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ある在野の文学研究者の行動記録。

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解題『ドリトル先生アフリカゆき』(2)──小さなドリトル先生
 1917年に西部戦線の塹壕から生まれ、2人の子供の為に創作された『ドリトル先生』の物語は、思わぬ転機を経て世界中に広まって行きます。

『ドリトル先生アフリカゆき』初版本の扉絵
ドリトル先生アフリカゆき』初版本の扉絵

 1918年、ヒューは炸裂した榴弾の破片が足に当たって重傷を負い、アイリッシュガーズ連隊を除隊されてイギリスへ送還されます。こうして、ニューヨークからロンドンへ妻子を呼び寄せて療養生活に入ったものの、1919年にはアイルランド独立戦争が勃発しました。
 グレートブリテン島の西側に在るアイルランド島は19世紀から20世紀初頭まで全島が連合王国、つまりイギリスの支配下にありました。アイルランド自治法の成立によって自治権の委譲が始まったものの、第一次世界大戦が始まったことを理由にイギリス政府が手続きを凍結したことに対して南部の多数派であるカトリック信徒を中心に不満が高まり、イギリスからの分離独立を主張する共和国派(ナショナリスト)が武装蜂起したのです。この戦争は1921年に英愛条約が締結されて休戦となり、国教会(アングリカン・チャーチ)やスコットランド系の長老派信徒が多いアイルランド島北部・アルスター地方の6州(いわゆる北アイルランド)がイギリスに残留して一応の決着を見たものの、現在もなお未解決のままとなっています。
 ヒューは独立戦争の戦火を逃れる為、フローラ夫人の薦めも有って再び家族全員でニューヨークへ戻ることを決めます。また、ヒュー自身は母親が南部・ダブリン出身のカトリック信徒ですが、イギリス国王の近衛兵として戦った自負が強いことも有ってか、共和国派に対しては冷ややかだったようです。

 1919年の秋、大西洋を横断するニューヨーク行きの船内でヒューはセシル・ロバーツ(Cecil Roberts, 1892 - 1976)と親しくなります。ロバーツはイングランド東部・ノッティンガムの出身で19歳の時に詩人として見出され、第一次世界大戦当時はイギリス海軍の特別通信員を務めた新進気鋭のジャーナリストでした。ロバーツはヒューが毎日、夕方6時に決まって船室へ戻ることに気付き「どこへ行かれるのですか?」と尋ねました。この問いに対してヒューは「ドリトル先生と会うんです」と答えました。「“ドリトル先生”と言うのは誰のことですか?」とロバーツが尋ねると、ヒューは「実は、私の息子のことでして」と言い、船室で父親の帰りを待っていた4歳の長男、コリン・マクマホン・ロフティング(Colin McMahon Lofting, 1915 - 1997)を紹介したのでした──コリンは父親が創作した物語の主人公がすっかり気に入って「ドリトル先生」を自称していたのです。
 ヒューは痩身で背が高く、自身の創作したドリトル先生とは似ても似つかないどころか至って対照的な外観でした。背が低く、肥満体で団子鼻が特徴のドリトル先生の外観はコリンがモデルだと言われています。

石蹴りをするヒューとコリン
石蹴りをするヒューとコリン
(ヒュー・ロフティング画、The Making of Doctor Dolittleより)

 そして、ロバーツは手書きで挿絵もヒュー自身が描いた私家版『ドリトル先生アフリカゆき』を見せられ、強い感銘を受けました──「この本を是非とも出版すべきだと思います」。そう言ってロバーツはヒューにニューヨークの出版社、F・A・ストークス社を紹介しました。1920年、ストークスが『ドリトル先生アフリカゆき』を刊行するとこの本はロバーツが予想した通りに、いや、それ以上に大きな反響を呼び起こし、新聞や雑誌の書評ではルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やケネス・グレーアムの『たのしい川べ』、或いはウィリアム・メイクピース・サッカレイの『バラとゆびわ』と並び称せられるべき傑作だと、連日のように称賛されたのです。
 そして、イギリスに帰国したロバーツ自身も小説を書くようになり、1922年の小説デビュー作『はさみ Scissors』や1933年の『巡礼の小屋 Pilgrim Cottage』、1940年の『その後、浴槽に And so to Bath』などが代表作となっています。但し、戦前戦後を通じて日本語訳された小説作品は皆無で日本においてはジャーナリストとして多少、名前を知られている程度に留まっているようです。



The Story of Doctor Dolittle - 原文。

『ドリトル先生アフリカゆき』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生アフリカゆき』 ドリトル先生物語全集1こども図書館ドットコム
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(1)──戦場で生まれた物語
『ドリトル先生』シリーズの第1巻に当たる『ドリトル先生アフリカゆき』は1920年にアメリカ合衆国の出版社、F・A・ストークスから刊行されました。2年遅れて1922年にイギリスのジョナサン・ケープから、そして日本では1941年に白林少年館出版部から井伏鱒二の訳で刊行されたものが最初です。1951年以降は岩波少年文庫の1巻として刊行され、1961年には愛蔵版「ドリトル先生物語全集」の第1巻として現在も刊行が続けられています。

ストークス版の表紙
F・A・ストークス版(1920年)の表紙

ジョナサン・ケープ版の表紙
ジョナサン・ケープ版(1922年)の表紙


 物語の正式な表題は"The Story of Doctor Dolittle, being the history of his peculiar life at home and astonishing adventures in foreign parts"、直訳すれば「ドリトル博士の物語、彼の独特な家庭生活と異国での驚くべき冒険に満ちた半生について」と言ったところでしょうか。日本でこの物語を最初に訳した井伏鱒二は1978年の全集が改版された際の訳者あとがきで「どこのことを書いた物語かをだいたい示すため」に『ドリトル先生アフリカゆき』という邦題を付けたと述べており、後年に刊行された井伏訳以外の大半の日本語訳もこの慣例を踏襲しています。

 作者のヒュー・ロフティングは1886年1月14日にイングランドのバークシャー州で生まれました。五男一女の四男で上にはお兄さんが3人、下に弟が1人と末の妹がいました。幼少期から弟や妹に自分で創作したお話を聞かせるのが好きだったと言われています。
 8歳から18歳まで親元を離れてダービーシャー州の学校で寄宿生活を送った後に渡米し、マサチューセッツ工科大学へ入学しますが1年で中退してイギリスに帰国し、職業訓練校のロンドン・ポリテクニック(現在のウェストミンスター大学の前身校の一つ)への編入を経て土木技師になります。最初はカナダで金鉱の採掘と測量、その次に当時はイギリスの保護領だった西アフリカのナイジェリアやスペインから独立したばかりの新興国だったカリブ海の島国・キューバで鉄道建設に参加します。しかし、ナイジェリアやキューバでの生活は子供の頃から世界各地を自分の足で訪れ、実際に見て回りたいと思っていたヒューの理想とは遠くかけ離れたものでした。結局、ヒューはキューバでの仕事を終えると1912年にニューヨークへ渡り、フローラ・スモールと結婚してアメリカの永住権を申請します(アメリカの永住権を取得した後も生涯、イギリス国籍を持ち続けていました)。
 ヒューはニューヨークでイギリス情報省の駐在員を務める傍ら、雑誌に紀行文やコラム、短編小説の投稿を始めるようになります。最初の小説『排水溝と橋 Culverts and the Bridge』を書いたのもこの頃ですが、この短編小説は1931年に雑誌掲載の形で発表されたものの単行本化はされていないようです。1913年に長女のエリザベスが、1915年に長男のコリンが生まれた後、第一次世界大戦が勃発しヒューはイギリス陸軍の近衛部隊・アイリッシュガーズ連隊の志願兵として西部戦線に赴きました。このアイリッシュガーズ(Irish Guards)連隊は1900年、ヴィクトリア女王がボーア戦争でのアイルランド人兵士の活躍を讃えて創設した近衛連隊で、グレナディアガーズ、コールドストリームガーズ、スコッツガーズに続くもので、後にウェルシュガーズ連隊が創設されたので現在は5つある連隊の4番目に当たります。アイリッシュガーズ連隊にはアイルランド人やアイルランド系の血縁者がいる志願兵が配属されることになっており、ヒューはお母さんがアイルランド人だったので(母親をイングランド人とするブリッシェンの説は誤り)、この部隊に配属されたのです。日本で刊行された多くの解説では、岩波版はもとより直近の角川つばさ文庫でも"Irish Guards"を「アイルランド軍」と訳していますが、現在のアイルランド共和国の国防軍とは全く関係が無いので混同しないよう注意が必要です。

 1917年の西部戦線はイギリス・フランス・ベルギー、後にアメリカが加わる連合軍とドイツやオーストリア=ハンガリー、オスマン帝国からなる同盟軍が衝突する最前線でした。両軍ともフランス北部からベルギー南部のフランドル地方で一進一退を繰り返し、塹壕を掘って敵軍の銃弾をやり過ごす消耗戦を続けていましたがヒューがフランドルの前線に到着した頃は、ドイツ軍が1899年のハーグ陸戦条約で使用が禁止されていた毒ガス兵器をなりふり構わず投入してイギリス軍に多数の犠牲者が出るなど、連合軍側が劣勢を強いられていました。
 この西部戦線では戦車が初めて実用化されたことで知られていますが、まだまだ主戦力となるにはほど遠く、昔ながらの騎馬部隊が前線に配置されていた他、伝令にも馬が使役されていました。戦場で使役されていた動物は馬だけでなく、イギリス軍ではドイツ軍の毒ガス攻撃検知と伝染病を媒介するネズミを捕える二つの目的で、塹壕に猫を飼っていました。
「戦況が膠着し、食糧が不足し始めると猫は次第に元気を無くして痩せ衰え、遂には悟りの境地に達したかのような目つきになってしまった」と後年にヒューは回想しています。馬の境遇はなお悲惨なもので、軍隊には人間を診察する軍医はいても獣医はいません。だから、兵士が負傷した時は診察してもらえるのですが軍用馬が負傷した場合は診察など為されず、足手まといにならないようその場で銃殺されていたのです。ヒューはその光景に衝撃を受け、世の不条理を感じずにはいられませんでした──そして「馬の言葉、ひいてはあらゆる動物の言葉が自由に話せる腕利きの獣医がここにいれば、どんなに素晴らしいだろう」と閃いたのです。
 そこで、ヒューは塹壕の中でペンを執りニューヨークで父の帰りを待つ二人の子供に宛てた手紙に、イングランドの片田舎に住む動物の言葉が自由に話せる獣医・ドリトル先生(Doctor Dolittle)の物語を、挿絵も自分で描いて連日のように送り始めました。ヒューからエリザベスとコリンに宛てた手紙はニューヨークのロフティング家で丁寧に製本され、私家版『ドリトル先生アフリカゆき』が誕生したのです──ルイス・キャロルがアリス・リデルにプレゼントした『不思議の国のアリス』の原本『地下の国のアリス』のように。



The Story of Doctor Dolittle - 原文。

The Night We Talked to Santa Claus by Lynne Lofting - 長女のエリザベス(リン)が1960年に発表した、ヒューが西部戦線に従軍していた1917年のクリスマスの思い出に関するエッセイ。

『ドリトル先生アフリカゆき』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生アフリカゆき』 ドリトル先生物語全集1こども図書館ドットコム
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──はじめに
 そんな訳で、ヒュー・ロフティングの代表作『ドリトル先生』全12巻+番外編1巻の各巻解説に入る前に、このシリーズ全般の特徴について解説します。



 シリーズ全般の大きな特徴は三点。

1. 主人公が特別な能力やアイテムを持っている訳ではない

 と書くと「あれ?」と違和感を抱く方もおられると思います。確かに主人公のドリトル先生は「動物(シリーズ後半には昆虫や植物とも)と話すことが出来る」と言う、一般人の尺度から見たら「特別な能力」を持っている訳ですが、それは生まれ持った才能ではなく飼っていたオウムのポリネシアから教わって習得したから話せるようになった、つまりは「誰でも意欲ないし機会さえ有れば動物の言葉を身に着けられる」と言う設定であり、ドリトル先生が“初めから”特別な能力を持っている訳ではないのです。実際に、2巻『航海記』から登場するスタビンズ少年もドリトル先生と同様にポリネシアから動物語を教わり、先生には及ばないながらも動物と会話することが可能になっています。強いて言えば、ドリトル先生には「比類無き学習意欲」と「人間にも動物にも貴賤の分け隔て無く接する心の広さ」が有ったからこそ他の人間には為し得なかった特別な能力が授けられた、とも言えるでしょう。そう言う意味で、魔法や超能力・超科学を前提にした世界観ではないので、ジャンル上は純然たるファンタジーではなく「ロー・ファンタジー」に分類されることが多いようです。
 そして、ロフティング自身が2人の子供の為に『アフリカゆき』を書いていた時期から明確に意識していた訳では無く、巻を重ねるごとに確信して行った節が見られるのですが、彼自身は神話・伝説上の“英雄”とされる人物像──その多くは、敵対勢力や自身が属する集団の脅威を力で排除して、その功績を以て祭り上げられることが多いのですが──に長年、疑問を抱いており逆にもっと“普通の人物”ないし、人知れず偉業を成し遂げるけれど決してそれを鼻にかけない人物像を理想としていたようです。こうしたロフティングの理想とする人物像について、初めて日本語で全巻を訳した井伏鱒二は「巷間の聖者」と評しています。

2. 「時系列シャッフル」を採り入れている

 本シリーズの各巻の配列は、必ずしも時系列順になっていません。第1巻『アフリカゆき』が最初で、第2巻『航海記』はその後の話ですが第3巻『郵便局』、第4巻『サーカス』、第6巻『キャラバン』、第11巻『緑のカナリア』、そして最終巻の短編集『楽しい家』の内3編は『航海記』でドリトル先生がスタビンズ少年と出会うよりも以前の話とされています。ただ、第3巻『郵便局』に関してはどの時期に置くか諸説が分かれており、一部には『航海記』よりも後ではないかとする説もあるようです。
 もっとも、最終巻『楽しい家』を別にすれば各巻とも一冊の中で複数人の視点を行ったり来たり時間を遡ったりすることは原則として無く(唯一の例外は第6巻『キャラバン』で、後に第11巻『緑のカナリア』において詳述される部分を書き手に委ねている箇所)、第10巻『秘密の湖』や第11巻『緑のカナリア』とも、過去の出来事を回想する際は語り手の口を通じて回想させると言う手法を貫いている点が特徴的です。
 そして、巻によりスタビンズ少年と出会う以前/以後のどちらかに分けて話を書いていることにより、時系列に縛られて巻数を重ねるごとに扱うテーマが制約されて行くジレンマを回避することに成功していると言えます。

3. 挿絵も作者本人が描いている

 これこそが『ドリトル先生』を語るうえで不可欠の魅力と言っても過言ではないでしょう。作者本人が挿絵を描いた作品と言えば、ジーン・ウェブスター(Jean Webster, 1876 - 1916)の『あしながおじさん』やアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry, 1900 - 1944)の『星の王子さま』も有名ですが、ロフティングの挿画は作者本人が挿絵を描いた児童文学作品では間違い無く五本の指に入ると確信します。
 1968年にロフティングの評伝を刊行したエドワード・ブリッシェン(Edward Blishen, 1920 - 1996)はそのタッチを「日本の版画」風、つまり浮世絵のようだと評しました。今ならば「漫画的」と言えるでしょうか。『アフリカゆき』など初期の作品はヒレア・ベロック『子供のための教訓詩集』で挿絵を描いた「B.T.B」の影響が見られ、線が固くややオカルト調に振れた感が有るのですが第3巻『郵便局』以降は、土木技師としての職歴を活かした正確な作図とスケッチ能力の高さに漫画的な人物像が混在する魅力的な画風を確立しており岩波版以外で読んだ人にも是非、岩波版か原書(一部の巻はプロジェクト・グーテンベルクにも収録されています)でロフティング本人が描いた挿絵を見ていただきたいと思います。特に『サーカス』から『キャラバン』にかけての挿絵が秀逸です。

 と言う訳で、明日以降は第1巻『アフリカゆき』から順に、時折『ドリトル先生』以外の作品を挟みながら個別の作品解説に入って行きます。



 もっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

「ドリトル先生物語全集」と作者についてこども図書館ドットコム
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
現在の研究テーマ
 と言う訳で、今日から本格的にBLOGを指導させます。まずは4月に「在野の文学研究者」を名乗って、最初に選んだ研究テーマについて。

 皆さんはヒュー・ロフティング(Hugh Lofting, 1886 - 1947)と言う人をご存知でしょうか? ご存知無い方でも、この人が書いた『ドリトル先生』の名前は聞いたことがあると思います。そう。19世紀前半、ヴィクトリア朝時代のイギリスからアフリカ、南米、そして月世界まで冒険する世界でただ一人の動物の言葉が話せるお医者さん、ジョン・ドリトル(John Dolittle)先生を主人公にしたお話です。ロフティングは、この『ドリトル先生』のお話の作者です(挿絵も全巻、本人が描いています)。



 しかし、不思議なことに『ドリトル先生』の物語はとても有名で子供から大人まで多くのファンがいるにも関わらず(岩波書店によれば1951年から2010年までに、シリーズ全巻の累計で512万部を発行しているそうです)、作者のロフティングという人のことは余り知られていません。これは日本に限ったことではなく、彼が生まれたイギリスや結婚して『ドリトル先生』を書いたアメリカでも同じような状況だそうです。それでもイギリスでは1968年に、アメリカでは1992年に彼の伝記が1冊ずつ出ています。日本でも一応、岩波書店版のシリーズ第1巻『ドリトル先生アフリカゆき』の巻末などに簡略化された経歴は記載されていますが『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロル(Lewis Carroll、 1832 - 1898)や『シャーロック・ホームズ』を書いたアーサー・コナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle、 1859 - 1930)、また『星の王子さま』を書いたアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry, 1900 - 1944)などに比べると、作品の人気に比べて驚くほど伝記が少ないのです。
 そうなってしまった理由はいくつか有って、一つは米英で主に『アフリカゆき』の描写が人種差別的だと非難され、1970年代にほとんどの作品が絶版になってしまったことと、もう一つは彼がイギリス出身ながら文筆業に身を投じたのはアメリカへ移住してからなので、どちらの国からも「外国の作家」のように見られ「国民的作家」として扱われていないことの二点が大きいようです。それらの事情で余り彼の生涯については研究されて来なかったのですが、日本では2008年5月21日に著作権保護期間(戦時加算含む)を満了し岩波書店以外からの出版社からも何社か新訳が刊行されるようになりました(1巻『アフリカゆき』、2巻『航海記』、5巻『動物園』に関しては2008年以前から岩波書店以外の出版社も刊行しています)。
 まず、2009年のポプラポケット文庫版。

ドリトル先生 (ポプラポケット文庫)
ドリトル先生 (ポプラポケット文庫)
ヒュー ロフティング,小林 みき


 次に、2011年より岩波版以来50年ぶりの全巻訳を目指して刊行継続中の角川つばさ文庫版。



 このように「『ドリトル先生』も『アリス』や『ホームズ』、そして『星の王子さま』と同じような日本語訳の“読み比べ”が本格的に出来る時代になったのに、作者の情報が余りにも少ないのはどうなんだろう?」と疑問に感じたのが、ヒュー・ロフティングの伝記を書こうと思った出発点です。
 作品論、そして作品の世界観に関する本格的な解説書は、近年になり小説家で英文学者の南條竹則氏が2000年に文春新書で『ドリトル先生の英国』を上梓され、2011年には国書刊行会より増補改訂版『ドリトル先生の世界』が刊行されました。



 そこで、未だ補完されていない作者の研究をしようと思い、現在も伝記を書き進めているところです。本BLOGでは当面の間、伝記の方に盛り込むことが出来ない詳しい作品解説(もちろん『ドリトル先生』以外の作品も、日本語訳が刊行されていないものを含めて存在します)を中心にお届けしようと思っています。
| 84oca | お知らせ | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
新BLOG立ち上げ
 初めまして、もしくは御無沙汰しております。

 7年近くに及んだ東京での生活を終えて帰郷したことと、いくつか管理していたサイトがサービス終了で閉鎖されたことを契機に以前のBLOGを整理し新しいBLOGを立ち上げました。このBLOGの名前"Lawnbowls"は、日本語に訳すれば「玉転がし」です。書いている本人にもこの先、どこへ転がって行くかわかりません。

 昨年6月に某商工組合事務局の法務担当を退き、年末に兵庫県へ帰郷したもののこの不況の中では再就職もままならず、一念発起して在野の文学研究者となりました。現在、最初の研究成果を公表すべく鋭意、執筆を進めているところです。このBLOGでは作業報告やその他の思ったこと、古今東西を問わず作品紹介などをして行くつもりです。
| 84oca | お知らせ | 02:18 | comments(0) | trackbacks(0) |


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