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解題『ドリトル先生航海記』(1)──波瀾の連載「船の旅」
 1941(昭和16年)の初頭、白林少年館は井伏鱒二の訳で『ドリトル先生「アフリカ行き」』を刊行しました。井伏鱒二は『アフリカ行き』の訳を終えるとすぐに第2巻"The Voyages of Doctor Dolittle"の翻訳に取り掛かり、講談社の雑誌『少年倶楽部』で連載が始まりますが、その年の暮れに日本は太平洋戦争に突入したのでした──。
『ドリトル先生航海記』ジョナサン・ケープ版表紙
ドリトル先生航海記』ジョナサン・ケープ版表紙(1923年)

 講談社の『少年倶楽部』は1914(大正3)年に創刊した雑誌で、先行する博文館『少年世界』や実業之日本社『日本少年』などを追撃してシェアを拡大し全盛期の1936(昭和11)年には75万部を発行していました。
「ドリトル先生船の旅」の連載が始まったのは1941年1月号ですが、この時期の日本は1936年に開戦した日中戦争の膠着状態に加えて米英との関係も悪化の一途をたどっており、開戦は秒読み段階とみられる非常に厳しい状況下に置かれていました。そうした事情は連載の第1回から既に色濃く現れており、あろうことか「井伏鱒二」「河目悌二・畫(画)」と原作者であるロフティングの氏名表示を完全に削除し、あたかも井伏鱒二の創作であるかのようなクレジットになってしまっているのです。この措置には1893(明治26)年制定の出版法に基づく検閲が大きく関わっており、日本の“敵国”たるイギリス出身でアメリカ在住のロフティングの名を出版物に出すことが憚られる状態に在ったことは疑うべくもありません(但し、白林少年館版やその後を受けて刊行されたフタバ書院版『アフリカ行き』にはロフティングが原作者としてクレジットされており、検閲を実施していた内務省の画一的な指示ではなく講談社側の判断による自主規制だったと見るべきでしょう)。
 どうも第4巻『ドリトル先生のサーカス』や第10巻『ドリトル先生と秘密の湖』における記述を見るにロフティングは生前、しかも太平洋戦争の開戦よりも以前から日本という国に対して良い印象を抱いていなかったのではないかと思わざるを得ない箇所が作品中に散見されるのですが、殊に後者──恐らく、1945(昭和20)年の春頃に書かれたであろう箇所に関しては、この『少年倶楽部』における原作者の氏名削除と言う重大な問題(氏名表示権侵害)も全く無関係とは言えなかったのではないかと思えます。「船の旅」の連載が後半に差し掛かった1942(昭和17)年にはロフティングが晩年を過ごしたロサンゼルスでも日系人の強制収容が大々的に行われたのですが、戦争の無益さと全体主義への抵抗と言う二つの価値観の葛藤に生涯、悩み続けたロフティングはその光景に何を思ったのでしょうか。

 さて、この「船の旅」連載は原作者の氏名削除以外にも異例ずくめの中で続けられました。連載が中盤に差し掛かった頃、井伏は陸軍に徴用され宣伝班員としてマレー半島へ出征します。真珠湾攻撃が決行され、日米が交戦状態に突入したというニュースを知ったのは昭南島(シンガポール)へ向かう船の中だったそうで現地に到着後は「アブバカの話」「マレー人の姿」などの手記を執筆し、この当時の体験は後に『徴用中のこと』で一冊にまとめられました。井伏が日本を離れている間、連載は井伏名義のまま代理の訳者(「ゴーストトランスレーター」とでも言うのでしょうか)が作業を引き継いで、打ち切りに遭うことも無く1942年12月号で全24回の完結を迎えます。
 この連載が続いている間にも『少年倶楽部』の誌面は軍国主義一色に染め上げられ「愛国」「報恩」の勇ましいフレーズが記事にも広告にも氾濫する状態でしたが、そんな中で“敵国”の作家が創作した物語がその事実を伏せられた状態で連載されていたというのは『アフリカ行き』の刊行時と同様に、物語が読者を惹きつける強い力を持っていたからに相違無いでしょう。

 終戦後、光文社が『アフリカ行き』(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)を復刊した際に巻末で「船の旅」上・下巻が近日中に刊行される旨の予告が掲載されていますが、井伏は代訳の部分までも自分の名義で刊行することを良しとせず、結局『少年倶楽部』連載版「船の旅」の光文社からの刊行は中止されたようです。井伏は帰国してから直ちに後半部分も自分で訳し直して『ドリトル先生航海記』に改題し、1952(昭和27)年にようやく講談社・世界名作全集の一巻として刊行されました。この際には、連載時と違ってロフティングの氏名が原作者として正しく表示されていたことは言うまでもありません。

The Voyages of Doctor Dolittle - 原文。

 今回の記事執筆に当たっては「ホームズ・ドイル・古本 片々録 by ひろ坊」様のBLOG記事を参考にしました。
- 井伏鱒二「ドリトル先生船の旅」(『少年倶楽部』昭和16年1月号)
- (ドリトル先生2)ヒュー・ロフティング:南條竹則訳『ガブガブの本』(図書刊行会 平成14年11月21日)

『ドリトル先生航海記』をもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生航海記』 ドリトル先生物語全集2こども図書館ドットコム
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 19:34 | comments(0) | trackbacks(0) |

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