにかアフリカ大陸へ到着したドリトル先生の一行はこの一帯を治めるジョリギンキ王国の兵士に連れられて国王と面会します。先生は猿の国へ行く為の通行許可を求めますが、国王は以前に西洋人がジョリギンキの国土を好き勝手に荒らしたので西洋人を信用していないと言い──その割に、国王も王妃のエルミントルードもテニスや舞踏会など西洋趣味を嗜んでいるのですが──先生たちを投獄してしまいます。ポリネシアが策を講じて先生たちは翌朝に釈放され、猿の国への旅路を急ぎますが、ポリネシアに騙されたことに気が付いた国王が兵士を総動員し、遂にジョリギンキと猿の国へ隔てる断崖絶壁に追い詰められてしまいます。この騒ぎを聞きつけた猿たちは一斉に手をつないで峡谷に「猿の橋」を架け、先生もドリトル家の動物たちも間一髪のところで追っ手を逃れて無事に猿の国へたどり着くことが出来たのでした。

 猿の国では、ゴリラ、オランウータン、チンパンジー、ヒヒ、ネズミザル、灰色ザル、赤ザルなど数えきれないほど多くの猿が伝染病に苦しんでいました。不幸なことに、手遅れで亡くなった猿も少なくありませんでした。ドリトル先生は歓迎される間も無くすぐに仮設の診療所を建ててまだ病気に感染していない猿には一心不乱に予防注射を接種し、病気の猿には絶対安静を言い渡して仮設病棟のベッドに寝かしつけたのでした。
 それでも、余りにも病気になった猿の数が多過ぎて手が回らないので他の動物たちに協力を仰ぐことにします。先生は最初に、ライオンの大将に猿の看護を手伝って欲しいと要請しましたが、ライオンの大将はふん、と鼻を鳴らしながらこう答えます。
「よくも、このわしにたのめたものだ……動物の大将たる、このわしにだ。よくも、けがらわしいサルどものせわをしろと、たのめたものだ。ふん、サルなんてものは、おやつにも食えやしないのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 こうして、ライオンは先生の頼みを断ってしまいます。ライオンだけでなく、ライオンの腰巾着として振る舞っているヒョウもライオンと同じように断り、気の弱いカモシカも「看病などしたことがないから」と申し訳なさそうに辞退してしまったので、先生はすっかり困り果ててしまいました。
 ライオンの大将が上機嫌で棲み家に帰って来ると、奥さんの雌ライオンが心配そうな顔をしていました。2頭の子供の内1頭の食欲が無く、具合が悪そうなのです。そこで大将が「ドリトルとか言う人間の医者が猿の看病をしろなどとふざけたことを頼んで来たから、もちろん断ってやった」と自慢気に話し始めたことに、雌ライオンは烈火の如く怒り出しました。
 あなたのような、ばかはいませんよ……ここからインド洋沿岸にいたるまで、どんな動物だって、いかなる病気もおなおしくださるという大先生を知らない者は、一ぴきもいないんです。世界じゅうで動物語のできる、ただひとりのおかたではありませんか! それなのに、いま家の子が、病気になった折も折、なぜあなたは、そのおかたをおこらしてきたのでしょう! 大ばかの三太郎! りっぱなお医者さんに乱暴な口をきくなんて、昔から、ばかでなくてはできやしない。ほんとに、あなたは──。」

(訳・井伏鱒二)
 原文の"You great booby!"を「大ばかの三太郎!」と訳すあたりはまさしく井伏文学の為せる業と言えるでしょう。つい先日、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで岩波少年文庫に収録される以前の光文社版『ドリトル先生アフリカ行き』が公開されました。この光文社版は1947年刊行で、日本で最初に刊行された白林少年館版(1941年)や白林少年館の活動休止後に引き継いだフタバ書院版(同年)とほぼ同じ訳文を使用していますが、挿絵を描いている画家、今風に言えばイラストレーターはそれぞれ異なります。光文社版は大正から昭和初期にかけて少年雑誌で活躍した河目悌二(1889 - 1958)のイラストですね。そして、この部分の言い回しは旧訳から「大馬鹿の三太郎!」でした。但し、この後の「黒人のように働くんですよ」と言う部分は、原文に現在では差別用語とされる表現が含まれることもあり、1978年の改版では「身を粉にして働くんですよ」と改訂されています。

 こうして、奥さんに叱責されたライオンの大将は先生に非礼を詫び、ヒョウやカモシカを連れて「猿を風呂に入れるのだけは御免こうむりたい」と言いながらも看病を手伝うようになりました。手伝いが増えて以降、病気の猿たちは順調に退院し、2週間目には最後の猿も快復して恐ろしい伝染病は遂に終息を迎えます。それから三日三晩、ドリトル先生は一心不乱に眠り続けたのでした。

 さて、どうもこのライオンの大将と奥さんの関係は作者であるヒュー本人とフローラ夫人の関係をモデルにしているようです。フローラ夫人は1920年の国勢調査記録によればヒューよりも5歳年上で、フローラ夫人に頭が上がらないヒューの様子が以前に紹介したパンフレット『ドリトル先生の出来るまで The Making of Doctor Dolittle』でも描かれています。
ヒューとフローラ夫人
ヒューとフローラ夫人(ヒュー・ロフティング画、The Making of Doctor Dolittleより)
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 08:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(5)──オウムのポリネシア
 アフリカ生まれで、自称するところによれば180歳を超える雌の灰色オウム・ポリネシアは猿たちを伝染病から救う為に旅立ちを決意したドリトル先生の案内役を買って出ます。
アフリカへ出発
アフリカへ出発(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生の妹・サラがお嫁に行ってしまい、ドリトル家の動物たちは分担して家事を行うことにしました。しかし、お金を稼げないので先生は貯金箱をひっくり返しても1ペニーすら残っていない文字通りの一文無しになってしまい、冬を迎えます。
 そして、特に冷え込みが厳しい日に季節外れのツバメがアフリカからドリトル家に舞い込んで来ました。ツバメはアフリカの猿たちの間に深刻な伝染病が広まり、危機に瀕していることを知らせます。この一報に居ても立ってもいられなくなったドリトル先生は、お金のことなど二の次で一隻の船を借りて動物たちを連れ、アフリカへの航海に出発します。

 ドリトル先生に動物の言葉を教えたオウムのポリネシアは自称、182歳か183歳。アフリカ生まれで、イギリスへ初めて渡った時はチャールズ2世(Charles II, 1630 - 1685)が皇太子時代、護国卿・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599 - 1658)の軍勢に敗走してカシの木の洞に隠れていたのを目撃したと1651年の故事を回想するほどの長生きで、また文字通り「おばあさんの知恵袋」と言うべき卓越した記憶力を持ち合わせています。ドリトル家で飼われる以前はギリシャ語を専攻する大学教授やスウェーデン人の船乗りに飼われていました。それで、悪態を吐くときは人間にも動物にもわからないようにスウェーデン語を使う癖がありますが、機嫌が良い時は船歌を披露してくれます──こんな感じに。
I've seen the Black Sea and the Red Sea;
 I rounded the Isle of Wight;
I discovered the Yellow River,
 And the Orange too―by night.

Now Greenland drops behind again,
 And I sail the ocean Blue,
I'm tired of all these colors,
 Jane, So I'm coming back to you.

おれは黒海も見た 紅海も見た
 ワイト島もめぐってきた
黄河も見てきたし
 夜のオレンジ川も見てきたよ

グリーンランドが視界に消えて
 いま青海原にただよっている
色という色にも あき果てた
 ジェイン おれはもうおまえのところに帰るんだ

(訳・井伏鱒二)
 先のチャールズ2世の故事(岩波版の注釈で父王のチャールズ1世とするのは誤り)から逆算すると『アフリカゆき』の時代設定は1820年代後半から1830年代の前半、ジョージ4世(George IV, 在位:1820 - 1830)かその弟のウィリアム4世(William IV, 在位:1830 - 1837)の治世ということになるでしょうか。世界中に植民地を拡大して行った大英帝国の威容華やかなりしヴィクトリア女王(Queen Victoria, 在位:1837 - 1901)の治世、いわゆるヴィクトリア朝の前夜に当たる時代です。

 航海の途中は大きなトラブルも無くアフリカに近付きました──そう、近付きました。ところが、あと一漕ぎでアフリカに到着するという所で嵐に見舞われ、先生たちの乗った船は岩にぶち当たって座礁してしまいます。そして、命からがらアフリカ大陸に上陸した先生たちの前にこの一帯を統治するジョリギンキ王国の兵士が現れ、否応なく国王の前に連れ出されたのでした。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 05:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(4)──「いいとも、お嫁にゆきなさい」
 動物の言葉をマスターした世界でただ一人、そして最高の獣医師・ドリトル先生の評判は瞬く間にイギリス中、そして海を越えて世界中の動物たちに広まってゆきます。しかし、思わぬ理由でドリトル家は再び貧乏になり、妹のサラは怒りを爆発させてお嫁に行ってしまいます。
いいとも、お嫁にゆきなさい
「いいとも、お嫁にゆきなさい」
(『ドリトル先生アフリカゆき』の挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 獣医へ転職するに当たってオウムのポリネシアから動物の言葉を教わり、動物と自由に話せるようになったドリトル先生は老眼の馬にサングラスを作ってやったりして、その評判はペットや家畜を連れて来る人間以上にイギリス中、それどころか海の向こうの動物たちにまで広まりました。
 先生が特に可愛がっていた動物はポリネシアの他に雑種犬のジップ、アヒルのダブダブ、子豚のガブガブ、フクロウのトートー、そしてピアノを寝床にしている白ネズミでした。そんなある日、先生はイタリア人の手回しオルガン奏者がチンパンジーの首に縄を付けて連れ歩いている所に遭遇しました。チンパンジーがかわいそうになった先生はオルガン奏者から強引に1シリングでそのチンパンジーを買い取り、猿語で「元気」と言う意味のチーチーと名乗るそのチンパンジーもドリトル家で一緒に暮らすようになりました。
 それからしばらくして、今度は歯痛でサーカス団から逃げ出して来たワニがドリトル家に住み着くようになります。ワニはサーカス団へ戻るのを嫌がって暴れたので仕方なく先生が引き取ることになったのですが、そのせいでパドルビーの人々はワニを怖がってペットや家畜を連れて来なくなり、ドリトル家はまたもや貧乏になってしまいました。この事態に業を煮やした妹のサラはお兄さんに詰め寄ります。
「にいさん、あれをどこかへやってしまわなくちゃ、だめじゃありませんか。百姓やおばあさんたちが、こわがって、動物をつれてこないじゃありませんか。せっかくお金持になりかけたというのに……あんなきみのわるいものが、寝台の下にいるなんて。私は、あんなものを、家で飼うのは、いやなんです。」
 しかし、先生はサラに言います。
「……あれは、サーカスがきらいなのだし、さりとて、生まれ故郷のアフリカへ送り返してやる金は、わしにはない。べつに、ほかの者のじゃまもせんし……あんまり、さわぐでない。」
 サラは遂に怒りを爆発させ、
「でも、あんなものをおくのは、いやです!……にいさん、いますぐ、あれをどこかへやってしまわなければ、私は──私は、お嫁にいってしまいます。」
 サラの最後通告に先生は「やれやれ」と言った感じで、答えます。
「いいとも……お嫁にゆきなさい。それも、しかたがない。」
 こうして、サラはドリトル家を出てお嫁に行ってしまいました。
 サラが出て行ってドリトル家は先生ひとりになってしまいましたが、サラが家を出てしまったことに責任を感じた動物たちは相談してこれまでサラが仕切っていた家事を分担するようになります。チーチーは料理と裁縫を、ジップは尻尾に箒をくくり付けて掃除を、ダブダブははたきがけとベッドメイクを、トートーは家計簿の管理を、ガブガブは野菜の手入れを、そしてポリネシアは洗濯をすることに決めました。
 動物たちはみんなで知恵を出し合って貧乏暮らしを乗り切ろうとするのですが、やがてイギリスに厳しい冬の足音が聞こえて来ます。

 サラはシリーズ中に登場する先生と血縁関係に在るただ一人の家族ですが、正直に言って余り良い扱いを受けておらず、登場する度に怒ってばかりです。先生は結婚式に呼ばれなかったどころか便りも全くもらえないまま、幾度となく「かわいそうな、サラ! 今頃どうしておるのやら」と妹の身を案じることになります。やがて月日は流れ、この兄妹は思わぬ形で再開することになるのですが、その話はまた後日のお楽しみ。



 本文の引用は岩波少年文庫版(井伏鱒二訳)より。以後、特に断りの無い限り本文・固有名詞は岩波版に拠る。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 07:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(3)──ドリトル先生、動物語を習得する
 この物語の主人公、ジョン・ドリトル先生は特別な能力を持って生まれた訳ではありません。誰でも機会と学習意欲さえあれば、動物の言葉を自由に話せるようになるかも知れない。そんな期待を読者に抱かせる、物語の始まり。

ドリトル先生の家
パドルビーの外れ、オクスンソープ通りに面したドリトル先生の家
(『ドリトル先生アフリカゆき』の挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生の家はイングランド西部の片田舎にある沼のほとりのパドルビー(Puddleby-on-the-Marsh)という小さな町の外れを通るオクスンソープ通り(Oxenthorpe street)に面した、先祖代々の広大な敷地にあります。このパドルビーという町はもちろん架空の町で、第3巻『ドリトル先生の郵便局』の記述ではスロップシャー州(Slopshire)に属するとされています。この州も架空の地名ですが、綴りの似たシュロップシャー(Shropshire)という州は実在します。オクスンソープはパドルビーの隣町で、その町に通じているのがオクスンソープ通りです。イラストの右下には「オクスンソープまで10マイル」、キロメートル換算だと約16キロという斜めに建った石の標識があり、この標識が通りの名称の由来になっているようです。

 ドリトル家は先祖代々のジェントリ(gentry)、つまり地主の家系です。ジェントリというのは公爵や伯爵などの爵位を持つ貴族ではありませんが、貴族の名代として土地を治める領主でした。16世紀頃から封建制が崩れ始めると貴族の監督下を離れて所有する土地を農民に賃貸し、その収入で生計を立てるようになります。だから、本来ならば収入は安定しているはずなのですがドリトル家の広大な敷地は農民に貸している気配が無く、当主のジョンが開業医として得る収入が主でした。ところが、ジョンは動物が大好きで庭に多くの動物を放し飼いにしているだけではなく家の中でも動物を飼うようになり、リウマチのおばあさんがハリネズミの上に腰かけてしまうなどひどい目に遭った町の人々は診療所に近寄らなくなってしまいます。患者が寄り付かなくなって家はすっかり貧乏になってしまったので、妹のサラはジョンにいつも文句を言いますがジョンは「動物の方が可愛い」と取り合いません。
 そんなある日、毎年クリスマスの時期に必ず調子が悪くなって薬を処方してもらう猫肉屋──精肉店で仕入れた屑肉を猫や犬の餌用に町を巡回して売る商売人が、先生に「人間の医者をやめて、獣医になったらどうだ」とアドバイスします。先生が飼っているオウムのポリネシアもこの案に賛成し、ジョンはポリネシアから動物の言葉を教わって自由に動物と会話ができるようになりました。こうして、獣医に転職したジョン・ドリトル先生の診療所には町の人々がペットや家畜を連れて来るようになり、ドリトル家は再び金回りが良くなったのでした。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |


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