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ある在野の文学研究者の行動記録。

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解題『ドリトル先生アフリカゆき』(12)──まとめ
 1917年に西部戦線の塹壕で生まれ、3年後に思わぬ機会を得て世に送り出された『ドリトル先生アフリカゆき』の物語はまたたく間に全米で評判を獲得します。この成功を受けてヒュー・ロフティングは土木技師の仕事を正式に辞めてニューヨークからコネチカット州のマディソンという町へ引っ越し、専業の児童文学作家になったのでした。
『ドリトル先生アフリカゆき』のエンドカード
ドリトル先生アフリカゆき』のエンドカード(ヒュー・ロフティング画)


 アメリカのストークス版では第10版よりイギリスの小説家、ヒュー・ウォルポール(Sir Hugh Seymour Walpole, 1884 - 1941)が執筆した『アフリカゆき』の解説が巻頭に掲載されています。この解説でウォルポールはルイス・キャロル(Lewis Carroll, 1832 - 1898)の『アリス』やマーガレット・ガティ(Margaret Gatty, 1809 - 1873)、或いはシャーロット・ヤング(Charlotte Mary Yonge, 1823 - 1901)、ジュリアナ・ユーイング(Juliana Horatia Ewing, 1841 - 1885)ら19世紀の代表的な児童文学作家の名を挙げ「ロフティングはこれらの偉大な作家の後継者が現れなかった30年余りの空白期に終止符を打つ真打ちと言える非凡な才能を有している」と激賞しています。

 もっとも、エドワード・ブリッシェン1968年に刊行された評伝で指摘しているように、このウォルポールの解説はあくまでも『アフリカゆき』1巻のみが刊行されていた時点のものであり、その好評を受けて最終的に全12巻と番外編1巻の長大なシリーズ作品に発展した後の現在の視点からの解説ではないことに留意する必要があるでしょう。
 そして、ウォルポールが名前を挙げている(ガティやユーイングは日本では馴染みの薄い作家ですが)キャロルやヤングの作品とロフティングの作品は実際に読み比べてみると、それぞれ作風がかなり違うことに気付くと思います。特に、キャロルがアナグラムや複数の単語を合成する「鞄語」の創出などテクニカルな部分に徹底してこだわり、かつ文章のリズム感を損なわないことに努力を傾注しているのに対して、ロフティングは(少なくとも『アフリカゆき』の頃に関して言えば)素朴で淡々とした文体が大きな特徴となっています。元々、この物語が2人の子供に宛てた手紙という形で創作されたこともあるでしょうしロフティング自身が当初、この物語を思い付いた際には“童話”を志向していた形跡が認められ、結果的にウォルポールが挙げた19世紀を代表する児童文学作家たちの後継者と言うよりも、ヒレア・ベロック(Hilaire Belloc, 1870 - 1953)らユーモア作家のセンスを採り入れてそれまでの児童文学作品に例の無い独自の作風と世界観を創出したのです。ロフティングが何よりもキャロルと対照的なのは、挿絵も自分自身で描いたことでしょう。キャロルが『アリス』の出版に際して挿画家のジョン・テニエル(John Tenniel, 1820 - 1914)と激しいやり取りを繰り返したエピソードは非常に有名ですが、ロフティングは幼少期から山歩きの中で培ったスケッチと土木技師の仕事を通じて習得した作図の技法を駆使して自分で挿絵を描き、これが『ドリトル先生』の世界観を決定的なものにしていると言っても過言ではありません。
 結果的に『アフリカゆき』が2人の子供──エリザベスとコリンのみならず、全米の子供たちの心を捕えて離さなかったことで発行元のストークスは続編の刊行を決定します。そして『アフリカゆき』がロフティングの母国・イギリスでジョナサン・ケープより刊行されたのと同じ1922年に、アメリカでは第2巻『ドリトル先生航海記』が刊行されることになったのでした。


The Story of Doctor Dolittle - 原文。ウォルポールの解説も掲載されています。

『ドリトル先生アフリカゆき』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生アフリカゆき』 ドリトル先生物語全集1こども図書館ドットコム


解題『ドリトル先生アフリカゆき』目次
(1)戦場で生まれた物語
(2)小さなドリトル先生
(3)ドリトル先生、動物語を習得する
(4)「いいとも、お嫁にゆきなさい」
(5)オウムのポリネシア
(6)ライオンの大将
(7)オシツオサレツ
(8)人種差別問題
(9)1920年代の人権感覚
(10)海賊の襲撃
(11)ジップのお手柄、そして帰還
(12)まとめ ※本エントリ
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 19:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(11)──ジップのお手柄、そして帰還
 海賊船の倉庫に監禁されていた少年が持つ微かな手掛りから岩場へ置き去りにされた漁師を救い出したドリトル先生の一行は、ようやく長い旅を終えてイギリスへ帰還します。
漁師の妹から熱烈に感謝される先生
漁師の妹から熱烈に感謝される先生
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 先生はカナリア諸島で沈没した船の代わりに海賊船を接収しますが、トートーは船の倉庫から子供の泣き声が聞こえて来るのを聞きつけます。先生が鍵がかかっていた倉庫の扉を壊し、監禁されていた少年を救い出すと少年は涙ながらに自分が人質に取られていた理由を話します。少年のおじさんは漁師で、航海術の高さを買われてベン・アリにバーバリ海賊団へ入らないかと誘われたのですが断ったので少年を人質に取り、漁師を滅多に船が近寄らない岩場へ置き去りにしてしまったのでした。
 先生はまず、ワシを集めて上空から漁師を探させますがワシたちが懸命に北大西洋じゅうの岩場を巡っても、漁師は見つかりませんでした。そこで、犬のジップが漁師を特定する匂いが付いたものは無いか尋ねます。少年はこの問いに対しておじさんが嗅ぎタバコを愛用していると答え、おじさんのハンカチをジップに差し出しました。それからジップは船の舳先で海の向こうから漂って来るさまざまな匂いを嗅ぎ分け始めます──そして、3日目の早朝に嗅ぎタバコのにおいを嗅ぎ当てました。
 ジップが匂いを嗅ぎ当てた方角にある岩場には深い縦穴があり、漁師はそこで嗅ぎタバコの匂いを嗅ぎながら飢えをしのいでいました。衰弱はしていたものの命に別状はなく、甥の無事な姿を見て先生に感謝を述べると、そのまま2人の故郷である漁師町に向けて船は出航します。
 漁師町に船が到着すると、先生の一行は大変な歓迎を受けました。少年の母親、つまり漁師の妹であるトレベルヤン(Trevelyan)夫人は先生に何度も抱き着いてキスを繰り返し、2人を救出したことに感謝しました(この場面のイラストは何故か岩波版には収録されていないので、ここに掲載します)。そして、ジップには町長から「ジップ:世界一賢い犬」と刻まれた黄金の首輪が贈られました。
 この漁師町がどこであるかは明示されていないのですが、南條竹則氏の『ドリトル先生の世界』によると"Trevelyan"という姓はグレートブリテン島の南西、コーンウォール地方に多いそうです。
市場を回るドリトル先生の一行
市場を回るドリトル先生の一行
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 漁師町を後にした先生の一行はそのまままっすぐパドルビーには帰らず、箱馬車を1台用意して各地の市場を回り、アフリカから連れ帰ったオシツオサレツを6ペンスの入場料で人々に観賞させました。恥ずかしがり屋のオシツオサレツは人々にジロジロと見られるのを嫌がる気持ちに変わりはありませんでしたが、先生が貧乏で困っているので自分が頑張らなければならないと懸命に我慢しました。
 そうして市場を回っている間にタチアオイの花が咲き乱れる夏が訪れ、先生はすっかりお金持ちになったので一行はパドルビーの我が家へ帰ることにしました。先生がどのぐらいお金持ちになったかと言うと、壊してしまった船を弁償しただけでなく新しい船をもう一隻、船乗りに買ってもまだお釣りが来るほどでした。

 と言う訳で、シリーズ第1巻『ドリトル先生アフリカゆき』の物語はこれでおしまいです。次回は解説のまとめと目次。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 14:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(10)──海賊の襲撃
 アフリカからの帰り道、北大西洋上でドリトル先生一行の船はバーバリ海賊団に襲撃されますが動物たちの協力で危機を逃れます。
ベン・アリの襲撃
「さてベン・アリよ──」(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 バンポ王子の用意した船でジョリギンキを出発し、イギリスへの帰路を急ぐドリトル先生の一行は北大西洋上で「バーバリの竜」と呼ばれ、恐れられているバーバリ海賊団の頭領ベン・アリと遭遇します。海賊船が猛スピードで先生の船を追って来ますが、ツバメたちが舳先に結んだロープを引っ張って船を曳航し、上手く逃げおおせることが出来ました。
 ところが、船底に住んでいたネズミが先生に「この船は底板が腐っていてもうすぐ沈没する」と警告したので、先生はひとまずスペイン領のカナリア諸島へ寄港することにしました。
 しかし、先生の船が入り江に寄港すると見たバーバリ海賊団は外洋へ出られないように入り江を塞いでしまいます。先生の船を乗っ取ったベン・アリは「今夜はアヒルと豚の丸焼きだ」と勝ち誇り、ガブガブは泣き出してしまいました。そんな中にあって、フクロウのトートーは落ち着き払った態度で先生に出来るだけ長く、ベン・アリと交渉をするよう進言します。
 海賊の理不尽な要求を受け入れる訳は行かず、かと言って武器を持った相手を刺激してもいけない神経を使う交渉は2時間以上に及び、ベン・アリがしびれを切らし始めた頃にネズミの警告通り、船底に穴が開いて沈み始めました。海賊たちは大慌てで自分の船へ泳ごうとしますが、サメの大群が出没して追い回されてそれも適わなくなってしまいます。
 先生はベン・アリに海賊をやめてこの島で農家になり、カナリアの餌を作るように命じました。最初は不服そうだった海賊たちも、サメが先生の指示通りに自分たちを追って来るので空恐ろしくなりこの要求を受け入れることにします。先生はベン・アリにもう一度、強く念を押しました。
「だが、よくおぼえておくことだ。」と、先生はいいました。「万一、その約束を破ったら──ふたたび、ぬすみや人殺しをはじめたら、それは、すぐわしの耳にはいってくる。カナリアが飛んできて、わしに話してくれる。そのときは、たちまち罪のむくいがくるということを忘れるな……鳥や獣や魚という友だちのあるかぎり、海賊のかしらごときは恐るるにたらんのだ……」

(訳・井伏鱒二)
 そして先生は沈んだ船の代わりに海賊船を接収し、再びイギリスに向けて出発するのでした。

 ドリトル先生はシリーズを通じて「罪を憎んで人を憎まず」を実践する人です。どんな悪人であっても自分の行いを反省し、心を入れ替えてまっとうに生きることを約束した相手であれば警察に突き出すようなことはほとんど有りません。バーバリの竜に警告したように、相手が裏切った場合はすぐさま動物たちが、先生が世界中のどこにいようと直ちに教えてくれるからです。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 18:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(9)──1920年代の人権感覚
 前回からの続き。

 アメリカでは1960年代後半から1970年代にかけて、本作の黒人描写がステレオタイプ的な偏見に基づいているという非難を受けて書店や図書館から『ドリトル先生』シリーズ全巻が一斉に姿を消し、問題とされた箇所を削除・修正した改訂版の復刊までに20年近くを要しました。
 後年に批判の対象となった部分に関しては現代の人権感覚から見て「不適切」と評せざるを得ない描写を明らかに含んでおり、その点で批判に正当性があることは厳然たる事実と言わざるを得ないでしょう。しかし、それらの描写が作品の本質であるかのような全否定や、作者のヒュー・ロフティングがレイシストであるかのような非難は失当であると筆者は考えます。『オックスフォード世界児童文学百科』(原書房・1999年)の「ドリトル先生物語 Doctor Dolittle stories」の項では、以下のように解説されています。
……1970年代,(最初の2作での)黒人王子バンポの粗野な描写のせいで,人種差別だと批判された。これはたしかにロフティング側の判断ミスだったが,第1作はベロックやその流れをくむほかのユーモア作家から影響を受けたもので,シリーズ全体の特徴ではない。
 本作からの引用で例証するならば、例えばドリトル先生が猿の国へ行く為にジョリギンキ国王へ通行許可を求めた場面。
「わしの国を通すことは、ならん。」と、王様はいいました。「もう何年も前のことであったが、ひとりの白人が、この国へやって来た。わしはその男に、たいへんしんせつにしてやった。しかるに、その男は土に穴をあけて金を掘り、象を殺して象牙をとり、こっそりとじぶんの船で逃げ失せた。──『ありがとう』ともいわないで。二度とふたたび、白人には、このジョリギンキの国を通すことは、ならんのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 国王がドリトル先生を「白人だから」と言うだけで投獄してしまうのは八つ当たりもいいところで、以前に訪れた西洋人と違ってジョリギンキの国土を荒らすことなど微塵も考えていない先生から見ればとばっちり以外の何物でもありませんが、その原因となった西洋人の横暴に対する国王の怒りはもっともで、この視点を持つ作家は1920年代には極めて少数だったのではないかと思います。

 ヒューは1910年代初頭、当時はイギリスの保護領だったナイジェリアで鉄道建設に従事しました。実際に現地へ赴くまでは、未開の地に鉄路を敷いて現地の人々の生活を改善することを思い描いていたようです。しかし、実際にはこの鉄道建設は内陸で採掘した石炭をラゴスの港へ運ぶ為のもので、そこには歴然とした支配者と被支配者の構図が存在しました。ナイジェリア時代の体験は後に第3巻『ドリトル先生の郵便局』で色濃く反映されることになるのですが、支配する側に立つ西洋人が現地の人々に対して横暴な振る舞いを重ねることにヒューが失望し、怒りを覚えていたのは『郵便局』でも端々から感じられます。ただ、大英帝国の最盛期たるヴィクトリア朝後期に生まれたヒューが当時のイギリスにおける国是であった「未開の民を西洋人が正しく導く」という価値観に対する懐疑にまでは及ばなかったことも事実であり、刊行から90年近くが経った現在の感覚から作品を評価する際には、特に続巻『ドリトル先生航海記』や『郵便局』におけるこうした「大英帝国の国是」に肯定的な描写が受け入れ難いとする反応が生じることも、また正当であろうと思います。この点に関しては、岩波版『アフリカゆき』の1978年改版以降における石井桃子の総括が正鵠を得ているでしょう。
 ……それまで、ながく、いくつかの大国の、植民地とされていたところが、多くの独立国として歩きはじめました。これは、当然、それまで差別されていたひとたちの人権の問題にもつながってきます。
(中略)
「ドリトル先生物語」の場合にも、このなかにあらわれた、黒人にたいするロフティングの取り扱い方が大きな論議のまとになりました。ことに、黒人問題を大きな苦しみとしてアメリカでは、「ドリトル先生物語」は、公共図書館の公開の書棚にだしておくところは、ほとんどなくなったようです。
(中略)
 確かに、今日の目から見ると、誠実で、民族をこえて人間と言うものに愛情を抱いていたと思われるロフティングの作品のなかに、人種差別の気持ちがなかったとはいえない箇所にぶつかると、私たちはびっくりさせられます。しかし、一方、私たちはまた、ロフティングが生まれ、育った時代を考えてみる必要があるようです。彼が生まれた十九世紀の終わりごろといえば、イギリスは、世界のすみずみにまで植民地をもち、大英帝国の威容を誇っていたのでした。ロフティングも、いまに生まれれば、心から人種差別に反対しただろうと思えてなりませんが、一八八六年にイギリスに生まれた彼は、やはり、その時代の子であることをまぬがれなかったのです。
(中略)
 この作品の生まれてきた時代の、こうした背景を念頭におき、また、長い年月をかけて一連の「ドリトル先生物語」を書いているあいだに、ロフティングの心のなかに起こった考え方のちがいなども読みとっていただけると、幸いと思います。
 現在では米英でも差別的とされた箇所を削除・修正した改訂版でなく原書の表現を尊重したうえで執筆当時の時代背景について正しく解説し、読者の判断を仰ぐべきであるという意見も出て来ており、2010年には「現代の人権感覚上、不適切な表現を含んでいる」ことを明示したうえで原書の文章と挿絵を復元したオリジナル・バージョンが改訂版のペーパーバックとは別に刊行されていますし、プロジェクト・グーテンベルクインターネット・アーカイブでも原書を読むことが出来ます。

 なお付言すると、この『アフリカゆき』でバンポが顔だけを脱色するエピソードに影響を受けていると思われるのがフランスのクロード・アヴリーヌ(Claude Aveline, 1901 - 1992)が1937年に発表した『ババ・ディエーヌと角砂糖ぼうや』です。かつては岩波少年文庫に『黒ちゃん白ちゃん』の表題で収録されていました。当時フランスの植民地だった西アフリカのセネガルを舞台に村長の息子、ババ・ディエーヌと記憶を無くした状態で発見された角砂糖のように肌が白い少年の友情を描くこの物語では、後半に人種差別が如何に間違った考え方であるかを強調する作者の問いかけが入って来て角砂糖ぼうやの正体が実は肌を脱色する薬を飲んだ黒人の少年であると明かされます。この作品の執筆動機は第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの侵攻で陥落したパリにおいてレジスタンスに参加した作者が抱いていたナチス・ドイツのアーリア人種優越思想に対する反発であったと言われています。
 そして、アヴリーヌがパリでドイツ兵と戦っていたのと同じ時期、ヨーロッパから遠く離れたアメリカ西海岸のロサンゼルスに居たロフティングもまたナチス・ドイツの全体主義が世界を席巻することに強い危機感を抱き、筆を執るのですがその話はまた後日に。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 10:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(8)──人種差別問題
 帰り道、ジョリギンキ王国で再び捕らわれの身となってしまったドリトル先生の一行。バンポ王子の協力で脱獄し、王子が手配した代わりの船に乗ってアフリカを後にします──アフリカ生まれのポリネシア、チーチー、そしてワニの見送りを受けながら。
アフリカを発ち、帰路に就く船
アフリカを発つ船を見送るポリネシア、チーチー、ワニ
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

※今回のエントリにおいて、本文中に差別用語や現在では不適切とされる表現を使用している場合がありますが、過去に差別が存在した歴史的な事実に関する解説が目的であり、それらの差別を肯定する意図はありません。

 1960年代後半から1980年代にかけて、アメリカ合衆国における『ドリトル先生』シリーズ、殊に『アフリカゆき』の扱いはそれまでと一変し「差別図書」の烙印を押され、書店や図書館から撤去される事態となりました。その背景には、1960年代を最盛期とする黒人──アフリカ系アメリカ人の公民権運動の高まりがあります。この際に、過去の文学作品における黒人描写への糾弾も大々的に行われ、日本でも1980年代に姿を消したヘレン・バンナーマン(Helen Bannerman, 1862 - 1946)の『ちびくろサンボ』などは言うに及ばずかつて南北戦争、ひいては第16代大統領・リンカーン(Abraham Lincoln, 1809 - 1865)の奴隷解放宣言に繋がる原動力の一つとなったハリエット・ビーチャー・ストウ(Harriet Beecher Stowe, 1811 - 1896)の『アンクル・トムの小屋』も「主人公が奴隷の境遇に対して余りにも卑屈である」などの理由で攻撃対象とされました。『アフリカゆき』に関しては、童話「眠り姫」を愛読し、その話中に登場する王子のような白い肌に憧れる黒人のバンポ王子に対し妖精・トリプシュティンカに扮したポリネシアが「父君に捕らわれている西洋の偉大なお医者様がその願いを叶えてくれるでしょう」と言って気が進まない先生に薬を調合させ顔だけを脱色すると言う筋書き、ひいてはロフティング自身の手になる挿絵の(後年、日本の漫画に対しても同じような指摘が為されることの多かった)「目を大きく、唇を分厚く」描くステレオタイプ的な黒人像が特に糾弾の対象となったのでした。
 結果、アメリカにおけるシリーズの出版元で1939年に廃業したストークスの出版物を継承していたJ・B・リッピンコットは大部分の巻を1970年までに絶版とし、公共図書館も『アフリカゆき』のみならずシリーズ全巻を開架から撤去してしまったのでした。イギリスでも若干の批判が有ったもののアメリカほど大きな社会問題には発展せず、1980年代に入ってもPuffin Booksからペーパーバック版が刊行されていました。その後、1986年がロフティングの生誕100周年に当たることを記念し、デル・パブリッシングがヒューの次男であるクリストファー・ロフティング(Christopher Clement Lofting, 1936 - )より承諾を得てYearling Booksレーベルで問題とされた箇所を削除・修正した改訂版として1988年より正式に復刊し、約20年に及ぶ「消失」の時代は終わりを告げました。具体的には、ある版では該当箇所が「ポリネシアがバンポを催眠術で操って牢獄の鍵を開けさせた」とされ、また別の版では「ライオンの勇敢さに憧れるバンポの為にドリトル先生が育毛剤を調合し、髪をライオンのたてがみのように伸ばした」とされています。もっとも、米英でもこうした措置に対する批判はあり、例えばイギリスのThe Sun紙は社説で「古典作品の表現が気に入らないのであれば『読まない』と言う選択肢もあるはずだ」と長年、愛されて来た作品に第三者が安易に手を加えるべきではないと主張しています。

 日本の状況に関しては追って第2巻『航海記』や第10巻『秘密の湖』の解説でも取り上げる予定ですが、多くの日本語訳(特に、1978年の岩波第1次改版以降)では先のThe Sun紙社説と同様の見解に立ち「削除・修正よりも作品の執筆された時代背景について、正しく解説を加えるべきである」という立場を採っています。但し、ポプラ社から刊行されている2種類の版(こども世界名作童話ポプラポケット文庫)ではどちらも改訂版を底本にしています。

 次回に続く。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 09:46 | comments(0) | trackbacks(1) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(7)──オシツオサレツ
 猿の国を危機に陥れた伝染病を終息させたお礼に、猿たちは世にも珍しい双頭の動物──オシツオサレツをドリトル先生に献上します。
オシツオサレツとの初対面
オシツオサレツとの初対面(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)


 ドリトル先生が猿の国で一心不乱に治療と予防接種の投与を続けた結果、猿たちを苦しめていた伝染病は終息しました。猿たちはこの偉大な先生にいつまでも猿の国に留まって欲しいと願いますが、チーチーは先生がアフリカへ来る為にイギリスで借金を抱えていることを説明し、猿たちは知恵を出し合ってお礼を考えます。
 その結果、ヨーロッパの動物園でも未だ飼われていない世にも珍しい2つの頭を持った珍獣・オシツオサレツを献上することになりました。

 この「オシツオサレツ」という訳語は井伏鱒二のオリジナルで、原文では"pushmi-pullyu"("push me, pull you"が語源)とされています。但し、最初からこの訳語を思い付いていた訳ではないようで1951年以前の旧訳(光文社版『ドリトル先生アフリカ行き』、国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)ではそのまま音訳して「プシュミプリュー」とされていました。本作を井伏鱒二に紹介した石井桃子(1907 - 2008)によれば、井伏は岩波少年文庫での改訳作業に際し「おしくらまんじゅう」に着想を得て「両方の頭と胴体が押しつ押されつ」しているという秀逸な訳語を思い付いたとされています。オリジナリティが際立ち過ぎるからか、他の日本語訳では余り継承されておらずソレオセヤレヒケ(訳・飯島淳秀、講談社文庫)、オシヒッキー(訳・麻野一哉、パブー)、フタマッタ(訳・小林みき、ポプラポケット文庫)、ボクコチキミアチ(訳・河合祥一郎、角川つばさ文庫)など様々に訳されています。

 このオシツオサレツは非常に恥ずかしがりで、最初はイギリスへ渡って見世物になることを嫌がるのですがドリトル先生との初対面で「この人は信頼出来そうだ」と一目で見抜き、着いて行くことを承諾します。2つの頭は人格(?)を共有している訳ではなく、それぞれ別々に物事を考えられるのですが、一方の頭がおしゃべりをする時はもう一方の頭が草を食べ、また一方の頭が眠っている時はもう一方の頭が人間や肉食動物の襲撃を警戒すると言った具合に分業を徹底しており、頭同士で喧嘩になることはまず無いのだそうです。純血種の動物ではなく、母方の血統はアジア種の小カモシカで父方の曾祖父は絶滅してしまった一角獣(ユニコーン)の最後の一頭だったと言います。
 こうしてドリトル家に新しい仲間が加わることになったのですが、猿の国を後にした先生たちは待ち伏せしていたジョリギンキの兵士たちに捕まり、再び投獄されてしまったのたでした。

 さて、オシツオサレツは見た目のインパクトが強いことも有ってか後々の作品でもリスペクトされており、"pushmi-pullyu"ないし「オシツオサレツ」の名前を持つ双頭の動物が色々と登場します。一例を挙げると、コンピュータRPG「ウルティマVI 偽りの預言者」やアニメ「世紀末オカルト学院」第5話など。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 08:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(6)──ライオンの大将
 数々の苦難を乗り越えて、ようやく猿の国にたどり着いたドリトル先生。病気に苦しむ猿が余りにも多過ぎるので、他の動物たちにも手伝ってほしいと要請するのですが──。
ライオンの大将との対面
「動物の大将たるこのわしに、けがらわしいサルどもの世話をしろだと?」
(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 嵐に巻き込まれて船が沈没してしまったものの、どうにかアフリカ大陸へ到着したドリトル先生の一行はこの一帯を治めるジョリギンキ王国の兵士に連れられて国王と面会します。先生は猿の国へ行く為の通行許可を求めますが、国王は以前に西洋人がジョリギンキの国土を好き勝手に荒らしたので西洋人を信用していないと言い──その割に、国王も王妃のエルミントルードもテニスや舞踏会など西洋趣味を嗜んでいるのですが──先生たちを投獄してしまいます。ポリネシアが策を講じて先生たちは翌朝に釈放され、猿の国への旅路を急ぎますが、ポリネシアに騙されたことに気が付いた国王が兵士を総動員し、遂にジョリギンキと猿の国へ隔てる断崖絶壁に追い詰められてしまいます。この騒ぎを聞きつけた猿たちは一斉に手をつないで峡谷に「猿の橋」を架け、先生もドリトル家の動物たちも間一髪のところで追っ手を逃れて無事に猿の国へたどり着くことが出来たのでした。

 猿の国では、ゴリラ、オランウータン、チンパンジー、ヒヒ、ネズミザル、灰色ザル、赤ザルなど数えきれないほど多くの猿が伝染病に苦しんでいました。不幸なことに、手遅れで亡くなった猿も少なくありませんでした。ドリトル先生は歓迎される間も無くすぐに仮設の診療所を建ててまだ病気に感染していない猿には一心不乱に予防注射を接種し、病気の猿には絶対安静を言い渡して仮設病棟のベッドに寝かしつけたのでした。
 それでも、余りにも病気になった猿の数が多過ぎて手が回らないので他の動物たちに協力を仰ぐことにします。先生は最初に、ライオンの大将に猿の看護を手伝って欲しいと要請しましたが、ライオンの大将はふん、と鼻を鳴らしながらこう答えます。
「よくも、このわしにたのめたものだ……動物の大将たる、このわしにだ。よくも、けがらわしいサルどものせわをしろと、たのめたものだ。ふん、サルなんてものは、おやつにも食えやしないのだ。」

(訳・井伏鱒二)
 こうして、ライオンは先生の頼みを断ってしまいます。ライオンだけでなく、ライオンの腰巾着として振る舞っているヒョウもライオンと同じように断り、気の弱いカモシカも「看病などしたことがないから」と申し訳なさそうに辞退してしまったので、先生はすっかり困り果ててしまいました。
 ライオンの大将が上機嫌で棲み家に帰って来ると、奥さんの雌ライオンが心配そうな顔をしていました。2頭の子供の内1頭の食欲が無く、具合が悪そうなのです。そこで大将が「ドリトルとか言う人間の医者が猿の看病をしろなどとふざけたことを頼んで来たから、もちろん断ってやった」と自慢気に話し始めたことに、雌ライオンは烈火の如く怒り出しました。
 あなたのような、ばかはいませんよ……ここからインド洋沿岸にいたるまで、どんな動物だって、いかなる病気もおなおしくださるという大先生を知らない者は、一ぴきもいないんです。世界じゅうで動物語のできる、ただひとりのおかたではありませんか! それなのに、いま家の子が、病気になった折も折、なぜあなたは、そのおかたをおこらしてきたのでしょう! 大ばかの三太郎! りっぱなお医者さんに乱暴な口をきくなんて、昔から、ばかでなくてはできやしない。ほんとに、あなたは──。」

(訳・井伏鱒二)
 原文の"You great booby!"を「大ばかの三太郎!」と訳すあたりはまさしく井伏文学の為せる業と言えるでしょう。つい先日、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで岩波少年文庫に収録される以前の光文社版『ドリトル先生アフリカ行き』が公開されました。この光文社版は1947年刊行で、日本で最初に刊行された白林少年館版(1941年)や白林少年館の活動休止後に引き継いだフタバ書院版(同年)とほぼ同じ訳文を使用していますが、挿絵を描いている画家、今風に言えばイラストレーターはそれぞれ異なります。光文社版は大正から昭和初期にかけて少年雑誌で活躍した河目悌二(1889 - 1958)のイラストですね。そして、この部分の言い回しは旧訳から「大馬鹿の三太郎!」でした。但し、この後の「黒人のように働くんですよ」と言う部分は、原文に現在では差別用語とされる表現が含まれることもあり、1978年の改版では「身を粉にして働くんですよ」と改訂されています。

 こうして、奥さんに叱責されたライオンの大将は先生に非礼を詫び、ヒョウやカモシカを連れて「猿を風呂に入れるのだけは御免こうむりたい」と言いながらも看病を手伝うようになりました。手伝いが増えて以降、病気の猿たちは順調に退院し、2週間目には最後の猿も快復して恐ろしい伝染病は遂に終息を迎えます。それから三日三晩、ドリトル先生は一心不乱に眠り続けたのでした。

 さて、どうもこのライオンの大将と奥さんの関係は作者であるヒュー本人とフローラ夫人の関係をモデルにしているようです。フローラ夫人は1920年の国勢調査記録によればヒューよりも5歳年上で、フローラ夫人に頭が上がらないヒューの様子が以前に紹介したパンフレット『ドリトル先生の出来るまで The Making of Doctor Dolittle』でも描かれています。
ヒューとフローラ夫人
ヒューとフローラ夫人(ヒュー・ロフティング画、The Making of Doctor Dolittleより)
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 08:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(5)──オウムのポリネシア
 アフリカ生まれで、自称するところによれば180歳を超える雌の灰色オウム・ポリネシアは猿たちを伝染病から救う為に旅立ちを決意したドリトル先生の案内役を買って出ます。
アフリカへ出発
アフリカへ出発(『ドリトル先生アフリカゆき』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生の妹・サラがお嫁に行ってしまい、ドリトル家の動物たちは分担して家事を行うことにしました。しかし、お金を稼げないので先生は貯金箱をひっくり返しても1ペニーすら残っていない文字通りの一文無しになってしまい、冬を迎えます。
 そして、特に冷え込みが厳しい日に季節外れのツバメがアフリカからドリトル家に舞い込んで来ました。ツバメはアフリカの猿たちの間に深刻な伝染病が広まり、危機に瀕していることを知らせます。この一報に居ても立ってもいられなくなったドリトル先生は、お金のことなど二の次で一隻の船を借りて動物たちを連れ、アフリカへの航海に出発します。

 ドリトル先生に動物の言葉を教えたオウムのポリネシアは自称、182歳か183歳。アフリカ生まれで、イギリスへ初めて渡った時はチャールズ2世(Charles II, 1630 - 1685)が皇太子時代、護国卿・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599 - 1658)の軍勢に敗走してカシの木の洞に隠れていたのを目撃したと1651年の故事を回想するほどの長生きで、また文字通り「おばあさんの知恵袋」と言うべき卓越した記憶力を持ち合わせています。ドリトル家で飼われる以前はギリシャ語を専攻する大学教授やスウェーデン人の船乗りに飼われていました。それで、悪態を吐くときは人間にも動物にもわからないようにスウェーデン語を使う癖がありますが、機嫌が良い時は船歌を披露してくれます──こんな感じに。
I've seen the Black Sea and the Red Sea;
 I rounded the Isle of Wight;
I discovered the Yellow River,
 And the Orange too―by night.

Now Greenland drops behind again,
 And I sail the ocean Blue,
I'm tired of all these colors,
 Jane, So I'm coming back to you.

おれは黒海も見た 紅海も見た
 ワイト島もめぐってきた
黄河も見てきたし
 夜のオレンジ川も見てきたよ

グリーンランドが視界に消えて
 いま青海原にただよっている
色という色にも あき果てた
 ジェイン おれはもうおまえのところに帰るんだ

(訳・井伏鱒二)
 先のチャールズ2世の故事(岩波版の注釈で父王のチャールズ1世とするのは誤り)から逆算すると『アフリカゆき』の時代設定は1820年代後半から1830年代の前半、ジョージ4世(George IV, 在位:1820 - 1830)かその弟のウィリアム4世(William IV, 在位:1830 - 1837)の治世ということになるでしょうか。世界中に植民地を拡大して行った大英帝国の威容華やかなりしヴィクトリア女王(Queen Victoria, 在位:1837 - 1901)の治世、いわゆるヴィクトリア朝の前夜に当たる時代です。

 航海の途中は大きなトラブルも無くアフリカに近付きました──そう、近付きました。ところが、あと一漕ぎでアフリカに到着するという所で嵐に見舞われ、先生たちの乗った船は岩にぶち当たって座礁してしまいます。そして、命からがらアフリカ大陸に上陸した先生たちの前にこの一帯を統治するジョリギンキ王国の兵士が現れ、否応なく国王の前に連れ出されたのでした。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 05:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(4)──「いいとも、お嫁にゆきなさい」
 動物の言葉をマスターした世界でただ一人、そして最高の獣医師・ドリトル先生の評判は瞬く間にイギリス中、そして海を越えて世界中の動物たちに広まってゆきます。しかし、思わぬ理由でドリトル家は再び貧乏になり、妹のサラは怒りを爆発させてお嫁に行ってしまいます。
いいとも、お嫁にゆきなさい
「いいとも、お嫁にゆきなさい」
(『ドリトル先生アフリカゆき』の挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 獣医へ転職するに当たってオウムのポリネシアから動物の言葉を教わり、動物と自由に話せるようになったドリトル先生は老眼の馬にサングラスを作ってやったりして、その評判はペットや家畜を連れて来る人間以上にイギリス中、それどころか海の向こうの動物たちにまで広まりました。
 先生が特に可愛がっていた動物はポリネシアの他に雑種犬のジップ、アヒルのダブダブ、子豚のガブガブ、フクロウのトートー、そしてピアノを寝床にしている白ネズミでした。そんなある日、先生はイタリア人の手回しオルガン奏者がチンパンジーの首に縄を付けて連れ歩いている所に遭遇しました。チンパンジーがかわいそうになった先生はオルガン奏者から強引に1シリングでそのチンパンジーを買い取り、猿語で「元気」と言う意味のチーチーと名乗るそのチンパンジーもドリトル家で一緒に暮らすようになりました。
 それからしばらくして、今度は歯痛でサーカス団から逃げ出して来たワニがドリトル家に住み着くようになります。ワニはサーカス団へ戻るのを嫌がって暴れたので仕方なく先生が引き取ることになったのですが、そのせいでパドルビーの人々はワニを怖がってペットや家畜を連れて来なくなり、ドリトル家はまたもや貧乏になってしまいました。この事態に業を煮やした妹のサラはお兄さんに詰め寄ります。
「にいさん、あれをどこかへやってしまわなくちゃ、だめじゃありませんか。百姓やおばあさんたちが、こわがって、動物をつれてこないじゃありませんか。せっかくお金持になりかけたというのに……あんなきみのわるいものが、寝台の下にいるなんて。私は、あんなものを、家で飼うのは、いやなんです。」
 しかし、先生はサラに言います。
「……あれは、サーカスがきらいなのだし、さりとて、生まれ故郷のアフリカへ送り返してやる金は、わしにはない。べつに、ほかの者のじゃまもせんし……あんまり、さわぐでない。」
 サラは遂に怒りを爆発させ、
「でも、あんなものをおくのは、いやです!……にいさん、いますぐ、あれをどこかへやってしまわなければ、私は──私は、お嫁にいってしまいます。」
 サラの最後通告に先生は「やれやれ」と言った感じで、答えます。
「いいとも……お嫁にゆきなさい。それも、しかたがない。」
 こうして、サラはドリトル家を出てお嫁に行ってしまいました。
 サラが出て行ってドリトル家は先生ひとりになってしまいましたが、サラが家を出てしまったことに責任を感じた動物たちは相談してこれまでサラが仕切っていた家事を分担するようになります。チーチーは料理と裁縫を、ジップは尻尾に箒をくくり付けて掃除を、ダブダブははたきがけとベッドメイクを、トートーは家計簿の管理を、ガブガブは野菜の手入れを、そしてポリネシアは洗濯をすることに決めました。
 動物たちはみんなで知恵を出し合って貧乏暮らしを乗り切ろうとするのですが、やがてイギリスに厳しい冬の足音が聞こえて来ます。

 サラはシリーズ中に登場する先生と血縁関係に在るただ一人の家族ですが、正直に言って余り良い扱いを受けておらず、登場する度に怒ってばかりです。先生は結婚式に呼ばれなかったどころか便りも全くもらえないまま、幾度となく「かわいそうな、サラ! 今頃どうしておるのやら」と妹の身を案じることになります。やがて月日は流れ、この兄妹は思わぬ形で再開することになるのですが、その話はまた後日のお楽しみ。



 本文の引用は岩波少年文庫版(井伏鱒二訳)より。以後、特に断りの無い限り本文・固有名詞は岩波版に拠る。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 07:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(3)──ドリトル先生、動物語を習得する
 この物語の主人公、ジョン・ドリトル先生は特別な能力を持って生まれた訳ではありません。誰でも機会と学習意欲さえあれば、動物の言葉を自由に話せるようになるかも知れない。そんな期待を読者に抱かせる、物語の始まり。

ドリトル先生の家
パドルビーの外れ、オクスンソープ通りに面したドリトル先生の家
(『ドリトル先生アフリカゆき』の挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 ドリトル先生の家はイングランド西部の片田舎にある沼のほとりのパドルビー(Puddleby-on-the-Marsh)という小さな町の外れを通るオクスンソープ通り(Oxenthorpe street)に面した、先祖代々の広大な敷地にあります。このパドルビーという町はもちろん架空の町で、第3巻『ドリトル先生の郵便局』の記述ではスロップシャー州(Slopshire)に属するとされています。この州も架空の地名ですが、綴りの似たシュロップシャー(Shropshire)という州は実在します。オクスンソープはパドルビーの隣町で、その町に通じているのがオクスンソープ通りです。イラストの右下には「オクスンソープまで10マイル」、キロメートル換算だと約16キロという斜めに建った石の標識があり、この標識が通りの名称の由来になっているようです。

 ドリトル家は先祖代々のジェントリ(gentry)、つまり地主の家系です。ジェントリというのは公爵や伯爵などの爵位を持つ貴族ではありませんが、貴族の名代として土地を治める領主でした。16世紀頃から封建制が崩れ始めると貴族の監督下を離れて所有する土地を農民に賃貸し、その収入で生計を立てるようになります。だから、本来ならば収入は安定しているはずなのですがドリトル家の広大な敷地は農民に貸している気配が無く、当主のジョンが開業医として得る収入が主でした。ところが、ジョンは動物が大好きで庭に多くの動物を放し飼いにしているだけではなく家の中でも動物を飼うようになり、リウマチのおばあさんがハリネズミの上に腰かけてしまうなどひどい目に遭った町の人々は診療所に近寄らなくなってしまいます。患者が寄り付かなくなって家はすっかり貧乏になってしまったので、妹のサラはジョンにいつも文句を言いますがジョンは「動物の方が可愛い」と取り合いません。
 そんなある日、毎年クリスマスの時期に必ず調子が悪くなって薬を処方してもらう猫肉屋──精肉店で仕入れた屑肉を猫や犬の餌用に町を巡回して売る商売人が、先生に「人間の医者をやめて、獣医になったらどうだ」とアドバイスします。先生が飼っているオウムのポリネシアもこの案に賛成し、ジョンはポリネシアから動物の言葉を教わって自由に動物と会話ができるようになりました。こうして、獣医に転職したジョン・ドリトル先生の診療所には町の人々がペットや家畜を連れて来るようになり、ドリトル家は再び金回りが良くなったのでした。
| 84oca | ドリトル先生アフリカゆき | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生アフリカゆき』(2)──小さなドリトル先生
 1917年に西部戦線の塹壕から生まれ、2人の子供の為に創作された『ドリトル先生』の物語は、思わぬ転機を経て世界中に広まって行きます。

『ドリトル先生アフリカゆき』初版本の扉絵
ドリトル先生アフリカゆき』初版本の扉絵

 1918年、ヒューは炸裂した榴弾の破片が足に当たって重傷を負い、アイリッシュガーズ連隊を除隊されてイギリスへ送還されます。こうして、ニューヨークからロンドンへ妻子を呼び寄せて療養生活に入ったものの、1919年にはアイルランド独立戦争が勃発しました。
 グレートブリテン島の西側に在るアイルランド島は19世紀から20世紀初頭まで全島が連合王国、つまりイギリスの支配下にありました。アイルランド自治法の成立によって自治権の委譲が始まったものの、第一次世界大戦が始まったことを理由にイギリス政府が手続きを凍結したことに対して南部の多数派であるカトリック信徒を中心に不満が高まり、イギリスからの分離独立を主張する共和国派(ナショナリスト)が武装蜂起したのです。この戦争は1921年に英愛条約が締結されて休戦となり、国教会(アングリカン・チャーチ)やスコットランド系の長老派信徒が多いアイルランド島北部・アルスター地方の6州(いわゆる北アイルランド)がイギリスに残留して一応の決着を見たものの、現在もなお未解決のままとなっています。
 ヒューは独立戦争の戦火を逃れる為、フローラ夫人の薦めも有って再び家族全員でニューヨークへ戻ることを決めます。また、ヒュー自身は母親が南部・ダブリン出身のカトリック信徒ですが、イギリス国王の近衛兵として戦った自負が強いことも有ってか、共和国派に対しては冷ややかだったようです。

 1919年の秋、大西洋を横断するニューヨーク行きの船内でヒューはセシル・ロバーツ(Cecil Roberts, 1892 - 1976)と親しくなります。ロバーツはイングランド東部・ノッティンガムの出身で19歳の時に詩人として見出され、第一次世界大戦当時はイギリス海軍の特別通信員を務めた新進気鋭のジャーナリストでした。ロバーツはヒューが毎日、夕方6時に決まって船室へ戻ることに気付き「どこへ行かれるのですか?」と尋ねました。この問いに対してヒューは「ドリトル先生と会うんです」と答えました。「“ドリトル先生”と言うのは誰のことですか?」とロバーツが尋ねると、ヒューは「実は、私の息子のことでして」と言い、船室で父親の帰りを待っていた4歳の長男、コリン・マクマホン・ロフティング(Colin McMahon Lofting, 1915 - 1997)を紹介したのでした──コリンは父親が創作した物語の主人公がすっかり気に入って「ドリトル先生」を自称していたのです。
 ヒューは痩身で背が高く、自身の創作したドリトル先生とは似ても似つかないどころか至って対照的な外観でした。背が低く、肥満体で団子鼻が特徴のドリトル先生の外観はコリンがモデルだと言われています。

石蹴りをするヒューとコリン
石蹴りをするヒューとコリン
(ヒュー・ロフティング画、The Making of Doctor Dolittleより)

 そして、ロバーツは手書きで挿絵もヒュー自身が描いた私家版『ドリトル先生アフリカゆき』を見せられ、強い感銘を受けました──「この本を是非とも出版すべきだと思います」。そう言ってロバーツはヒューにニューヨークの出版社、F・A・ストークス社を紹介しました。1920年、ストークスが『ドリトル先生アフリカゆき』を刊行するとこの本はロバーツが予想した通りに、いや、それ以上に大きな反響を呼び起こし、新聞や雑誌の書評ではルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』やケネス・グレーアムの『たのしい川べ』、或いはウィリアム・メイクピース・サッカレイの『バラとゆびわ』と並び称せられるべき傑作だと、連日のように称賛されたのです。
 そして、イギリスに帰国したロバーツ自身も小説を書くようになり、1922年の小説デビュー作『はさみ Scissors』や1933年の『巡礼の小屋 Pilgrim Cottage』、1940年の『その後、浴槽に And so to Bath』などが代表作となっています。但し、戦前戦後を通じて日本語訳された小説作品は皆無で日本においてはジャーナリストとして多少、名前を知られている程度に留まっているようです。



The Story of Doctor Dolittle - 原文。

『ドリトル先生アフリカゆき』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生アフリカゆき』 ドリトル先生物語全集1こども図書館ドットコム
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解題『ドリトル先生アフリカゆき』(1)──戦場で生まれた物語
『ドリトル先生』シリーズの第1巻に当たる『ドリトル先生アフリカゆき』は1920年にアメリカ合衆国の出版社、F・A・ストークスから刊行されました。2年遅れて1922年にイギリスのジョナサン・ケープから、そして日本では1941年に白林少年館出版部から井伏鱒二の訳で刊行されたものが最初です。1951年以降は岩波少年文庫の1巻として刊行され、1961年には愛蔵版「ドリトル先生物語全集」の第1巻として現在も刊行が続けられています。

ストークス版の表紙
F・A・ストークス版(1920年)の表紙

ジョナサン・ケープ版の表紙
ジョナサン・ケープ版(1922年)の表紙


 物語の正式な表題は"The Story of Doctor Dolittle, being the history of his peculiar life at home and astonishing adventures in foreign parts"、直訳すれば「ドリトル博士の物語、彼の独特な家庭生活と異国での驚くべき冒険に満ちた半生について」と言ったところでしょうか。日本でこの物語を最初に訳した井伏鱒二は1978年の全集が改版された際の訳者あとがきで「どこのことを書いた物語かをだいたい示すため」に『ドリトル先生アフリカゆき』という邦題を付けたと述べており、後年に刊行された井伏訳以外の大半の日本語訳もこの慣例を踏襲しています。

 作者のヒュー・ロフティングは1886年1月14日にイングランドのバークシャー州で生まれました。五男一女の四男で上にはお兄さんが3人、下に弟が1人と末の妹がいました。幼少期から弟や妹に自分で創作したお話を聞かせるのが好きだったと言われています。
 8歳から18歳まで親元を離れてダービーシャー州の学校で寄宿生活を送った後に渡米し、マサチューセッツ工科大学へ入学しますが1年で中退してイギリスに帰国し、職業訓練校のロンドン・ポリテクニック(現在のウェストミンスター大学の前身校の一つ)への編入を経て土木技師になります。最初はカナダで金鉱の採掘と測量、その次に当時はイギリスの保護領だった西アフリカのナイジェリアやスペインから独立したばかりの新興国だったカリブ海の島国・キューバで鉄道建設に参加します。しかし、ナイジェリアやキューバでの生活は子供の頃から世界各地を自分の足で訪れ、実際に見て回りたいと思っていたヒューの理想とは遠くかけ離れたものでした。結局、ヒューはキューバでの仕事を終えると1912年にニューヨークへ渡り、フローラ・スモールと結婚してアメリカの永住権を申請します(アメリカの永住権を取得した後も生涯、イギリス国籍を持ち続けていました)。
 ヒューはニューヨークでイギリス情報省の駐在員を務める傍ら、雑誌に紀行文やコラム、短編小説の投稿を始めるようになります。最初の小説『排水溝と橋 Culverts and the Bridge』を書いたのもこの頃ですが、この短編小説は1931年に雑誌掲載の形で発表されたものの単行本化はされていないようです。1913年に長女のエリザベスが、1915年に長男のコリンが生まれた後、第一次世界大戦が勃発しヒューはイギリス陸軍の近衛部隊・アイリッシュガーズ連隊の志願兵として西部戦線に赴きました。このアイリッシュガーズ(Irish Guards)連隊は1900年、ヴィクトリア女王がボーア戦争でのアイルランド人兵士の活躍を讃えて創設した近衛連隊で、グレナディアガーズ、コールドストリームガーズ、スコッツガーズに続くもので、後にウェルシュガーズ連隊が創設されたので現在は5つある連隊の4番目に当たります。アイリッシュガーズ連隊にはアイルランド人やアイルランド系の血縁者がいる志願兵が配属されることになっており、ヒューはお母さんがアイルランド人だったので(母親をイングランド人とするブリッシェンの説は誤り)、この部隊に配属されたのです。日本で刊行された多くの解説では、岩波版はもとより直近の角川つばさ文庫でも"Irish Guards"を「アイルランド軍」と訳していますが、現在のアイルランド共和国の国防軍とは全く関係が無いので混同しないよう注意が必要です。

 1917年の西部戦線はイギリス・フランス・ベルギー、後にアメリカが加わる連合軍とドイツやオーストリア=ハンガリー、オスマン帝国からなる同盟軍が衝突する最前線でした。両軍ともフランス北部からベルギー南部のフランドル地方で一進一退を繰り返し、塹壕を掘って敵軍の銃弾をやり過ごす消耗戦を続けていましたがヒューがフランドルの前線に到着した頃は、ドイツ軍が1899年のハーグ陸戦条約で使用が禁止されていた毒ガス兵器をなりふり構わず投入してイギリス軍に多数の犠牲者が出るなど、連合軍側が劣勢を強いられていました。
 この西部戦線では戦車が初めて実用化されたことで知られていますが、まだまだ主戦力となるにはほど遠く、昔ながらの騎馬部隊が前線に配置されていた他、伝令にも馬が使役されていました。戦場で使役されていた動物は馬だけでなく、イギリス軍ではドイツ軍の毒ガス攻撃検知と伝染病を媒介するネズミを捕える二つの目的で、塹壕に猫を飼っていました。
「戦況が膠着し、食糧が不足し始めると猫は次第に元気を無くして痩せ衰え、遂には悟りの境地に達したかのような目つきになってしまった」と後年にヒューは回想しています。馬の境遇はなお悲惨なもので、軍隊には人間を診察する軍医はいても獣医はいません。だから、兵士が負傷した時は診察してもらえるのですが軍用馬が負傷した場合は診察など為されず、足手まといにならないようその場で銃殺されていたのです。ヒューはその光景に衝撃を受け、世の不条理を感じずにはいられませんでした──そして「馬の言葉、ひいてはあらゆる動物の言葉が自由に話せる腕利きの獣医がここにいれば、どんなに素晴らしいだろう」と閃いたのです。
 そこで、ヒューは塹壕の中でペンを執りニューヨークで父の帰りを待つ二人の子供に宛てた手紙に、イングランドの片田舎に住む動物の言葉が自由に話せる獣医・ドリトル先生(Doctor Dolittle)の物語を、挿絵も自分で描いて連日のように送り始めました。ヒューからエリザベスとコリンに宛てた手紙はニューヨークのロフティング家で丁寧に製本され、私家版『ドリトル先生アフリカゆき』が誕生したのです──ルイス・キャロルがアリス・リデルにプレゼントした『不思議の国のアリス』の原本『地下の国のアリス』のように。



The Story of Doctor Dolittle - 原文。

The Night We Talked to Santa Claus by Lynne Lofting - 長女のエリザベス(リン)が1960年に発表した、ヒューが西部戦線に従軍していた1917年のクリスマスの思い出に関するエッセイ。

『ドリトル先生アフリカゆき』についてもっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

『ドリトル先生アフリカゆき』 ドリトル先生物語全集1こども図書館ドットコム
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