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解題『ドリトル先生アフリカゆき』(9)──1920年代の人権感覚
 前回からの続き。

 アメリカでは1960年代後半から1970年代にかけて、本作の黒人描写がステレオタイプ的な偏見に基づいているという非難を受けて書店や図書館から『ドリトル先生』シリーズ全巻が一斉に姿を消し、問題とされた箇所を削除・修正した改訂版の復刊までに20年近くを要しました。
 後年に批判の対象となった部分に関しては現代の人権感覚から見て「不適切」と評せざるを得ない描写を明らかに含んでおり、その点で批判に正当性があることは厳然たる事実と言わざるを得ないでしょう。しかし、それらの描写が作品の本質であるかのような全否定や、作者のヒュー・ロフティングがレイシストであるかのような非難は失当であると筆者は考えます。『オックスフォード世界児童文学百科』(原書房・1999年)の「ドリトル先生物語 Doctor Dolittle stories」の項では、以下のように解説されています。
……1970年代,(最初の2作での)黒人王子バンポの粗野な描写のせいで,人種差別だと批判された。これはたしかにロフティング側の判断ミスだったが,第1作はベロックやその流れをくむほかのユーモア作家から影響を受けたもので,シリーズ全体の特徴ではない。
 本作からの引用で例証するならば、例えばドリトル先生が猿の国へ行く為にジョリギンキ国王へ通行許可を求めた場面。
「わしの国を通すことは、ならん。」と、王様はいいました。「もう何年も前のことであったが、ひとりの白人が、この国へやって来た。わしはその男に、たいへんしんせつにしてやった。しかるに、その男は土に穴をあけて金を掘り、象を殺して象牙をとり、こっそりとじぶんの船で逃げ失せた。──『ありがとう』ともいわないで。二度とふたたび、白人には、このジョリギンキの国を通すことは、ならんのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 国王がドリトル先生を「白人だから」と言うだけで投獄してしまうのは八つ当たりもいいところで、以前に訪れた西洋人と違ってジョリギンキの国土を荒らすことなど微塵も考えていない先生から見ればとばっちり以外の何物でもありませんが、その原因となった西洋人の横暴に対する国王の怒りはもっともで、この視点を持つ作家は1920年代には極めて少数だったのではないかと思います。

 ヒューは1910年代初頭、当時はイギリスの保護領だったナイジェリアで鉄道建設に従事しました。実際に現地へ赴くまでは、未開の地に鉄路を敷いて現地の人々の生活を改善することを思い描いていたようです。しかし、実際にはこの鉄道建設は内陸で採掘した石炭をラゴスの港へ運ぶ為のもので、そこには歴然とした支配者と被支配者の構図が存在しました。ナイジェリア時代の体験は後に第3巻『ドリトル先生の郵便局』で色濃く反映されることになるのですが、支配する側に立つ西洋人が現地の人々に対して横暴な振る舞いを重ねることにヒューが失望し、怒りを覚えていたのは『郵便局』でも端々から感じられます。ただ、大英帝国の最盛期たるヴィクトリア朝後期に生まれたヒューが当時のイギリスにおける国是であった「未開の民を西洋人が正しく導く」という価値観に対する懐疑にまでは及ばなかったことも事実であり、刊行から90年近くが経った現在の感覚から作品を評価する際には、特に続巻『ドリトル先生航海記』や『郵便局』におけるこうした「大英帝国の国是」に肯定的な描写が受け入れ難いとする反応が生じることも、また正当であろうと思います。この点に関しては、岩波版『アフリカゆき』の1978年改版以降における石井桃子の総括が正鵠を得ているでしょう。
 ……それまで、ながく、いくつかの大国の、植民地とされていたところが、多くの独立国として歩きはじめました。これは、当然、それまで差別されていたひとたちの人権の問題にもつながってきます。
(中略)
「ドリトル先生物語」の場合にも、このなかにあらわれた、黒人にたいするロフティングの取り扱い方が大きな論議のまとになりました。ことに、黒人問題を大きな苦しみとしてアメリカでは、「ドリトル先生物語」は、公共図書館の公開の書棚にだしておくところは、ほとんどなくなったようです。
(中略)
 確かに、今日の目から見ると、誠実で、民族をこえて人間と言うものに愛情を抱いていたと思われるロフティングの作品のなかに、人種差別の気持ちがなかったとはいえない箇所にぶつかると、私たちはびっくりさせられます。しかし、一方、私たちはまた、ロフティングが生まれ、育った時代を考えてみる必要があるようです。彼が生まれた十九世紀の終わりごろといえば、イギリスは、世界のすみずみにまで植民地をもち、大英帝国の威容を誇っていたのでした。ロフティングも、いまに生まれれば、心から人種差別に反対しただろうと思えてなりませんが、一八八六年にイギリスに生まれた彼は、やはり、その時代の子であることをまぬがれなかったのです。
(中略)
 この作品の生まれてきた時代の、こうした背景を念頭におき、また、長い年月をかけて一連の「ドリトル先生物語」を書いているあいだに、ロフティングの心のなかに起こった考え方のちがいなども読みとっていただけると、幸いと思います。
 現在では米英でも差別的とされた箇所を削除・修正した改訂版でなく原書の表現を尊重したうえで執筆当時の時代背景について正しく解説し、読者の判断を仰ぐべきであるという意見も出て来ており、2010年には「現代の人権感覚上、不適切な表現を含んでいる」ことを明示したうえで原書の文章と挿絵を復元したオリジナル・バージョンが改訂版のペーパーバックとは別に刊行されていますし、プロジェクト・グーテンベルクインターネット・アーカイブでも原書を読むことが出来ます。

 なお付言すると、この『アフリカゆき』でバンポが顔だけを脱色するエピソードに影響を受けていると思われるのがフランスのクロード・アヴリーヌ(Claude Aveline, 1901 - 1992)が1937年に発表した『ババ・ディエーヌと角砂糖ぼうや』です。かつては岩波少年文庫に『黒ちゃん白ちゃん』の表題で収録されていました。当時フランスの植民地だった西アフリカのセネガルを舞台に村長の息子、ババ・ディエーヌと記憶を無くした状態で発見された角砂糖のように肌が白い少年の友情を描くこの物語では、後半に人種差別が如何に間違った考え方であるかを強調する作者の問いかけが入って来て角砂糖ぼうやの正体が実は肌を脱色する薬を飲んだ黒人の少年であると明かされます。この作品の執筆動機は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの侵攻で陥落したパリにおいてレジスタンスに参加した作者が抱いていたナチス・ドイツのアーリア人種優越思想に対する反発であったと言われています。
 そして、アヴリーヌがパリでドイツ兵と戦っていたのと同じ時期、ヨーロッパから遠く離れたアメリカ西海岸のロサンゼルスに居たロフティングもまたナチス・ドイツの全体主義が世界を席巻することに強い危機感を抱き、筆を執るのですがその話はまた後日に。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 10:06 | comments(0) | trackbacks(0) |

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