Lawnbowls

ある在野の文学研究者の行動記録。

お仕事募集中です。ご依頼は 84oca75 (アットマーク) gmail.com へお願いします。
解題『ドリトル先生航海記』(18)──まとめ
 本作は巻頭こそ「コリンとエリザベスへ」と2人の子供に対する献辞で始まっていますが、発売されるとまたたく間に前作以上の評判を米英の子供たちの間に呼び起こし、翌年には全米児童図書館協会が主催するニューベリー賞の第2回受賞作品となったのでした。
『ドリトル先生航海記』のエンドカード
ドリトル先生航海記』のエンドカード(ヒュー・ロフティング画)

 前作が淡々とした三人称文体で書かれているのに対し、本作ではトーマス・スタビンズ少年を語り部とし、彼が直に見聞きした(世間では何かと変人扱いされることの多かった)ジョン・ドリトル先生の偉大な業績についての記録という形を取っています。このスタイルの違いにより、純朴な童話的世界観の前作『アフリカゆき』と重複する「鳥がバッドニュースを運んで来る」「目的地への到着寸前に遭難」というシチュエーションを上手く別の角度から見せて読者にワンパターンと思わせない工夫が為されているのですが、これは前作を読んでいない新規の読者に対する配慮と取ることも可能です。当のロフティング自身も、2人の子供の為に書いた私的な創作が意外な経過で世に出た『アフリカゆき』は広範な読者層を対象にしたものではないと考えていたらしく、出版社より続編の執筆を依頼されたは良いにしろ最後まで好きになれなかった土木技師を辞めて専業作家となるかどうかの決意はなかなか固まらなかった形跡が見られます。クライマックスで先生が王位を降りてイギリスに帰るか否か苦悩する場面は、ロフティング自身の「本当に専業作家として活動すべきなのか、土木技師として途上国を開拓するのが自分の使命だったのではないのか」と言う逡巡が反映されたものだったのかも知れません。結局のところ、その問いに対してロフティング自身が出した答えは「創作の中で、理想的な開拓を描写する」ことだったと言うのが続巻『郵便局』の端々に強く感じられます。

 本作の後半、特にドリトル先生がシンカロット王として即位して以降の展開はよく島田啓三(1900 - 1973)の漫画『冒険ダン吉』と「先進国の指導者が未開の民に文明的な生活知識を伝授する」と言う植民地主義に肯定的な側面からの類似点が指摘されますが『ダン吉』完結から2年後の1941年、同じ雑誌(講談社『少年倶楽部』)で井伏鱒二訳の『ドリトル先生船の旅』が連載されたことと共に奇妙な運命の巡り合わせと言えるでしょう。

 そして、本作の後半における「未開の地に文明の恩恵をもたらす」と言うテーマは続巻『郵便局』で形を変えて繰り返されることになるのですが『郵便局』は「貧困からの自立」を隠れた主題としてミックスしている点が『航海記』と大きく異なっています。1920年代に列強の植民地や新興国が貧困ビジネスの悪循環に陥っている現場を目の当たりにし、その体験を基に貧困ビジネスの本質とその正しい解法を鋭く描写したロフティングは90年前にあって稀有な感性の持ち主だったことに、現代の読者は驚嘆させられるのです。


The Voyages of Doctor Dolittle - 原文。

『ドリトル先生航海記』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生航海記』 ドリトル先生物語全集2こども図書館ドットコム


解題『ドリトル先生航海記』目次
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 15:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(17)──さらば、クモサル島
 ポリネシアとスタビンズ少年はシンカロット王ことドリトル先生に悟られないよう、極秘に進めていたクモサル島脱出計画を実行に移します。
シンカロット王、真夜中の脱出
シンカロット王、真夜中の脱出(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 尻尾を痛めていた海カタツムリはようやく元気を取り戻しました。事はポリネシアの作戦通りに進んでいましたが、クモサル島の島民に愛着を感じている先生を連れ出すのはなかなか骨が折れそうでした。そこで、ポリネシアは「1週間ほど公務を休む」とお触れを出してはどうかと提案し、先生も了承します。同じ頃、南米大陸へ渡っていたロング・アローは再びクモサル島へ戻り、先生に長年かけて採取した珍しい昆虫や植物の標本を提供しました。それらの標本は、西洋では未知のものばかりでした。
 そして、一行は島民に気付かれないよう真夜中に王宮を脱出します。スタビンズ少年とバンポ、ロング・アローの3人は荷物をまとめ、先に海岸へ運んでいました。明け方、大ガラス海カタツムリの待つ海岸でポリネシアは先生に「これからイギリスへ帰る」と打ち明けました。ポリネシアはイルカやウニ、ヒトデを介して海カタツムリにイギリスまで送ってもらえるよう話を付けていたのです。
「ねえ、先生……王さまの事務は、先生の一生のうちの、ほんとうのお仕事ではありません。住民たちは、先生なしでもなんとかやってゆきますでしょう……いまは、なにもかもすてて、海カタツムリの申し出を承知なさってはいかがですか? 先生がこれからなさるお仕事や、お国へお持ち帰りになる報告は、ここでなされるどんなことよりも、はるかに値うちがあるのです。」
「いや、おまえ……それはできないよ。あれたちは、あの不衛生なやり方に、ふたたび逆もどりするだろう。悪い水、料理しない魚。下水のない町。伝染病……。いや、いけない。わしはあれらの健康と幸福を守ってやらねばならぬ。」

(訳・井伏鱒二)
 この場面は後年になって、大英帝国の威容華やかなりしヴィクトリア朝の国是であった「未開の民を善導するのが世界の最先進国たるイギリス人の責務」という価値観を吐露したものとして強い批判に晒されることが多くなりました。先生は飽くまで純粋に自分を慕う善良なクモサル島民のことを考えているのですが、同時に彼等は自分がいなくても一人立ちして行けるほど賢いと思っていないと言うこの記述に関しては、残念ながら『アフリカゆき』と同様に1920年代の人権感覚と、その時代を生きたロフティングの認識の限界と評価せざるを得ないところです。

 その後も、先生は何かと理由を付けて王宮へ自分の荷物を取りに戻ろうとするのですが愛用の手帳はスタビンズ少年が、ロング・アローの貴重な最終標本は当人が、食糧は休暇中の分を既に用意させたとポリネシアが言い、愛用のシルクハットをバンポが差し出した所で先生は観念し、遂に王冠を脱いだのでした。

 先生が王冠を砂浜に置き、島民に許しを請いながら涙ぐむ場面は本書の刊行後にロフティングが追加で挿絵を描き下ろしており、没後の1967年に刊行された『ドリトル先生物語選集 Doctor Dolittle: A Treasury』に収録されています。

 そして、世にも珍しい1週間の海底旅行を経て先生たちはようやく2年余りの長い航海を終え、イギリスへ帰って来たのでした。この続きは、第5巻『ドリトル先生の動物園』で語られることになります。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:30 | comments(1) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(16)──海カタツムリ現る
 全く気が進まないままクモサル島の王に推挙されてしまったジョング・シンカロット王ことドリトル先生。退位を申し出ようにもなかなかその機会は訪れず、次第に自分を慕う島民への愛着も湧いて来ます。そんなある日、ポリネシアは島の入り江で以前に銀色フィジットから聞いたあの巨大生物を発見したのでした──。
蝶を追いかけるシンカロット王
蝶を追いかけるシンカロット王(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 シンカロット王が即位後、最初に取り掛かったのは漂流前はクモサル島の沿岸部にあったポプシペテルの集落を内陸の高台に再建する作業でした。上水道や下水道の整備、煉瓦作りなどのインフラ整備がシンカロット王の指導で次々に進められ、ポプシペテルの町はテントが立ち並んでいた以前の集落とはすっかり様変わりしたのでした。
 町の建設が一段落した後もシンカロット王は学校を開いて自ら老若男女の島民に知識を授け、また揉め事を仲裁したり医師として島民を診察したりの多忙な日々を送りました。愛用のシルクハットも使わせてもらえず、僅かな自由時間を研究に当てて虫取り網を手に蝶を追いかける時も王冠が頭上にありました。
 こうして月日は流れ、シンカロット王の即位から2年が経ちました。スタビンズ少年もバンポもポリネシアもチーチーもジップも、最初は物珍しかったクモサル島の生活にすっかり飽き飽きしてしまいました。また、ロング・アローは島での用を終えてアンデスへ帰って行きました。
 そんなある日の早朝、島で地震が起きました。震源地と見られる入り江に様子を見に行ったポリネシアは興奮した様子で以前、英語で歌う魚の銀色フィジットが言っていた大ガラス海カタツムリを発見したとスタビンズ少年に伝えます。知恵者のポリネシアは、今のままだとイギリスへ帰ろうにも船が無い有様だが海カタツムリを説得すればイギリスへ帰れるのではないかと言い、相変わらず島民の求めに応じて惜しみなく西洋の文明を伝授するシンカロット王ことドリトル先生には内密で海カタツムリを説得する計画を立て始めたのでした。
 スタビンズ少年とポリネシアは脱出計画のことを伏せて先生を海カタツムリと対面させました。古代の貝類である海カタツムリの言語は難解で、間に様々な種類の魚や貝を挟んでようやく意思疎通が出来る有様でした。海カタツムリは銀色フィジットが言っていた通り、世界最深の海溝である「深い穴」に住んでいたのですがクモサル島が漂流をやめて現在地、つまり「深い穴」を塞ぐように沈降して来たので慌てて飛び出したものの、尻尾を挟まれてしまったのでした。それから長い月日の──何万年も生きているこのカタツムリの生涯から見ればごく短い時間なのでしょうが──悪戦苦闘の末に、ようやく尻尾にのしかかっていた島を払いのけたのが地震の原因だったのでした。先生は腫れ上がった海カタツムリの尻尾に手当てを施している間、スタビンズ少年とポリネシアは海カタツムリの回復を待って先生に気付かれないよう脱出計画の準備を進めることを確認しました。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(15)──ジョング・シンカロット王の即位
 クモサル島で起きた難題を立て続けに解決したドリトル先生はポプシぺテル族の選挙で新しい長老に選ばれ、遂には島の王様に祭り上げられてしまいます。
ささやき岩と休火山のかかり石
ささやき岩と休火山のかかり石
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生がバグ・ジャグデラグ族の集落へ講和条約を締結に行っている間にポプシぺテル族の集落では亡くなった長老に代わる新しい長老を決める選挙が執り行われ、先生が新しい長老に選出されました。それどころか、島を統一する偉大な王として島内のささやき岩(The Whispering Rocks)で戴冠式が実行されることになってしまいます。
 先生は「自分は王になどなりたくないし、その器でもない」と辞退しますがポプシぺテルの人々の意志は固く、また講和条約を結んだバグ・ジャグデラグ側もこの結果を受け入れると伝えて来たので困り果ててしまいました。バンポは自分の父王──かつて「白人だから」と言うだけの理由で先生を投獄したジョリギンキ国王に120人の夫人がいることを引き合いに出して「王様になるのも悪くないのでは」と言いますが、先生は「それはよろしくない。120倍もよろしくない」と顔をしかめるばかりでした。
 この場面はよく「先生は女嫌いである」と言う意味で引き合いに出されますが実際のところ、19世紀前半のジェントリ(地主階級)は独身者が珍しくなかったことと先生にとって長年、最も身近な女性が何かにつけて口やかましい妹のサラだったと言うあたりの印象を率直に述べているだけで、そこまで深読みする必要はないのかも知れません。ブリタニカ百科事典では「独身者の自由奔放な生活を生き生きと描写している」点に本シリーズの魅力があるのだと解説されていることもまた事実ですが。
 また、ロング・アローは島民の意思が固い以上、自分にはそれを拒む術がわからないと言った風で先生に同情のまなざしを送るだけだったので、とうとう先生は即位を受諾せざるを得なくなってしまいました。
 そして、島の中心部にあるささやき岩で戴冠式が執り行われることになりました。このささやき岩はすり鉢状の峡谷で、ひそひそ声で話したことでも峡谷いっぱいに声が伝わるのでそう呼ばれています。その中心には象牙で作られた玉座があり、その玉座で島を統一する偉大な王に王冠を授ける時、クモサル島は漂流をやめると伝承されているのでした。戴冠式の当日はポプシぺテルの人々が全員、円形競技場を埋め尽くすように、クモサル島の師史上初めて全島を統一する偉大な王の即位に立ち会おうとささやき岩へ集いました。
 この即位に際し、先生のジョン・ドリトル(John Dolittle)──"Dolittle"は"do little"、つまり「僅少な働き」を意味し、それは先祖が怠け者だったのでそう呼ばれていたと思われますが──と言う名前は偉大な王にふさわしくないとして、新たにジョング・シンカロット(Jong Thinkalot)つまり「多くを考える」と言う意味の"Think a lot"へ勝手に改名してしまいます。
 先生が木製の王冠をかぶり、玉座に腰かけるとポプシぺテルの人々は一斉に「ジョング王万歳!」「ジョング王の末永き治世を!」と叫び始め、新王の即位を祝福する声が峡谷中に響き渡ります。すると、島の最高峰である休火山の山頂にあるかかり石(the Hanging Stone)がその響鳴に揺り動かされて火口へ転落し、そのままクモサル島の地下に広がるガスの溜まった空間を貫いてしまいました。その結果、クモサル島は伝説の通り漂流をやめてようやく安住の地を得たのでした──その際、海岸沿いの海抜が低い場所にあったポプシぺテルの集落は水没してしまいましたが、一人の例外も無くささやき岩で戴冠式に立ち会っていたので全員が無事でした。

 ロング・アローにしてもクモサル島の島民たちにしてもそうですが、現在では政治的な理由で"Native American"と呼ばれることが多い人々のことをロフティングは作中で"Indian"と一貫して表記しています。しかし、その外観や慣習はアングロアメリカ(アメリカ合衆国とカナダ)のインディアンとラテンアメリカ(メキシコ以南、南アメリカ大陸、カリブ海)のインディオを混同してしまっている感が否めません。ロング・アローの場合、ペルーのアンデス山中で生まれ育ったと言うぐらいなので15世紀から17世紀にかけてスペインのコンキスタドールに滅ぼされたインカ帝国の末裔、つまりインディオのようにも思えますがその風貌はどう見てもアングロアメリカのインディアン風ですし、クモサル島の島民にしてもラテンアメリカのインディオ(インカ帝国、或いはアステカ帝国)のように王を戴くかと思えば、トーテムポールを築くなどやはりその風習は血縁支配の伝統が存在しないアングロアメリカのインディアン風です。こうした描写の不正確さは何もロフティング個人の取材不足という問題ではなく、よく「コロンブスが連れて来た」と言われる白人の視点から書かれた多くの文学作品や映画作品──何度も映画化されているジェイムズ・フェニモア・クーパー(James Fenimore Cooper, 1789 - 1851)の『モヒカン族の最後』なども共通して抱える問題であり、そうした刊行時には余り重視されなかった問題点の存在を現代の読者は認識する必要があるでしょう。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(14)──相次ぐ難題
 無事にロング・アローを救出したものの、クモサル島には相次いで難題が降りかかって来ます。ドリトル先生は動物たちの協力も得ながらそれらの難題を次々に解決し、島民の絶大な信頼を得て行くのでしした。
「恐るべき三人衆」の壁画
「恐るべき三人衆」の壁画
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 クモサル島はポプシペテル族とバグ・ジャグデラグ族という部族が勢力を二分しています。ロング・アローは、少数派のポプシぺテル族は気立てが良く勤勉なのに対して多数派のバグ・ジャグデラグ族は好戦的でいつもポプシぺテル族の収穫を掠奪するばかりの横暴な集団だと言い、心底からバグ・ジャグデラグ族を軽蔑しているようでした。
 ロング・アローやその道案内をしたポプシぺテルの村民が先生たちに連れられて集落へ戻って来ると、長老は今朝方に風邪をこじらせて亡くなったと知らされました。地下に広大なガスの溜まった空間が有る浮遊島のクモサル島は、どうやら南氷洋に向かって流されているらしく日増しに気温が低下し、風邪が流行していたのです。先生は火を起こして暖を取らせなければいけないと考えますが、クモサル島では誰も火の起こし方を知りませんでした。そこで、古いリスの巣と木片を用意させてこすり合わせ、摩擦を利用して火を起こすと人々は驚きます。それから先生は一晩をかけて火を使って人々に暖を取らせたり、灯りを作らせたり、魚を焼いて食べる方法を教えたりしたのでした。
 翌日、バグ・ジャグデラグ族がポプシぺテルの村を襲撃して来ました。以前にポプシぺテル族が和平交渉の為に使者を送った際は、バグ・ジャグデラグ族はポプシぺテル側の意向を一笑に付しその使者を斧で惨殺してしまったと言います。話し合いが通じない相手であることを聞かされた先生は気が進まないながらも戦うことを決意し、バンポとロング・アローも加勢しました。
 ポプシぺテルの村はたちどころにバグ・ジャグデラグ族の戦士に取り囲まれてしまいますが、へポリネシアが南米大陸から連れてきた黒オウムの大群が参戦して戦況は一転します。黒オウムたちは戦士の耳たぶへ器用に噛み付き、戦士たちはほぼ例外無く三角形のギザギザの刻印を付けられて悶絶し、一斉に退却しました。後年、この耳たぶはバグ・ジャグデラグ族の大きな特徴として語り継がれるようになります。

 そしてジョン・ドリトル、ロング・アロー、バンポ・カアブウブウのそれぞれ異なる人種である3人もその果敢な戦いぶりが後世まで伝えられ「恐るべき三人衆」の壁画と次のような歌が作られたのでした。
 三勇士の歌

ああ、きいてくだされ「三勇士」の歌を、
海辺の崖の上で戦った三人の働きを。
むらがる地バチのようにバグ・ジャグデラグ族が、
山から、岩の上から、崖の上からおりてきた。

この村はかこまれ、垣は破られた。
ああ、もうだめか、町も人間も苦境におちた!
ところが、天はお助けくださろうと、
この村に「三勇士」をお送りくだされた。

ひとりは色が黒い──夜のように黒かった。
ひとりは肌が赤く、山のような背高童子。
だが、大将は白い人で、ミツバチのように丸っこい。
そして、一列にならんだこの「三勇士」。

肩をならべて、なぐったりたたいたり、
阿修羅のように、けったり、かみついたり。
壁のように一列に立ちはだかり、
一撃のもと六人の敵を張り倒す。

ああ、赤は強く、黒はものすごい。
バグ・ジャグデラグはふるえあがって逃げ失せる。
だが、敵方が「用心しろよ!」とおそれたのは、白い人、
ひとかかえの敵をぽんぽん空高く投げとばす。

のちのちまでも、この赤、黒、白の話がでると、
夜中に泣く子も黙るだろう。
そこでみんな、のちのちまでうたおう、「三勇士」の歌を、
海辺の崖の上で戦った三人の働きを。

(訳・井伏鱒二)
 井伏訳の「阿修羅のように」は、原文では"Like demons of fury"とされています。ロフティングは第一次世界大戦の激戦地であった西部戦線で戦争の凄惨な現実を目の当たりにしたことが作家活動に進む直接的契機となっただけ有り反戦と平和への願いを強く持ち続けていましたが、一方で暴力的手段による掠奪や自由な言論・表現を封殺する全体主義への対抗手段は、やはり武力しか無いのではないかと言う諦念にも似た感情を抱き続けていた形跡があり、それは晩年に顕著となるのですがこのエピソードや続巻『郵便局』の後半など1920年代前半の、彼の人生において最も幸福だったであろう時期においてすらも「戦争の無益さ」と「話し合いを否定する脅威への抵抗」と言う半ば矛盾する二つの価値観の葛藤が見て取れることは非常に興味深いものがあります。

 バグ・ジャグデラグ族の襲撃を斥けた先生は翌日、バグ・ジャグデラグの集落を訪ねてポプシぺテルとの講和条約締結を要求しました。抵抗しようにも、集落の周りはあの恐ろしい黒オウムに取り囲まれていたのでバグ・ジャグデラグ族は本気で改心し「今後は未来永劫、ポプシぺテル族から掠奪しない」「互いの部族は、一方が飢饉や災害などの難題に見舞われた場合は協力し合う」という二箇条からなる条約を受け入れます。この条約は「オウム講和条約」と命名されました。
 こうして、長きにわたる部族間の紛争を解決した先生は次に南氷洋に向かって漂流するクモサル島をクジラの群れに頼んで赤道近くまで押し戻すことにしました。適当な浅瀬でガスが溜まった地下空間に穴を開ければ、島は兵糧を止めて固定するだろうと考えたのです。ところが、ポプシぺテルの村では風邪で亡くなった長老に代わる新しい長老を決める選挙が行われていました。そして、選挙により新しい長老に選ばれたのは──。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(13)──ロング・アロー救出
 クモサル島に到着したドリトル先生の一行は岩盤の崩落で遭難していた偉大な博物学の大家、ロング・アローを救出し、世紀の対面が実現します。
世紀の対面
世紀の対面(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生の一行はクモサル島へ上陸し、まずは島民が住んでいる集落を探しましたが近くに集落は無く、ひとまずジャングルを抜けることにしました。アフリカ生まれでジャングルの移動に手慣れたポリネシアやチーチーの道案内で一行は大きな危険に遭うことも無くジャングルの中を進みますが、途中で先生は希少種のカブトムシ・ジャビスリー(Jabizri beetle)を発見して捕獲します。そのジャビズリーの脚にはクモの糸で何か絵が描かれた葉っぱが括り付けられており、先生はその絵の意味を「鷹の頭の形をした山で岩盤が崩落し、洞窟に閉じ込められた人がいる」と解釈しました。そして、敢えて希少種のジャビズリーに手紙を託したのは「この珍しい虫を見た人が必ず捕まえるだろう」と考えてのことで、そう考えるのは博物学の大家、ロング・アローその人に違いないと推理します。
 特徴的な形でジャングルの中からもはっきり見えていた鷹頭山(Hawks' head Mountain)で岩盤が崩落した現場に到着すると、確かに絵手紙の通りとても3人では動かせそうにないほどの巨大な岩が洞窟の入り口を塞いでいました。しかし、大岩が乗った地盤はそれほど硬くなさそうだったので、ジップの発案により地面を掘って岩を地滑りで下に落とすことにします。この作戦は見事に成功し、地面を掘ると巨大な岩はバランスを崩して前のめりに倒れ、真っ二つに割れたのでした。
 そして、ドリトル先生は洞窟に閉じ込められていた博物学の大家、ロング・アローと世紀の対面を果たします。しかし、先生はインディアンの言葉を知らずロング・アローも英語を知らないので互いの意思疎通は上手く行きません。そこで、先生は様々な動物の言葉で語りかけますがやはりロング・アローには通じませんでした。ようやく、ワシの言葉で語りかけるとロング・アローに通じました。ロング・アローは先生ほど動物語を自由に操れないものの、鳥の言葉は習得していたのです。
 ロング・アローはこの洞窟にだけ生えている薬用のコケを採取する為にクモサル島へ渡り、島民の案内で洞窟に入ったところ岩盤が崩落して閉じ込められてしまったのでした。ロング・アローと共に救出された島民は何人かが衰弱していたものの命に別状は無く、全員がポプシぺテルの村に生還しました。

 先生とロング・アローという互いに尊敬し合っていた者同士が人種はもとより、言語をも超越して初めて対面するこの場面は本作における最大の名場面と言えるでしょう。本作も前作『アフリカゆき』も後年に一部の描写を以て人種差別的と指弾されることが多かったのですが作品の本質、ひいてはロフティングの理念がこの場面のように人種の相違を超越した敬意や友情にあると言うことが本作の刊行時も現在もいささかの揺るぎも無く多くの読者に伝わったからこそ、発表から90年以上も経った現在もなお読み継がれているのだと筆者は考えます。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 21:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(12)──遭難、そして到着
 長い航海の末に船はようやく目的地のクモサル島へ近付きます。しかし、突然の大嵐に見舞われて船が大破し一行は遭難してしまいました。スタビンズ少年は大破した船のマストに縛られた状態で目を覚まし、イルカの群れに導かれて先生、バンポ、ポリネシア、チーチー、ジップと無事に再開します。こうして、一行は苦難に満ちた航海を終えて目的地のクモサル島にたどり着いたのでした。
大破した船のマストに縛られた状態で目を覚ますスタビンズ少年
大破した船のマストに縛られた状態で目を覚ますスタビンズ少年
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 以前の解説でロフティングは同じシチュエーションを何度も再利用する傾向があると書きましたが、この場面もまさしくその典型と言えます。思い出してみてください。前巻『アフリカゆき』でも、先生の一行を乗せた船がアフリカへ上陸する直前に嵐が襲って来て、岩礁にぶつかって大破してしまいました。今回も「目的地への上陸寸前に嵐が襲って来て船が大破する」シチュエーションは同じです。しかし『アフリカゆき』が三人称で書かれているのに対して本作『航海記』はスタビンズ少年の一人称文体で書かれているので、読者にワンパターンと感じさせない工夫が為されているのです。
 ようやく嵐が去り、スタビンズ少年が目を覚ますと大破した船のマストにロープで縛り付けられていた状態でした。どうやら先生が海に投げ出されないように気絶したスタビンズ少年を縛り付けたようです。スタビンズ少年がポケットナイフで縄を切ると、そこへ紫極楽鳥のミランダが舞い降りて来ました。ミランダは先生たちが全員無事であることを知らせ、イルカの群れが船の残骸をクモサル島まで導いていることを教えてくれました。
 ミランダはシリーズ中、彼女に対して悪態を吐いたスズメのチープサイドに比べると出番は非常に少ないのですが印象に残るキャラクターです。他に(特に、人間の登場人物では)“お姉さん”的なポジションのキャラクターがいないこともその理由でしょう。
 そして、スタビンズ少年は無事に先生たちと再会し一行は「運まかせの旅行」の儀式で目的地となったクモサル島に上陸したのでした。

 次回以降は再度、周辺の話題を2〜3回挟んだ後に『航海記』の解説を再開する予定です。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 19:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(11)──歌う魚・銀色フィジット
 カパ・ブラカン島を出航し目的地のクモサル島へ近付く一行。先生は航海中も魚介類の言葉を研究し、驚くべきことに英語で歌う魚と遭遇したのでした。
英語で歌う魚を発見して驚く先生
英語で歌う魚を発見して驚く先生
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生が大西洋上で採取した銀色フィジットという種類の魚が英語で歌っていることに気が付いた先生はスタビンズ少年を呼んで歌を聞かせます。驚くべきことに、まだ魚介類はおろか動物の言葉も初歩のスタビンズ少年にもその魚が英語で歌っているのがはっきりと聞こえ、その歌以外にもこの魚が発する「禁煙」「おや、ごらん。へんてこなものがいるよ」「トウモロコシに、絵はがきがあるぞ」「ここが出口」「つばをはくべからず」などの英語を聞き取ることが出来ました。そして、この銀色フィジットはどこでこの歌を覚えたのか──歌詞の意味は全くわかっていなかったのですが──自身の生い立ちを話し始めたのでした。
 この魚の故郷は南太平洋のチリ近海で、2510匹家族の一員でした。しかし、生まれてから間もなくクジラの群れに追われて家族は散り散りになり、妹のクリッパと2匹で北へ泳いでようやくクジラやサメから逃れることが出来ました。そしてアメリカ合衆国西海岸の港で休息していた際に2匹とも網で掬い上げられ、水族館で飼われるようになったのでした。水族館の狭い水槽での生活は退屈そのものでしたが、そこで係員の注意喚起や顔馴染みの清掃員がいつも歌っていた歌を(意味はわからないながらも)覚えて退屈を紛らわしていました。しかし、水族館での生活に飽きて1年余りが過ぎたある日、2匹は一か八か死んだふりをして水槽の外へ脱出することを計画します。結果、清掃員は2匹が死んだものと思って水槽から網で掬い上げて海に投げ捨てた(帰してやり)、2匹は再び自由の身となったのでした。
 1839年当時のアメリカ西海岸は今よりも狭く、現在のカリフォルニア州はメキシコ領でした(1848年にテキサスなどと共にメキシコより編入)。現在のオレゴン州とワシントン州に当たるオレゴン・カントリーはアメリカ東部からの入植者が続々と入って来ていた時期で、1818年のアングロ=アメリカン会議に基づき米英の共同所有とされていた時期に当たり、正式にアメリカ領となるのは1848年にオレゴン準州が成立してからとなります。従って、作中の1839年には「アメリカ合衆国西海岸」と呼ばれる地域は存在しなかったことになるのですが、この部分をロフティングの十八番である時代錯誤(アナクロニズム)と見るべきかスタビンズの回顧録として19世紀末から20世紀初頭の時代状況に合わせてそう記述したのかは、どちらとも判断が付きません。
 ただ、主人公のドリトル先生がイギリス人である以上はイギリスが主な舞台となるのは致し方が無いとは言え、発行元のストークス的には「アメリカを舞台にしたエピソードを入れて欲しい」という意向も当然に働いているはずで、その要望を受けてこのエピソードが入れられたのだとすれば、時代背景と多少の矛盾が存在しても大目に見られたのかも知れません。シリーズ全12巻と番外編1巻を通じてドリトル先生自身がアメリカ合衆国は無論のことアメリカ大陸に上陸することは無いのですが、続巻の『郵便局』を始めとしてアメリカ国内の地名が時折、話題に出るのはそう言った事情を反映しているのでしょう。

 銀色フィジットの身の上話が終わった後、先生はこの魚にいくつかの質問します。一つは、グアム近くのネロ深海(マリアナ海溝か)よりも深い海溝が大西洋に存在すると言う仮説について。この質問に、銀色フィジットは「深い穴」と呼ばれ、恐れられている海溝の存在を明らかにします。そして、その「深い穴」には太古から生き長らえる貝類の大ガラス海カタツムリが住んでいるとも。もう一つの質問は、コロンブスが書いた2冊の航海日誌について。1冊は既に発見されており、もう1冊は樽に封印して海に投げ込んだと言われているがその所在を知っているか。フィジットの回答は、その樽は海底を移動して今は「深い穴」にあるというものでした。
 ここで先生がコロンブスの名前を出したのは、遅くとも20世紀の前半まで西洋人の間でコロンブスは「新大陸を“発見”した偉人」と認識されていたことと無関係ではありません。特にロフティングはコロンブスを非常に尊敬していたであろうことが続巻『郵便局』からも伺えるのですが、それは同時に『アフリカゆき』の描写が人種差別的であるとの非難に加えて『航海記』に対する「白豪主義・植民地支配肯定」と言う非難の一因となっている面にも目を向けなければならないでしょう。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(10)──闘牛対決
 ドリトル先生の一行が寄港したカパ・ブランカ島はスペイン領だけあって闘牛が盛んでした。先生は闘牛のような野蛮で残虐なスポーツは大嫌いだと持論を展開して町の有力者と口論になり、遂には闘牛の廃止を賭けて本職の闘牛士と対決することになってしまいます。
古代ローマを思わせる見事な芸当
古代ローマを思わせる見事な芸当
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 島の中心、モンテベルデの町の有力者であるドン・エンリケ・カルデナスは闘牛の素晴らしさと闘牛士がかに勇敢であるかを先生に力説し、遂には闘牛の廃止を賭けて先生と町の闘牛士、ぺピート・デ・マラガと対決することになってしまいます。マタドールの正装は先生の肥満体には窮屈と見え、島の子供たちは先生を見て「ホアン・アガポコ(Juan Hagapoco)!」と囃し立てるのですが、先生の名前"John Dolittle"をスペイン語に意訳した"Juan Hagapoco"の部分は残念ながら井伏訳では再現されていません。一方、バンポはポリネシアからアドバイスを受けて素知らぬ顔でジョリギンキ王国第一王子としてエンリケの前に現れ、先生の勝ちに3000ペセタ(2001年まで使用されていたスペインの通貨)を賭けたのでした。

 カパ・ブランカ島は架空の島ですが、そのモデルになっているのは恐らく1911年にロフティングが首都のハバナから島の東西に伸びる鉄道網の敷設に従事したキューバであろうと思われます。キューバは1902年にスペインから独立したばかりの新興国でしたが、独立と言っても名ばかりで実態は支配者がスペインからアメリカに変わっただけと言うべき状況に在り、アメリカの大企業が島の主力産業であるサトウキビの栽培から製糖までの工程を牛耳っていました。ヒューが関わった鉄道建設計画も、その前に関わったナイジェリアの鉄道建設がイギリスで消費される石炭の運搬を主目的としていたのと同様にアメリカで消費される砂糖の原料運搬を主目的としていたのです。こうしたアメリカ企業の搾取に対するキューバ国民の反発は根強く、何度も反乱が起きた末にバティスタが独裁体制を敷いてアメリカ政府の傀儡政権を樹立しました。そして、1959年にはチェ・ゲバラとフィデル・カストロが傀儡政権打倒を掲げてバティスタを追放するキューバ革命が起きたのです。
 もっとも、メキシコや他の旧スペイン領のカリブ海諸国とは異なり、キューバにおいては植民地時代から闘牛を支配者たるスペインの象徴とみなしていたのか余り盛んには行われなかったようで、独立直前の1901年には正式に廃止されました。従って、ロフティングがキューバで闘牛を観賞して義憤に駆られたと言う事実は認められませんが、第4巻『サーカス』で自国のキツネ狩りに対して憤っているように自国であれ他国であれ余興の為に動物の生命を奪うブラッド・スポーツに対して強い憤りを感じていたことは間違いの無いところです。
 近年では本国のスペインでも闘牛は外国からの非難や他のスポーツ、とりわけサッカーに押されての人気低迷に直面し、1991年にはドリトル先生ゆかりの地でもある(『アフリカゆき』でバーバリ海賊団を解散に追い込んだ)カナリア諸島で正式に廃止されたのを皮切りに、2012年にはバルセロナなどカタルーニャ地方でも全面禁止となっています。

 そして、対決の日がやって来ました。先に先生が「一度に6頭の牛を相手にする」と宣言し、普段は1頭の牛しか相手にしないぺピートは怖じ気づいて逃げ出してしまいました。先生はもちろん事前に牛と打ち合わせをしているので何も恐れることは無く、牛の角を掴んで宙返りをしたりとてもあの肥満体からは想像も付かないアクションを次々に披露します。
 こうして、闘牛対決は先生が勝利しカパ・ブランカ島の闘牛廃止が決定しました。バンポがエンリケから掛金の3000ペセタを受け取ると、一行は港の近くの市場で買えるだけ食糧を買い込みました。しかし、間もなく闘牛廃止に抗議する群衆が暴徒と化して港へ押し寄せたので、一行は急いで出港せざるを得ませんでした──目的地のクモサル島までの船旅は、あと少しです。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 03:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(9)──バンポ王子の来訪
 次の航海の目的地はクモサル島に決まったものの、船の操舵に必要な人員はまだ確保の目処が立ちません。そこへオックスフォード大学に留学しているあの王子が先生を訪ねて来て二つ返事で航海への動向を承諾し、ようやく長い航海が始まったのでした。
ベン・ブッチャー
ベン・ブッチャー「船長はどこだ?」
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生とスタビンズ少年がいそいそと荷物を船に積み込んでいると、いかにも海の男然とした一人の巨漢が声をかけて来ました。その男、ベン・ブッチャー(Ben Butcher)は本人曰く「腕利きの航海士」で、職にあぶれていた所を「先生が船の乗組員を探している」と聞き付けて売り込みに来たのですが、ブッチャーの傲岸不遜な態度に先生もスタビンズも呆れ返るばかりで、先生はブッチャーの乗船を断ることにしました。ブッチャーはと悪態を吐いてその場を立ち去りますが、その次にスーツを着込んだ──しかし、靴を履いておらず裸足で歩き緑色の日傘を差した黒人の青年が「こちらはジョン・ドリトル医学博士の船ですか」とスタビンズに尋ねて来ました。そうです。ポリネシアがオックスフォード大学に留学していると言っていたジョリギンキ王国の第一王子、バンポ・カアブウブウ(井伏訳では「カアブウブウ・バンポ」と姓名が逆になっていますが、ここでは原文の"Bumpo Kahbooboo"に従います。日本人と同じで「姓-名」の順だと思われます)です。バンポは航海への同行を二つ返事で承諾し、ようやく船の操舵に必要な3人が揃いました。ドリトル家の動物たちはアフリカから帰って来たばかりのポリネシアとチーチー、そして直前の旅行には連れて行ってもらえず「私もいっしょに行きたいな」と強く同行を志願したジップを連れて行くことになりました。ダブダブ、ガブガブ、トートー、白ネズミ、オシツオサレツはパドルビーで留守番です。
 しかし、船が出発してからほどなく密航者が次々に顔を出して一行を困らせる事態になってしまいました。最初に、何故か出航の際に顔を見せなかった猫肉屋のマシュー・マグが発見され「外国を旅行したい衝動にかられて船に乗り込んだものの、持病の神経痛に耐え切れなかった」と弁解しました。次に、あの巡回裁判で無罪を勝ち取った後に復縁した世捨て人のルカとその夫人が見つかりました。二人は「あの裁判ですっかり時の人となり、パドルビーに居づらくなったので他の場所へ移住しようと思った」と言うのですが、奥さんがひどい船酔いに苦しむのでそろそろ船を降りたいと言いました。先生は仕方なく3人をイングランドの西端、コーンウォール半島のペンザンスという港町で降ろして一泊することにします。その際、怒るでもなくマシューにはパドルビーに近い西部の港町・ブリストル行きの馬車代を、ルカ夫妻にはペンザンスの友人に宛てた紹介状を書いて家と仕事を世話してもらうように言い聞かせたのでした。
 翌日、船は再びクモサル島へ向けて出港しますが今度はあの厄介者のベン・ブッチャーが食糧庫に隠れているのが発見されます。しかも、この巨漢は保存用の塩漬け肉をすっかり食べ尽くしてしまっていました。この事態にポリネシアの発案でブッチャーを食堂へ誘い込み、外側から鍵を掛けて監禁してしまいます。そして、食糧を調達する為にやむなくスペイン領のカパ・ブランカ島へ寄港して痩せ細ったブッチャーをモンテベルデ港で降ろし、一行はしばらくモンテベルデの町に滞在することになったのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(8)──運まかせの旅行
 船の操舵に必要な人員の確保が振り出しに戻ったところで先生が到着を待ちわびていた紫極楽鳥のミランダがようやくパドルビーに到着しますが、先生は彼女がもたらしたニュースに落胆します。それでも気を取り直し、次の航海の行き先を決める「運まかせの旅行」の儀式を執り行ったところ、鉛筆が示した行き先は──。
紫極楽鳥のミランダ
紫極楽鳥のミランダ(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 歴史的な巡回裁判の喧騒を抜け出して先生とスタビンズ少年がオクスンソープ通りのドリトル邸に戻って来ると、そこには先生が待ちわびていた来客──アマゾンの熱帯雨林から毎年夏にイギリスへ先生を訪ねて来る紫極楽鳥のミランダが到着していましたが、彼女はさめざめと泣いていました。ポリネシアが言うには、ミランダが到着するやいなや庭にたむろしていた口の悪いロンドンっ子のスズメ、チープサイド(Cheapside)に「おまえさんなんか、ここの庭に来るもんじゃないよ……婦人装身具店の陳列窓の中にいればいいんだよ」と中傷されたと言うのです。先生は怒ってチープサイドを追い返し、落胆するミランダをなだめますが彼女がひどく落ち込んでいる理由はチープサイドの中傷だけが原因ではないようでした。チープサイドは、ここでは単に「嫌な奴」として顔見せだけの登場ですが次巻『ドリトル先生の郵便局』以降ではドリトル家の動物たちも顔負けの活躍を見せてくれるようになります。
 ミランダが落ち込んでいるもう一つの理由は、ロング・アローが消息不明になったことでした。アンデス山麓に居を構えてはいるものの、ドリトル先生以上に方々を旅して回り西洋人には未だ知られていない昆虫や植物の知識に長けているロング・アローはしばしば、足取りが掴めなくなるのですが南米の鳥たちが上空から狩りの姿を見つけるとその噂はすぐにミランダの所へも届き、ドリトル先生は彼女を通じて西洋人の多くの学者には全く存在を知られていない偉大な博物学の大家について知っていたのでした。ミランダが言うには、ロング・アローの姿が最後に確認されたのは南米大陸の沖合に浮かぶクモサル島(Spidermonkey Island)だと言うことでしたが、その島から外に出た形跡が無いと言うのです。
 この、ミランダがバッドニュースをもたらしてそれが旅の動機になると言う展開は前巻『アフリカゆき』で季節外れのツバメがアフリカの猿たちの危機を知らせて来た時と非常によく似ています。ロフティングはこれに限らずシリーズ中、過去に用いられたシチュエーションをパターン化して再利用を繰り返すことが少なくないのですが、特にシリーズ7 - 9巻(いわゆる「月世界三部作」)の頃は本人もそれに気付き、世間では依然として高評価で人気は健在だったにも関わらず創作者としての限界を感じ、かなり苦しんだと言われています。

 そして、先生はバッドニュースを振り切るかのように次の旅行の行き先を決める恒例の儀式をやることに決めます。その儀式は運まかせの旅行(Blind travel, 直訳すれば「目隠し旅行」でしょうか。昔は別の、差別用語を含む訳語が主に使われていましたがここでは岩波の2000年改版での修正に従います)と呼ばれるもので、目を閉じながら地図帳(一枚物の地図ではありません)を拡げてページを早めくりし「ここだ」と思った場所に鉛筆を突き立てて先端が示した場所を目的地にすると言うのが基本ルールです。特例として「過去に一度でも行ったことのある場所は対象外」とされています。
 先生がこの遊びを始めたのは「妹のサラと同居する前」だと言うので、故郷のパドルビーを離れて大学(第4巻『サーカス』で改めて解説しますが、先生の母校はイングランド北部にあり、西部のパドルビーから通学出来るような場所ではありません)に通っていた頃だと思われます。当時から愛用しているという地図帳は1808年にスコットランド(グレートブリテン島の北部、連合王国を構成する国の一つ)のエディンバラで発行されたもので、最初に太陽系(海王星の発見は作中の1839年から7年後の1846年で、天王星が太陽系の一番外にある惑星だと思われていました)、その次に北半球と南半球(正射図法を用いているのでしょう)、太平洋や大西洋などの海洋、大陸、そして各国図の順で様々な地図が掲載されています。
 スタビンズ少年は物珍しそうに地図を眺めながら、先生に例えば北極点が行き先に決まったらどうなるのかと聞いてみました。ここで先生は「1809年4月に北極点へ行ったことがある」と打ち明けます。先生はそこで北極点の地下に大量の石炭が埋まっていることをホッキョクグマに教わったものの、そのことが知れ渡ったら人間が次々にやって来て乱開発で彼らの住処が荒らされるに違いないと思って公表しないことを約束したと言うのです。「しかし、前巻『アフリカゆき』でのポリネシアの年齢から逆算すると先生か動物語を教わったのは1820年代後半から30年代前半なのでは?」と言う突っ込みはさておき、儀式が始まりました。そして、スタビンズ少年が突き立てた鉛筆の先端は──ロング・アローが消息を絶ったクモサル島を指し示していたのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(7)──巡回裁判
 次の航海の準備が始まり、先生は新しい船を調達しました。新しい船の操舵は3人で行わなければならないので、先生とスタビンズ少年は町外れに住む世捨て人のルカ(Luke the Hermit)を訪ねます。しかし、ルカは15年前に起きた殺人事件の容疑者として逮捕され、間もなく巡回裁判が始まろうとしていたのでした──。
巡回裁判
巡回裁判(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生は毎年、夏にパドルビーを訪ねて来る紫極楽鳥のミランダ(Miranda, the Purple Bird-of-Paradise)からロング・アローの近況を聞かされているのですが、1839年の夏は例年よりミランダの到着が遅いので次の旅行先はまだ決まっていないものの航海の準備を始めることにします。最初に、船の調達を貝掘りのジョーに相談して新しい船・シギ丸(Curlew, 「ダイシャクシギ号」とも)を手配してもらいました。しかし、シギ丸は3人乗りで操舵には1人足りません。猫肉屋のマシュー・マグは持病を抱えているので候補から外れ、先生とスタビンズの共通の知人である世捨て人のルカが候補になりました。
 2人は早速、ジップを連れて町外れにあるルカの家を訪ねてみますがルカは不在で飼い犬のブルドッグ・ボッブだけが取り残されていました。ジップは以前に口外しないことを約束してボッブからルカが15年前にパドルビーへ移り住んだ理由を知らされていたのですが、今まさにその理由──かつて、ルカがメキシコで金の露天掘りを行っていた際に一人占めを目論んで仲間のビルを謀殺した殺人容疑で逮捕され、間もなくパドルビーの巡回裁判所で裁判が始まろうとしているというのです。
 先生はルカと面会し、その後で弁護人のパーシー・ジェンキンズにある提案をしたところ、ジェンキンズ弁護士はその突拍子も無い提案に賛同しました。その提案とは、事件の目撃者であるボッブの証言を先生が通訳するというものです。
 検察官はルカとビルの仲間だったメンドーサを証人として出廷させ、事件が金の一人占めを目論んだルカの単独犯であると主張しましたがジェンキンズ弁護士が裁判長にボッブの目撃証言を採用するよう提案し、裁判長は条件付きでこの提案を受理します。それから間もなく、裁判所の職員が裁判長の愛犬を連れて来て先生はその犬から裁判長が夕飯に何を食べたのかを聞き出したので、裁判長は面妖な顔をしながらもボッブを証言台に立たせることを認めました。
 そして、ボッブは事件の一部始終について証言を始めました──1824年11月29日、事件で死亡したビルに検察側証人のメンドーサが「ルカを殺して2人で金を山分けしよう」と謀議を持ちかけていたのを聞き付けたボッブは、ルカがビルの乗り込んだバケツを引き上げている途中でメンドーサが背後からルカを狙撃しようと銃を構えていることに気付いてルカの足に噛み付きました。メンドーサはルカがビルを引き上げていることに気付いていなかったのです。ルカは驚いてバケツを引き上げるロープから手を離し、ビルは露天掘りの穴底で転落死してしまいました。
 結局、この証言の状況に不自然な点が無かったことで(本来ならば業務上過失致死は免れないところを)ルカの正当防衛が認められたのか無罪の判決が下されます。判決が下される時点で検察側証人だったメンドーサは裁判所から逃亡してしまっていたのですが、メンドーサに限らず本シリーズ中に登場する悪人はほとんどが法に基づく裁きを受けること無く表舞台から姿を消してしまうのは、ロフティングが「人が人を裁く」と言う行為に対して強い忌避感を持っていたことの表れであるように思えます。
 無罪判決を勝ち取って一躍、時の人となったルカは別れていた夫人とも縁を戻したのですが、そのせいでとても航海に同行して欲しいと頼めるような状況ではなくなってしまい、もう1人の同行者探しは振り出しに戻ってしまうのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 20:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(6)──ドリトル先生とダーウィン
 スタビンズ少年がドリトル先生の助手になった時期、先生は魚介類の言葉を研究していました。しかし、旅先から連れて帰って来た珍しい魚と貝の中間種、イフ・ワフ(Wiff-Waff)の言語解析では思うような成果を挙げられず研究は行き詰まってしまいます。
女装したチーチーの帰還
女装したチーチーの帰還(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 アフリカからポリネシアが帰って来てからほどなく、チーチーもドリトル家へ帰って来ます。チーチーの場合は、ポリネシアのように飛べる訳ではないので女物の服を調達してイギリス行きの船に密航し、船内で何度も怪しまれながらも持ち前の機転で切り抜けてようやく懐かしのパドルビーにたどり着いたのでした。

 さて、ドリトル先生がスタビンズ少年と知り合う以前から、先生は小型の魚介類の言葉を研究していました。それ以前から『アフリカゆき』でバーバリ海賊団を懲らしめた時のようにサメのような大型種であれば会話が出来たのですが、先生の飽くなき探求心はさらに小さな魚や貝との会話に向けられていたのです。直前までの旅行も珍しい魚と貝の中間種であるイフ・ワフを持ち帰り、その言語を解析するためでした。しかし、このイフ・ワフは余り知能が高くなく「暑い」「寒い」など数種類の感情表現をするのが精いっぱいだと言うことで、研究は行き詰まってしまいます。
 スタビンズが先生に弟子入りを志願した際、スタビンズは母親が自分に基礎的な読み書きを習わせたいが貧しくて学校に通えないことを気にしている旨を打ち明けると、先生はこう言いました。
「さよう、どんなものかな。だが、読み書きができるのは、けっこうなことだ。しかし、博物学者にも、いろいろある。たとえば、いま人のうわさにうるさい、あの若いチャールズ・ダーウィンという男は、ケンブリッジ大学の卒業生で、読み書きにひいでておる。それから、キュヴィエーは先生をしておった。だが、よいかね、その連中の中でも、いちばんえらい博物学者は、じぶんの名まえさえ書けないし、ABCも読めないのだ……まことにふしぎな人物だ。名まえはロング・アローといって、ゴールデン・アローのせがれだ。アメリカ・インディアンでね。」

(訳・井伏鱒二)
 先生がチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin. 1809 - 1882)のことを「いま人のうわさにうるさい」と述べているのは1831年から5年を費やしてイギリス海軍の測量船・ビーグル号で世界一周を敢行し、本作の時代設定である1839年頃には学界の内外を問わず一躍、時の人としてもてはやされていたことを指しているのは言うまでもありません。この航海に関する記録が出版されたのは1842年ですが先生は1837年以降に順次、学界で出回っていた学術論文には接していたはずで、ダーウィンの文才は高く評価しているものの学者としての姿勢は余り高く評価していないようにも取れます。これは先生が学会内で異端ないし変人扱いされていることが関係している訳でも新進気鋭の博物学者に対して一方的にライバル意識を持っている訳でもなく、他の博物学者がいくら世間に受ける発表をしたところで、研究対象たる動物とのコミュニケートが取れる真の学者は自分やロング・アローなどごく少数しか存在しないと言う自負がそうさせているように取れなくもありません。河合祥一郎の新訳版では訳者あとがきにおいて、あらゆる生命は「神様がお創りになった」と考える敬虔なキリスト教徒であるドリトル先生はダーウィンが後に提唱した自然選択(適者生存)説に冷たさを感じたのではないかと述べていますが、筆者はこの読み方に対して「ちょっと違うかな」と感じています。何しろ、シリーズ全巻を通じて教会で礼拝を捧げる描写は皆無に等しく、聖書からの引用句も稀なことが「キリスト教徒なら知ってて当然」な知識や経験を前提とした描写の多い欧米の作品と一線を画し、キリスト教国でない日本で多くの愛読者を獲得した理由の一つになっていると感じるからです。また、作者のロフティング自身はイングランドにおいてマイノリティに属するカトリック信徒だったものの、晩年には信仰の放棄にまでは至らずともキリスト教そのものに対して懐疑的になっていたことが、特に第10巻『秘密の湖』の記述に色濃く現れているように思えます。

 ダーウィンと合わせて名前を挙げられていたジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier, 1769 - 1832)は本作の年代には既に故人となっていた人物で、生前はコレージュ・ド・フランスで教鞭を執っていました。また、前巻『アフリカゆき』でオシツオサレツについて著書の『博物誌』に何か記述を残していないかとして先生が名前を挙げたビュフォン(Georges-Louis Leclerc, Comte de Buffon, 1707 - 1788)も実在する博物学者です。ところで、アフリカの猿がオシツオサレツを先生に寄贈する際、他にイグアナとオカピが候補に挙げられていましたが、チーチーが「ロンドン動物園で飼われている」と言っていたイグアナの生息地は主に南米で、アフリカではマダガスカル島に生息地が限られています。チーチーが「アントワープ動物園にいた」と言っていたオカピは19世紀には知られておらず、もっと後の1901年にザイール高地(現在のコンゴ民主共和国)で初めて確認された動物で、アントワープ動物園での飼育開始は1919年のことでした。『アフリカゆき』の完成直前にこのニュースが報じられたことが、ロフティングの十八番である時代錯誤(アナクロニズム)を引き起こした一例と言えるでしょう。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 18:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(5)──ドリトル家の庭園
 ドリトル家の広大な庭園では、数多くの動物や昆虫が共存していました。その設計に先生の徹底した思想が貫かれていることにスタビンズ少年は感心し、遂には弟子入りを志願します。
ポリネシアに指導を受けるスタビンズ少年
ポリネシアに指導を受けるスタビンズ少年
(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生の人柄にすっかり心酔したスタビンズ少年は連日、ドリトル家へ通うようになります。そして、かつて先生がそうであったようにポリネシアから動物語の基礎を習うよえうになり、先生には遠く及ばないながらも少しずつ動物語を習得して行くのでした。

 さて、前作『アフリカゆき』でも若干、触れられていたように妹のサラがドリトル家を飛び出してお嫁に行ってしまう以前から、さすがは英国紳士と言うべきか庭の手入れだけはドリトル先生がこだわりを持って直に行っていました。
 それから長い月日が経ち、ドリトル家の広大な庭園は博物学者としての研究素材の集積と動物たちにとって理想的な環境の実証実験を行う場に生まれ変わっていました。スタビンズ少年は先生の案内で庭園を見て回り、昆虫や植物を飼育する為の温室や19世紀前半にはまだ珍しかったポンプ付きの水槽が立ち並ぶ小規模な水族館など最新鋭の設備に感心させられます。
 また、この庭にはリスやアナグマなど数多くの小動物、馬や牛、それからかつてアフリカの猿から先生に贈られた双頭のオシツオサレツなども全て、檻に閉じ込められることも無く放し飼いにされていました。その光景に違和感を持ったスタビンズ少年は、不意に尋ねます。
「ライオンやトラも、いるんですか?」と、私は先生とならんで歩きながら、いいました。
「いや、いない。」と、先生はいいました。「ここでは、飼うことができないのだ。いや、飼うことができるとしても、わしは飼わないつもりだ。わしの流儀でゆくと、世界じゅうどこをさがしても、おりにとじこめられたライオンやトラは、一頭もいてはならんのだ。かれらは、とじこめられるのがきらいなのだ。幸福でもないし、けっしておちつかない。ライオンやトラのような動物は、じぶんの生まれた国を、いつも忘れることができないのだ。それは、かれらの目を見ればわかる……おりの中では、なにがあたえられるだろう。ねえきみ、そもそも、なにがあるというのだろう。鉄格子のはまった、みすぼらしいおり、一日一回なげこまれる死肉のきれ、それから、口をぽかんとあけて、かれらを見にやってくるたくさんのまぬけども。ああ、スタビンズ君! ライオンやトラは、けっして動物園なんかに入れてはいけないのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 この場面で強く打ち出されているドリトル先生の、ひいては作者であるロフティングの思想は後の第4巻『サーカス』や第6巻『キャラバン』の伏線とも言えるものになっています。時系列上はサーカス団時代の方が『航海記』よりも以前の出来事なので、先生がかつてサーカス団で寝食を共にした巡回動物園のライオンやヒョウのことを思い浮かべていたのは間違い無いでしょう。理想論の吐露が鼻についてなんとなく読み流してしまう読者も多そうな場面ですが、後の巻で先生がこの思想に基づいて不潔な巡回動物園で飼われていた動物たちの福祉を常に優先し、サーカス団の解散後はそれぞれの動物を故郷に送り返すところまで理想を貫徹・実践したうえでの発言であったことを知ると、飽くまでもフィクション上の出来事とは言えこの発言が単なる理想論ではなかったと言うことに読者は気付かされるのです。

 後日、スタビンズ少年は正式に先生への弟子入りを志願します。両親は10歳にも満たない一人息子が余りにも早く一人立ちを宣言したことに戸惑いますが、家が貧しく学校に通わせられないことを気にしていたのでドリトル先生の弟子にしてもらえるのならこれほど名誉なことは無いと賛成し、息子を送り出してくれました。こうして、スタビンズ少年はドリトル家に下宿して先生の研究を手伝いながら初歩的な勉強を教えてもらい、またポリネシアからは引き続き動物語の基礎を教わる生活が始まりました。

 ヒュー・ロフティングはスタビンズ少年よりも早く8歳の時には当時、ロンドンの郊外に住んでいた両親の元を離れてダービーシャー州の寄宿校に入学し、11年間をそこで過ごしました。卒業する頃には5歳年上の長兄、ヒラリー・ロフティング(Hilary Lofting, 1881 - 1939)が聖エドムント・カレッジ(ケンブリッジ大学構成校の一つ)を卒業して土木技師になりイギリスを離れて海外で仕事をしていたので、幼少期から世界各国を自分の足で回りたいと思っていたヒューも長兄と同じ土木技師を志したようです。
 そして、パドルビーの運河で見たことも無い遠くの国と行き来する船を眺めるのが趣味だったスタビンズ少年にもドリトル先生に弟子入りしてからほどなく、初めての航海の機会が訪れるのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 14:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(4)──ポリネシアの帰還
 スタビンズ少年がジョン・ドリトル先生と初めて出会い、すっかり心酔した晩はアフリカ生まれのあの鳥が舞い戻って来た晩でもありました。
燭台を器用に運ぶダブダブ
燭台を器用に運ぶダブダブ(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ずぶ濡れになったスタビンズ少年はドリトル先生に言われるがまま屋敷へ上がり、雨宿りをさせてもらうことになります。そして、先生がアヒル語で指示を出すとダブダブが火を灯した蝋燭を燭台に立てて片足で器用に掴み、階段を下りて来たのでスタビンズは驚きました。
 そして、ようやく雨が上がり先生がスタビンズを家まで送ってくれることになった矢先に、前作『アフリカゆき』で生まれ故郷のアフリカに残ったはずのポリネシアが帰って来ます。アフリカでの生活が退屈になって、イギリスへ戻って来たというポリネシアは先生にバンポが長年、探し求めていた眠り姫を見つけて結婚しその相手はジョリギンキでバンパァ王太子妃(Crown princess BumPAH)と呼ばれていること──この、原文でポリネシアが特に強調した「パァ」を強く発音する云々の部分は、井伏訳では単に「王子夫人」とされていますが──や、そのバンポがイギリスのオックスフォード大学に留学していることなどを先生に話して聞かせます。とても長生きで記憶力の良いポリネシアはもちろんスタビンズ少年のことも知っていて「生まれたばかりのスタビンズは猿みたいにみっともない赤ちゃんだった」と振り返るのでした。
 スタビンズ家で先生は大変に歓迎されました。父親のジェイコブにとって先生は古くからのお得意先の一人で、また先生もジェイコブの職人芸を高く評価していたのですが、ジェイコブも母親も(世間では変人扱いされることも少なくない)ドリトル先生を大変な名士だと思っているので、まさかその先生が自分の一人息子をこんなに褒めてくれるなんてと望外の喜びを感じたのです。そして、スタビンズ少年はようやく怪我をしたリスを先生に診察してもらうことが出来たのでした。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(3)──偉い大人、偉そうな大人
 パドルビーの町に住む人々から博物学者にして世界最高の獣医であるジョン・ドリトル先生の話を聞いたスタビンズ少年はオクスンソープ通りに面したドリトル家の屋敷を訪ねますが、先生は不在でした。それでも諦め切れず、何日も通い続けてとうとうある日の夕方に激しい雷雨の中で先生とスタビンズ少年は運命的な出会いを果たします。
ドリトル先生とスタビンズ少年の出会い
ドリトル先生とスタビンズ少年の出会い(ヒュー・ロフティング画、
オルガ・フリッカー編『ドリトル先生物語選集』より)

 その月曜日は昼から曇り空で、今にも雨が降りそうな天気でした。スタビンズ少年は父親のお使いでベロス大佐に修繕を頼まれた靴を大佐の家へ持って行き、そのまままっすぐには帰らずこのところすっかり習慣となってしまったのに従いオクスンソープ通りのドリトル家の様子を見に行くことにします。その道すがらスタビンズはベロス大佐に出会うのですが、スタビンズが時間を訪ねると大佐はさも迷惑そうな顔でこう返答しました。
「おまえはそもそも……このわしが、おまえごとき子どもに時間をきかれたとて、それで、わざわざ、外套のボタンをはずせると思うのか。」

(訳・井伏鱒二)
 腕時計が発明されたのは18世紀末と言われていますが、まだ一般には広く普及しておらず懐中時計が主流でした。ベロスは軍人なので懐中時計を持っているのですが、子供に時間を聞かれて懐中時計を取り出すのは軍人のプライドが許さないと言わんばかりの態度に平素から子供扱い、特に坊や(lad)と呼ばれるのが何より嫌いなスタビンズは失望します。
 ベロス大佐と別れてオクスンソープ通りのドリトル家へ差し掛かった時、急に雷を伴う激しい雨が降り出しました。スタビンズ少年が急いで帰ろうと思い、全速力で自宅に向かって走り出した矢先に真っ暗闇で誰かとぶつかります。その相手は、背が低く肥満体で使い古したシルクハットをかぶった紳士でした。
「これが、きみのあやまちであったとすれば、わしのあやまちでもあった……同様に、わしも下をむいておったのだ。」

(訳・井伏鱒二)
この紳士こそ、つい今しがた長期の旅行から帰って来たばかりのジョン・ドリトル先生その人だったのです。
 互いに自己紹介を終え、スタビンズ少年はドリトル先生が自分のことを「トミー」でも「坊や」でもなく「スタビンズ君」と呼ぶことに何よりも好感を抱きました。この場面は、先刻のベロス大佐との対比で「偉そうな大人」と「本当に偉い大人」は全く、根底から違うものだというロフティングの考え方が顕著に表れていると言えるでしょう。

 なお、今回のエントリで使用しているイラストは『航海記』の初版本で使用されたものではありません。『航海記』の刊行後にロフティングが追加で描き足し、生前には未公開となったイラストの内の1点でロフティングの義理の姉妹であるオルガ・フリッカー(Olga Fricker, 1902 - 1997)が編集し、1967年に米英で刊行された『ドリトル先生物語選集 Doctor Dolittle: A Treasury』で初めて収録されたものです。1988年にYearling Booksで『航海記』が復刊された際にも使用されました。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 14:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(2)──トーマス・スタビンズ少年
 イングランド西部の田舎町、沼のほとりのパドルビーに住む靴屋の一人息子、トミー(Tommy)ことトーマス・スタビンズ(Thomas Stubbins)少年はある日、森の中で鷹に襲われて怪我をしたリスを保護して途方に暮れていた所で同じ町に住んでいるジョン・ドリトル先生の噂を耳にします──。
パドルビーの運河
パドルビーの運河(『ドリトル先生航海記』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

『ドリトル先生』シリーズの第2巻『ドリトル先生航海記』は前作『ドリトル先生アフリカゆき』の好評を受ける形で1922年にアメリカ合衆国の出版社、F・A・ストークスから刊行されました。翌1923年にはイギリスのジョナサン・ケープから、そして日本では先に解説した通り1925年に大槻憲二の訳により「ドーリットル博士の航海」と題して博文館の雑誌『少年世界』で連載され、1941年から42年にかけては井伏鱒二の訳により「ドリトル先生船の旅」の表題で講談社『少年倶楽部』に連載されました。書籍化は1952年の講談社・世界名作全集版が最初で、この際に現在も定着している「ドリトル先生航海記」の表題が採用されています。井伏訳「航海記」は講談社の出版権が切れた後、1960年に岩波少年文庫へ編入され1961年には愛蔵版「ドリトル先生物語全集」の第2巻として現在も刊行されています。
 本作は1923年に全米児童図書館協会の主催でアメリカ国籍ないしアメリカ在住の作家が英語で執筆した児童文学作品を対象に最優秀作品を表彰するニューベリー賞の第2回受賞作品となっていることもあり、多くの小中学生向け児童文学全集ではこの『航海記』のみが収録されている場合も珍しくありません。井伏訳以外では、偕成社や学研より刊行されていた前田三恵子(1930 - )の訳も比較的ポピュラーな部類に入ると見られます。

 さて、前作『アフリカゆき』は三人称文体でしたが本作では一転してパドルビーに住む9歳半の少年、トミー・スタビンズの一人称で物語が進行します。スタビンズ少年はパドルビーで靴屋を営むジェイコブ・スタビンズ夫妻の一人息子で、貧しくて学校に通わせてもらえないので家業の御用聞きをする傍ら野山を駆け回ったて遊んでいました。同年代の友達は(ほとんどが学校に通っているので)おらず、人付き合いは前作にも登場しドリトル先生が獣医に転職する契機を作った猫肉屋──本作でマシュー・マグ(Matthew Mug)という名前が明らかになりますが──や近海の浅瀬に潜って泥の中に潜む貝やロブスターを採って生計を立てている貝掘りのジョー(Joe, the mussel-man)、そして後に登場する世捨て人のルカ(Luke, the Hermit)ら大人との付き合いが主でした。

 最初にスタビンズ少年の生い立ちを読むと、作者であるヒューの少年時代を反映させたかのような印象を持つ方も多いと思いますがヒューは五男一女の四男で庶民ながら家計は安定しており、8歳から18歳まで親元を離れて寄宿校に在籍していたのでスタビンズ少年とはかなりかけ離れた境遇でした。しかし、野山を駆け回って小動物や鳥、昆虫を観察するのが趣味という好奇心が旺盛な部分は共通しています。

 そしてある日、スタビンズ少年は森の中で鷹に襲われて負傷したリスを保護して自宅に連れて帰ります。とは言ったものの、獣医の知り合いなどおらず自分で看病するにも限界があるので途方に暮れて貝掘りのジョーに相談すると、ジョーは「このリスを治療できるのはジョン・ドリトル先生しかいない」と断言しました。「ジョン・ドリトル」という名前を名前を初めて聞いたスタビンズ少年はマシュー・マグに先生のことを知らないかと聞くとマシューは先生のことを「自分の女房・テオドシアと同じぐらいかそれ以上によく知っている」と言い、先生の家は町外れのオクスンソープ通りに面した場所に建っていると教えてくれました。大急ぎで訪ねてみたものの、先生は旅行から帰って来ていないようで屋敷はひっそりと静まり返っています。果たして、スタビンズ少年は無事にドリトル先生と会ってリスを診察してもらえるのでしょうか──。
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 16:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生航海記』(1)──波瀾の連載「船の旅」
 1941(昭和16年)の初頭、白林少年館は井伏鱒二の訳で『ドリトル先生「アフリカ行き」』を刊行しました。井伏鱒二は『アフリカ行き』の訳を終えるとすぐに第2巻"The Voyages of Doctor Dolittle"の翻訳に取り掛かり、講談社の雑誌『少年倶楽部』で連載が始まりますが、その年の暮れに日本は太平洋戦争に突入したのでした──。
『ドリトル先生航海記』ジョナサン・ケープ版表紙
ドリトル先生航海記』ジョナサン・ケープ版表紙(1923年)

 講談社の『少年倶楽部』は1914(大正3)年に創刊した雑誌で、先行する博文館『少年世界』や実業之日本社『日本少年』などを追撃してシェアを拡大し全盛期の1936(昭和11)年には75万部を発行していました。
「ドリトル先生船の旅」の連載が始まったのは1941年1月号ですが、この時期の日本は1936年に開戦した日中戦争の膠着状態に加えて米英との関係も悪化の一途をたどっており、開戦は秒読み段階とみられる非常に厳しい状況下に置かれていました。そうした事情は連載の第1回から既に色濃く現れており、あろうことか「井伏鱒二」「河目悌二・畫(画)」と原作者であるロフティングの氏名表示を完全に削除し、あたかも井伏鱒二の創作であるかのようなクレジットになってしまっているのです。この措置には1893(明治26)年制定の出版法に基づく検閲が大きく関わっており、日本の“敵国”たるイギリス出身でアメリカ在住のロフティングの名を出版物に出すことが憚られる状態に在ったことは疑うべくもありません(但し、白林少年館版やその後を受けて刊行されたフタバ書院版『アフリカ行き』にはロフティングが原作者としてクレジットされており、検閲を実施していた内務省の画一的な指示ではなく講談社側の判断による自主規制だったと見るべきでしょう)。
 どうも第4巻『ドリトル先生のサーカス』や第10巻『ドリトル先生と秘密の湖』における記述を見るにロフティングは生前、しかも太平洋戦争の開戦よりも以前から日本という国に対して良い印象を抱いていなかったのではないかと思わざるを得ない箇所が作品中に散見されるのですが、殊に後者──恐らく、1945(昭和20)年の春頃に書かれたであろう箇所に関しては、この『少年倶楽部』における原作者の氏名削除と言う重大な問題(氏名表示権侵害)も全く無関係とは言えなかったのではないかと思えます。「船の旅」の連載が後半に差し掛かった1942(昭和17)年にはロフティングが晩年を過ごしたロサンゼルスでも日系人の強制収容が大々的に行われたのですが、戦争の無益さと全体主義への抵抗と言う二つの価値観の葛藤に生涯、悩み続けたロフティングはその光景に何を思ったのでしょうか。

 さて、この「船の旅」連載は原作者の氏名削除以外にも異例ずくめの中で続けられました。連載が中盤に差し掛かった頃、井伏は陸軍に徴用され宣伝班員としてマレー半島へ出征します。真珠湾攻撃が決行され、日米が交戦状態に突入したというニュースを知ったのは昭南島(シンガポール)へ向かう船の中だったそうで現地に到着後は「アブバカの話」「マレー人の姿」などの手記を執筆し、この当時の体験は後に『徴用中のこと』で一冊にまとめられました。井伏が日本を離れている間、連載は井伏名義のまま代理の訳者(「ゴーストトランスレーター」とでも言うのでしょうか)が作業を引き継いで、打ち切りに遭うことも無く1942年12月号で全24回の完結を迎えます。
 この連載が続いている間にも『少年倶楽部』の誌面は軍国主義一色に染め上げられ「愛国」「報恩」の勇ましいフレーズが記事にも広告にも氾濫する状態でしたが、そんな中で“敵国”の作家が創作した物語がその事実を伏せられた状態で連載されていたというのは『アフリカ行き』の刊行時と同様に、物語が読者を惹きつける強い力を持っていたからに相違無いでしょう。

 終戦後、光文社が『アフリカ行き』(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)を復刊した際に巻末で「船の旅」上・下巻が近日中に刊行される旨の予告が掲載されていますが、井伏は代訳の部分までも自分の名義で刊行することを良しとせず、結局『少年倶楽部』連載版「船の旅」の光文社からの刊行は中止されたようです。井伏は帰国してから直ちに後半部分も自分で訳し直して『ドリトル先生航海記』に改題し、1952(昭和27)年にようやく講談社・世界名作全集の一巻として刊行されました。この際には、連載時と違ってロフティングの氏名が原作者として正しく表示されていたことは言うまでもありません。

The Voyages of Doctor Dolittle - 原文。

 今回の記事執筆に当たっては「ホームズ・ドイル・古本 片々録 by ひろ坊」様のBLOG記事を参考にしました。
- 井伏鱒二「ドリトル先生船の旅」(『少年倶楽部』昭和16年1月号)
- (ドリトル先生2)ヒュー・ロフティング:南條竹則訳『ガブガブの本』(図書刊行会 平成14年11月21日)

『ドリトル先生航海記』をもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生航海記』 ドリトル先生物語全集2こども図書館ドットコム
| 84oca | ドリトル先生航海記 | 19:34 | comments(0) | trackbacks(0) |


CALENDAR
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>
RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND RECOMMEND SELECTED ENTRIES COMMENTS
RECENT TRACKBACK
  • 解題『ドリトル先生局』──『郵便局』と『サーカス』はどっちが先?
    Lawnbowls (08/05)
  • ヒュー・ロフティング伝(4)──ナイジェリア時代
    Lawnbowls (07/11)
  • 解題『ドリトル先生アフリカゆき』(8)──人種差別問題
    Lawnbowls (06/07)
CATEGORIES ARCHIVES LINKS PROFILE OTHERS