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ジョン・ロフティングの伝記
 以前に取り上げたヒュー・ロフティングの先祖に当たる発明家ジョン・ロフティング(John Lofting, 1659 - 1742)の伝記がイギリスで刊行されました。著者はデボラ・ダニエルズ( @DebEDaniels )さんです。

John Lofting
John Lofting
Deb Daniels
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 05:16 | comments(1) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(番外編)──Togetterまとめのログ
 ちょっとだけ更新。Togetterに以下のまとめを投稿しました。

解題『ドリトル先生』番外編──ヒュー・ロフティングとケイト・ハロワー
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 05:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(8)──ケイトのピーターズ家時代
 1928年にヒューと再婚し、2人目の夫人となったケイトことキャサリン・グロンソン・ハロワー(Katherine Gronson "Kate" Harrower)の前夫、フレイジャー・フォアマン・ピーターズ(Frazier Forman Peters)についても少し解説します。

フレイジャーとケイトの結婚写真
フレイジャー・F・ピーターズとケイトの結婚写真
(1916年、画像出典:eroszelda in Flickr

 ケイトの最初の夫・フレイジャーは1895年7月20日、聖公会(イングランド国外における国教会系統の宗派)の牧師で東洋学者のジョン・パネット・ピーターズ(John Punnett Peters, 1852 - 1921)の一子としてニューヨークで生まれました。
 1916年に同郷のケイトと結婚した後、コネチカット州ウエストポートへ転居し若き天才建築家として名を馳せました。特に石造りの家は評判が高く、旧居の在ったウエストポートでは1926年から1936年にかけて建設されたフレイジャーの設計になる石造りの家屋が文化財の指定を受けて数多く保存されており、町の重要な観光資源となっています。

WHS celebrates Frazier Forman Peters’ Classic Stone Homes and Sustainable Architecture(Westport Patch / October 2, 2011)

 ケイトは1918年に長男のヒュー(Hugh Peters)を、1920年に長女のキャサリン・ピーターズ(Katherine Peters)を出産しますが、1924年5月に次女のジュディス(Judith Peters)が生まれた頃からフレイジャーと不仲になり離婚調停を開始します。調停はヒュー・ロフティングの最初の夫人・フローラが亡くなった1927年中に成立し、ケイトは離婚成立から日を置かず1928年に3人の子供を連れてロフティングと再婚しました。しかし、この年の暮れに大流行したインフルエンザが原因で再婚から1年を経ず1929年1月9日に亡くなってしまいます。ケイトが亡くなった後、3人の子供はピーターズ家に返されました。この内、母親の名前を受け継いだ長女のキャサリンはダンサーとして大成し、画家のハロルド・シャピンスキー(Harold Shapinsky, 1925 - 2004)と結婚しています。

 フレイジャーはケイトの没後、ローラ・ストローム(Laura Stromme, 1894 - 1974)と再婚し4子を儲けました。ロフティングがコネチカットを去った翌年の1936年にはフレイジャーもコネチカットを離れ、ニューヨーク州ウォリックへ転居します。この年に設計を手掛け、ニュージャージー州アルパインでリオンダ夫人の発注を受けて建設された「マニュエル・リオンダの石塔」は現在でもピーターズの最高傑作と評されているそうです。

Manuel Rionda’s stone tower(The Lostinjersey Blog)

 フレイジャーは1963年2月に癌で亡くなりました。67歳でした。


 今回のエントリでは、以下のサイトを主な参考にしました。

Frazier Forman Petes' Architect
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 15:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(7)──フローラとケイト
 ヒュー・ロフティングは61年の生涯で3度にわたり結婚しました。長女・エリザベス(リン)と長男・コリンの母親である最初の夫人・フローラと、次男・クリストファーの母親で第11巻『緑のカナリア』と最終巻『楽しい家』の序文を書いている3人目の夫人・ジョセフィンはそれなりに知られていますが、2人目の夫人であるキャサリン(ケイト)・ハロワーについてはほとんど知られていないのではないでしょうか。

 ケイトの旧姓は多くの資料でピーターズ(Peters)ないし結合姓でハロワー=ピーターズ(Harrower-Peters)とされていますが、このピーターズという姓はヒューと再婚する前の夫の姓で、最初の結婚以前はキャサリン・グロンソン・ハロワー(Katherine Gronson Harrower)と名乗っていました。1893年12月23日、ホレイショ・ハロワー(Horatio Harrower)の娘としてニューヨークで生まれた彼女は若き天才建築家として名を馳せていたフレイジャー・フォアマン・ピーターズ(Frazier Forman Peters, 1890 - 1963)と1916年に結婚し、コネチカット州のウエストポートへ移り住みます。

 ケイトが後に再婚するヒューとどのような形で出会ったのかは明らかではありませんが、ロフティング家とピーターズ家には一時期、家族ぐるみの付き合いがあったようで両者はフローラを通じて知り合ったと見るのが自然なように思えます。位置関係で言うと、ウエストポートはロフティング家の在ったマディソンから西南西へ50kmほど離れた町です。

 ヒューが第4巻『サーカス』と絵本『おかゆ詩集 Porridge Poetry』を刊行し、そのまま第6巻『キャラバン』をニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の新聞連載小説として執筆していた1924年は多忙な年でした。遅くともこの年までにヒューとケイトは出会っていたはずですが、この年の5月に第3子となる次女のジュディスを出産したケイトと夫のフレイジャーは修復し難いまでの不仲となっていました。対するヒューも多忙を極める中で、西部戦線での凄惨な体験に起因するPTSDを発症してアルコール依存症に苦しんでいました。フローラは懸命に夫を看病していたのですが、この頃から体調を崩しがちになりヒューの側も妻に気苦労をかけていることをかなり気に病んでいたようです。こうして互いに家族関係で悩みを抱えていたことが、ヒューとケイトの間に恋愛と言うよりも何でも打ち明けられる親友のような関係を築く契機になったと見られます。実際、ケイトは家庭を支える役回りに徹したフローラと対照的にかなり自由を追い求めるタイプの女性だったようで、最初の夫・フレイジャーとの確執もそのあたりに原因がありそうです。そして、この「自由を追い求め、それでいて1人ではいられない」女性像はこの年に執筆した『キャラバン』で緑のカナリア・ピピネラとなって開花するのですが、それはもう少し先の話となります。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 08:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(6)──発明家ジョン・ロフティング
『ドリトル先生』シリーズの作者、ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting, 1886 - 1947)の遠い先祖に当たり、現在もロンドンの道路にその名を残しているジョン・ロフティング(John Lofting, 1659-1742)は様々な発明でイギリス、ひいては世界の工業史に名を残しています。

ジョンが発明した消防車の実演図
ジョンが発明した消防車を使いロンドン大火塔の展望台から放水を実演している様子。
右下がジョンの肖像(大英博物館所蔵

 カルヴァン派が国教に定められ、カトリック禁止令が公布されたネーデルラント(現在のオランダ)からイギリスへ兄弟を連れて亡命したジョンは1688年にイギリスへ帰化し、ロンドン北部のイズリントンに工房を構えました。ただ、イギリスへの亡命に至った経緯に関わらずロフティング家がジョンから代々、敬虔なカトリック信徒だった訳ではないようでジョンの弟のヒドー・ロフティン(Hiddo Loftinck, 1662 - ? ※姓の綴りに注意)は1698年に国教会(アングリカン・チャーチ)へ改宗していますし、ヒューに近い世代でも祖父のジョン・トーマス(John Thomas Lofting, 1832 - 1915)は国教会の信徒でした。ジョン・トーマスはアイルランド出身のカトリック信徒であるメアリー・アン・オブライエン(Mary Ann O'Brien, 1830? - ?)と結婚し、メアリーが次男(ヒューの父)のジョン・ブライアン(John Brien Lofting, 1857 - 1933)ら7人の子供には国教会でなくカトリックの洗礼を受けさせたので、ロフティング家はこの代にカトリックへ復したと見た方が良さそうです。

 ジョンはイズリントンの工房で従来は牛革や青銅を用いた製品が中心だった裁縫用の指貫を丈夫な真鍮で作り、年間200万個を生産するヒット商品に育て上げます。需要の拡大に対応するためバッキンガムシャーへ新工場を建設して増産を進め、18世紀半ばには「ロフティング型指貫」はイギリス全土でその名を知られるようになっていました。
 また、ジョンの発明としてもう一つ有名なものがあります。それは、消防車です。ロンドンは1666年9月1日に発生したロンドン大火で市街の85%を焼失した痛い経験より、木造建築を禁止して煉瓦ないし石造りの建物を中心にするなどの防災対策を進めていました。それまでの消火活動は人力でポンプを運び、テムズ川から水を汲み上げて放水していましたがジョンはこの放水用ポンプに車輪を取り付け、移動を容易にするアイデアを思いついたのです。このエントリの図は大英博物館に所蔵されているジョンが発明した消防車の実演図で、ロンドン大火記念塔の展望台から放水する様子がジョンの肖像画と共に描かれています。ジョンが発明した消防車はイギリスから故国のオランダへも輸出され、画家としても知られる「オランダのダ・ヴィンチ」ことヤン・ファン・デル・ハイデン(Jan van der Heyden, 1637 - 1712)が最初からポンプにホースを取り付けて水勢で消火するタイプへ改良し、現在の消防車の基礎が出来上がりました。

 ジョンはイギリスへ帰化した翌1689年、ロンドンの聖ニコラス教会(この教会の宗派は国教会です)でヘスター・バッセ(Hester Basse, 1670 - 1709)と結婚します。へスターの兄、ジェレマイア(Jeremiah Basse, 1665 - 1725)は新大陸のジャージー植民地(現在のアメリカ合衆国ニュージャージー州)で総督を勤めた人物で、帰国後に義弟のジョンと共に造船会社を設立しました。しかし、ニューヨーク植民地の取引先へ納品した船が知事に押収され、第三者へ売却されたので知事に対して訴訟を起こし、勝訴判決が出る前の1700年3月に会社は破産してしまいます。
 最後に、家系について述べるとジョンの七男、サミュエル・ロフティング(Samuel Lofting, 1696 - 1779)がヒューの直系の先祖に当たります。サミュエルはイギリス海軍において大佐(Captain)にまで昇り詰めた海の男で、退役までに3隻の艦船で艦長を務めました。1741年には南氷洋で沈没事故に遭い、奇跡的に生還するなど波乱に満ちた人生を送った人物だったようです。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 17:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(5)──ロフティング・ロード
 もうすぐ開幕するロンドンオリンピックのマラソンコースにも入っているチープサイド通りの西端から、A1道をまっすぐ北上した場所にあるイズリントン区にはロフティング・ロード(Lofting Road)と呼ばれる道路があります。

 この道路の名前の由来になっている「ロフティング」はヒュー・ロフティングではなく、その遠い先祖であるジョン・ロフティング(John Lofting, 1659-1742)です。ジョンはネーデルラント連邦共和国、つまり現在のオランダ・アムステルダムの出身で機械工を営んでいました。
 15世紀から16世紀にかけてオランダはカトリック国のスペインに支配されていましたが、ネーデルラント連邦共和国として独立した際にスペイン色の一掃を企図してプロテスタントの一派であるカルヴァン派を国教に定め、カトリック禁止令を公布します。首都であるアムステルダムの商人や職人にはカトリック信徒が多かったのですが、スペイン時代のプロテスタント弾圧に対する反動からカトリックに対する弾圧が激化を極めたのでジョンは兄弟を連れてイギリスへ亡命したと見られています。

アムステルダムを追放されるジョン・ロフティング
アムステルダムを追放されるジョン・ロフティング
(パンフレット『ドリトル先生の出来るまで』より、
ヒュー・ロフティング画)

 ジョンはイギリスへ亡命し、ロンドン北部のイズリントンに工房を置きました。この工房に面した道が後年「ロフティング・ロード」と呼ばれるようになったのです。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(4)──ナイジェリア時代
 1911年、ヒューは土木技師になって最初の仕事だったカナダでの金鉱測量を終えて西アフリカのイギリス保護領・南ナイジェリアでの鉄道建設に参加しました。『ドリトル先生』シリーズの第3巻『ドリトル先生の郵便局』はこの時代の体験が色濃く反映されたものとなっています。


 西アフリカのギニア湾に面したナイジェリアへ西洋人が最初に入植したのは、コロンブスが大西洋を横断してアメリカ大陸へ到達する20年前の1472年と言われています。この年にポルトガル人が奴隷貿易の拠点として建設したラゴスは西アフリカでも有数の大都市として発展し、1976年から1991年にかけて中央部のアブジャへ遷都するまでは首都の地位に在りました(現在でもナイジェリア、ひいては西アフリカ最大の都市である地位に変わりはありません)。
 ポルトガル人の入植から300年余り、ナイジェリア沿岸からダホミー(現在のベナン)、トーゴにかけての一帯は「奴隷海岸」(Slave Coast)と呼ばれていました。西洋の列強諸国がこの沿岸の王国に武器を供与して互いに争わせ、負けた陣営の兵士は捕虜として奴隷商人に売られ、アフリカ大陸からヨーロッパや南北アメリカへ連れ去られて行ったのです。ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660 - 1731)の『ロビンソン・クルーソー』で主人公が遭難して絶海の孤島へ流れ着いたのも、奴隷貿易で一山当てようとした矢先の出来事でした。
 イギリス本国では1772年に奴隷待遇から逃亡したアフリカ人男性の法的地位が争われたサマーセット事件で人を奴隷の身分に置く行為が非合法であることが判例により確定しましたが、世界各地のイギリス植民地では依然として奴隷貿易や強制労働が公然と行われていました。サマーセット事件の後、主に植民地からの引揚者を中心とする奴隷廃止運動が拡大したことを受けて政府は1787年に奴隷貿易廃止委員会を設置し、1807年に最初の奴隷貿易法が成立します。しかし、この法律の施行後に奴隷商人がイギリス海軍に拿捕されることを恐れて奴隷を海へ“投棄”する事件が頻発し「奴隷制度そのものを根本的に犯罪とすべき」との世論が喚起される結果となりました。こうして、1833年に奴隷売買のみならず奴隷の所有を全面禁止とする奴隷制度廃止法が新たに成立し、1834年に植民地を含むイギリス帝国内の奴隷全員が解放されたのでした。
 このように、世界に先駆けて奴隷制度廃止を宣言したイギリスは他の列強諸国の奴隷貿易拠点攻撃にも力を入れ、1861年にポルトガルの奴隷貿易拠点だったラゴスを陥落させます。ラゴスは周辺のイギリス植民地であった南ナイジェリア(1894年に領域確定)・北ナイジェリア(1901年併合)と合わせて1914年に3植民地を併合し、保護領の英領ナイジェリアとされました。

 ヒューが南ナイジェリア植民地の首都(総督府所在地)だったラゴスを訪れた1911年は3植民地の統合作業が進行している最中でした。ヒューが参加した鉄道建設計画はラゴスと北部の炭鉱を接続する貨物路線を敷くもので、最終的には国土全体をアルファベットの「H」字状にラゴスとポートハーコートの2箇所の港と炭鉱を接続する路線が計画されていました。未開の地に鉄道を建設し、現地の人々の生活を改善することを夢見ていたヒューはこの鉄道の主目的がイギリスで消費する石炭の輸送であることに少なからず失望を覚えたらしく、また現地の人々が生活の為に営んでいた狩猟を支配者となった西洋人が「非文明的」と言って禁止する一方で、自分たちは現地の人々から取り上げた狩猟地でスポーツハンティングに明け暮れると言った不条理を目の当たりにして強い憤りを感じたようです。
 ヒューは1911年にナイジェリアとキューバで鉄道建設に当たっていた時期について後年「その一瞬一瞬、全てを嫌悪していた」と強い口調で振り返っていますが、それは自分の理想と南ナイジェリアで体験した「支配者と被支配者」の現実に横たわる余りにも埋め難いギャップがそう言わしめたのだと感じます。その憤りと、かつて自分が思い描いていた理想の社会貢献のスタイルは12年後に『ドリトル先生の郵便局』となって結実したのでした。

 なお、ナイジェリアはヒューが鉄道建設に参加してから50年後の1960年にイギリスから独立し、1963年に共和制国家となりました。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 09:42 | comments(0) | trackbacks(1) |
ヒュー・ロフティング伝(3)──ニューヨーク時代
『ドリトル先生』の作者、ヒュー・ロフティングは1912年から1921年までニューヨークに住んでいました。
 ヒューが最初に渡米したのは1904年にダービーシャーの寄宿校を卒業し、マサチューセッツ工科大学(MIT)へ留学した時でした。しかし、ヒューは1年でMITを中退しボストンでの生活は早々と終わりを告げてしまいます。イギリスへ帰国し、1907年に職業訓練校のロンドン・ポリテクニック(現在のウェストミンスター大学の前身校の一つ)を卒業して土木技師となったヒューは最初にカナダで金鉱の測量、その後にイギリス保護領だった西アフリカのナイジェリアと1902年に独立したばかりだったカリブ海の新興国・キューバで鉄道建設に当たったことは以前にも何度か紹介した通りですが、キューバでの仕事を終えてそのまま2度目の渡米に踏み切った訳ではなく、1911年の前半に一度イギリスへ戻っていることが同年の国勢調査記録より確認されます。この記録によれば両親や兄妹ら家族とロンドン西部のブレントフォードで同居しており、次兄のジョン・ヘンリーが父親の家業である積算士の仕事を継ぐ目処が立ったので独立を考えたのではないかと見られます。
 1912年にニューヨークへ移ったヒューは同年に知り合った5歳年上のフローラ・スモール(Flora Small, 1880 - 1927)と結婚します。ちなみにヒューの父母であるジョン・ブライアンとエリザベス夫妻も祖父母のジョン・トーマスとメアリー・アン夫妻もヒューとフローラ同様に、夫人の方が年上でした。フローラは生まれも育ちもニューヨークで、ヒューは1913年にこの結婚を理由としてアメリカ合衆国の永住権を申請しています。
 ロフティング夫妻は当初、ニューヨーク市北部のハドソン川上流に在るキャットスキル山の近くに居を構えていました。この頃に新聞や雑誌に紀行文やコラム、最初に書いた短編小説『排水溝と橋 Culverts and a Bridge』などを投稿しますが、これらの文章の内どの程度が採用されたのかは明らかではありません。
 1913年11月に長女のエリザベス(リン)、1915年9月に長男のコリンが生まれた後、イギリス陸軍の志願兵となって西部戦線で1918年に負傷し、送還先のロンドンへ家族を呼び寄せた1年後の1919年秋に再びニューヨークへ戻ることにします。この際、アメリカの永住権申請に際してイギリス国籍を放棄しなかったヒューはごく短期間、イギリス情報省のニューヨーク駐在員として働いていました。情報省は外交に関する情報収集やプロパガンダ工作を専門に行う中央省庁で、第一次世界大戦を機に設立され第二次世界大戦後まで存続しましたが、外務省(現在の外務連邦省)の下部組織でウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham, 1874 - 1965)がスパイとして所属した情報局秘密情報部との業務内容重複などを理由に統廃合された後身組織の情報調査局は国内での政党工作発覚などの不祥事が相次いだこともあり、1977年に廃止されました。
 1919年にニューヨークへ戻ったロフティング一家は、1920年の国勢調査記録によると以前に住んでいたキャットスキルの南隣に当たりアイルランド系移民が多いことで知られるアルスターに住んでいたようです。しかし、この年に刊行した『ドリトル先生アフリカゆき』が全米で大評判となり、土木技師の仕事を辞めて専業作家として活動する決意をして1921年にコネチカット州マディソンへ転居し、そこで15年余りを過ごすのでした。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 20:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(2)──バークシャー州メイデンヘッド
『ドリトル先生』シリーズの作者、ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting)は、1886年1月14日にイングランド南東部のバークシャー州(Berkshire)にあるメイデンヘッド(Maidenhead)という町で生まれました。しかし、現在ではメイデンヘッドのみならずイギリス全域でロフティングの知名度は存命時に比べて低下しており、地元でも「郷土作家」としては扱われていないようです。


ドリトル先生の世界』(国書刊行会、2011年)の著者、南條竹則氏は日本航空の機内誌『SKYWARD』2008年4月号に掲載された「イギリス ドリトル先生に誘われて」で現地を訪問しており、その記事や新潮社『考える人』2010年冬号特集記事、そして『ドリトル先生の世界』などで現地取材について詳述しています。氏によれば、メイデンヘッドの公立図書館にロフティングや『ドリトル先生』についてまとめた一冊のファイルが保管されており、中には出生証明書の現物(岩波少年文庫の『秘密の湖』下巻に2000年改版より掲載されている解説「ロフティングの出生証明書」で、新井満氏が述べているものと同じでしょう)や新聞記事の切り抜き、主にポーランドや旧ユーゴスラビアのファンから送られて来たファンレターなどがまとめられているそうです。
 出生証明書によれば、ヒューの生家はメイデンヘッドのノーフォーク・ロード(Norfolrk Road)に面していたそうですがその家が現存するのか、また現存しないにしてもどの場所に建っていたのかはわからないと言うことです。

ノーフォーク・ロードの位置 大きな地図で見る


 当のヒュー自身も生前にこのメイデンヘッドという場所を「故郷」として強く意識していたかは疑問の余地があります。何故なら、1881年から1911年までの国勢調査記録を調べてみるとロフティング家の五男一女は以下のように出生地がそれぞれ異なっており、父のジョン・ブライアン・ロフティングもメイデンヘッドではなくロンドン北部のハイゲートで1857年に生まれたとされているからです。
  • 長男:ヒラリー(Hilary Lofting, 1881 - 1939)‥ロンドン南部、ノーウッド生まれ。
  • 次男:ジョン・ヘンリー(John Henry Lofting, 1882 - ?)‥シュロップシャー州オスウェストリー生まれ。
  • 三男:エリック・エドワード(Eric Edward Lofting, 1884 - 1950?)‥バークシャー州クッカム生まれ。
  • 四男:ヒュー・ジョン(Hugh John Lofting, 1886 - 1947)‥バークシャー州メイデンヘッド生まれ。
  • 五男:フランシス・バジル(Francis Basil Lofting, 1891 - ?)‥ロンドン南部、バラム生まれ。
  • 長女:メアリー・アンジェラ・エリザベス(Mary Angela Elizabeth Lofting, 1892 - 1982)‥フランシスと同じバラム生まれ。

 また、弟のフランシスが生まれた1891年の国勢調査記録によるとロフティング家は当時、ロンドン南部のストリーサムに居住していたものの、何故か当時5歳のヒューと7歳の三兄・エリックはイングランド南部のボーンマス(Bournemouth)という町に住んでいた祖父のジョン・トーマス(John Thomas Lofting, 1832 - 1915)宅に預けられていたことがわかります。ストリーサムの家が手狭なことと、弟の出産が近かったことが理由かも知れません。

 ジョン・ブライアンの職業は長兄のヒラリーが5月に生まれる直前に実施された1881年の国勢調査では"Staircase Maker (Wood)"、つまり「木製螺旋階段職人」となっていますが、後に王立サーベイヤー協会の認定資格である積算士(Quantity Surveyor)の資格を取って1933年に亡くなるまでこの仕事を家業としていたようです。積算士というのは発注者が提示する予算の内訳を見積もって施工業者と価格交渉を行う技能職で、何百年も同じ建物を補修しながら使い続けるヨーロッパならではと言える職業です。特にイギリスでは、王立協会公認資格として安定した地位と収入が保証される伝統的な職業となっています。
 ロフティング家では当初、ケンブリッジ大学構成校の一つである聖エドムント・カレッジを卒業して土木技師となった長男のヒラリーが家業を継ぐはずだったものの、ヒラリーは王立協会の認定試験合格が叶わなかったようで1915年にオーストラリアへ移住し、代わりに次男のジョン・ヘンリーが資格を取って家業を継いだようです。また、三男のエリックも建築家となりイングランド北部のニューカッスル・アポン・タインに建つ聖ジェームズ&聖バジル教会(The Church of St. James and St. Basil地図)など、エリックが設計した建築物がイングランド北部やスコットランドに何点か現存しています。
 積算士は各地で建築・補修の需要があれば機動的に対応しなければならない職業のため、ロフティング家の子供たちも一箇所に留まらずイギリス各地を転々としていたのでしょう。ヒューの出生地であるメイデンヘッドも、パドルビーの所在地とされるスロップシャー州(Slopshire)の名前の由来と見られ次兄のジョン・ヘンリーが生まれたシュロップシャー州(Shropshire)も海には面していませんが『ドリトル先生航海記』の冒頭でトーマス・スタビンズ少年がパドルビーの運河で往来する船を眺めていた光景は、もしかするとヒューが祖父宅に預けられていた頃に見たボーンマスの光景がモデルの一つになっているのかも知れません。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒュー・ロフティング伝(1)──2冊の伝記
『ドリトル先生』シリーズの作者、ヒュー・ジョン・ロフティング(Hugh John Lofting, 1886 - 1947)の伝記は、現在のところ日本では書籍の形では出版されていません。イギリスとアメリカではそれぞれ、1冊ずつ出版されているので今回はその2冊の伝記を紹介します。


 まず、1968年にイギリスのボドリー・ヘッドより刊行されたエドワード・ブリッシェン(Edward Blishen, 1920 - 1996)の評伝から。

 タイトルを見ていただければわかるように、本書はロフティングだけでなくジェフリー・トリーズ(Geoffrey Trease, 1909 - 1998)、ジェームズ・マシュー・バリー(James Matthew Barrie, 1860 - 1937)の評伝と合わせて1冊の本になっています。バリーの代表作は今更、説明不要の『ピーター・パン』(1908 - 1911年発表)で、もう一人のトリーズは『この湖にボート禁止 No Boats on Bannermere』で知られています。
 ブリッシェンはレオン・ガーフィールド(Leon Garfield, 1927 - 1996)との共著『ギリシア神話物語 The God Beneath the Sea』で1970年にカーネギー賞を受賞した他、チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens, 1812 - 1870)を始め数多くの作家の伝記を執筆しています。ロフティングの評伝もその中の一点として書かれたものですが、執筆された時期はアメリカで『アフリカゆき』における描写が人種差別的であるとして糾弾されていた時期に重なります。
 評伝の部分に関しては、次男のクリストファー(Christopher Clement Lofting, 1936 - )からの取材内容を含むものの参照文献が少なく、母親をイングランド人とするなど両親の家系に関する部分を始めとしていくつかの事実関係に誤りが見られます。

 次に、1992年にアメリカのトウェイン・パブリッシャーズより刊行されたゲイリー・シュミット(Gary D. Schmidt, 1957 - )の評伝。ブリッシェンのものと異なり、ロフティングのみを単独で扱った書籍は2012年現在でこれ一点のみです。

 シュミットはカルヴィン大学文学部教授で、自身も『最高の子 牛小屋と僕と大統領』(2005年)など何点かの小説を執筆しています。
 評伝の部分はブリッシェンのものと分量的に大きな差異は有りませんが、作品論に関してはブリッシェンのものよりも大きなウェイトを占めています。評伝の内容に関しては、次男のクリストファーだけでなく長女のエリザベス(Elizabeth Mary "Lynne" Lofting Mutrux, 1913 - 2002)と長男のコリン(Colin McMahon Lofting, 1915 - 1997)からも取材を行っている点は特筆すべきでしょう。ただ、ブリッシェンが両親の出自を誤っているのに引きずられたのか「ロフティング姓は母方のもの」とするのは誤りで、母方の旧姓はギャノン(Gannon)であることが1861年から1911年まで6回分の国勢調査記録などの資料により確認されます。別の機会に詳しく解説する予定ですがロフティング姓は紛れも無く父方のものであり、1920年にアメリカで行われた国勢調査記録でもヒュー自身が両親の出自について父のジョン・ブライアン・ロフティング(John Brien Lofting, 1857 - 1933)はイングランド人、母のエリザベス・A・ギャノン・ロフティング(Elizabeth A. Gannon Lofting, 1855 - 1939)はアイルランド人と記載しています。
| 84oca | ヒュー・ロフティング伝 | 04:00 | comments(0) | trackbacks(0) |


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