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ある在野の文学研究者の行動記録。

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解題『ドリトル先生局』──『郵便局』と『サーカス』はどっちが先?
 シリーズ第3巻『ドリトル先生の郵便局』と第4巻『ドリトル先生のサーカス』は、どちらも第1巻『アフリカゆき』よりは後で、第2巻『航海記』よりも前と見る意見が多数を占めています。しかし『郵便局』と『サーカス』のどちらが先かについては意見が分かれており、明確な結論が出ていません。

「さて、どちらへ行くべきか」
「さて、どちらへ行くべきか」(『ドリトル先生のサーカス』挿絵、ヒュー・ロフティング画)

 本文に依拠する限り『郵便局』第4部6章で最高級の真珠を芽キャベツの弁償に充てて惜しげもなくリンカンシャーの農家へ送ってしまったドリトル先生を横目に、ダブダブが「また(『アフリカゆき』の終盤のように)オシツオサレツを連れてサーカスの旅に出なきゃならない」と愚痴をこぼしていたのが次巻『サーカス』への伏線と読めますし、その『サーカス』では水上郵便局や『北極マンスリー』の話題が出たり先生にスティヴン岬灯台の異変を知らせたカモメが再登場しているので、予断を持たずに読んだ場合は『郵便局』→『サーカス』の順と取るのが自然なように思えます。
 しかし『サーカス』の冒頭では「アフリカへ行く際に調達した船を壊してしまい、船乗りに弁償しなければならないのでサーカス団へ入ることにした」とか「帰りに接収した海賊船の倉庫に積まれていたイワシの缶詰が上等」だとか『アフリカゆき』の後半を思わせる描写が挿入されているので事はそう簡単ではありません。実際、岩波版で『アフリカゆき』の巻末に掲載されている各巻の紹介では『サーカス』を「『アフリカゆき』の直後」と明言しています。
 実は岩波版が『郵便局』から直に続いているとしか解釈し難い本編中の描写に触れず『サーカス』を『アフリカゆき』の直後としているのは商業上の理由があり、岩波少年文庫で訳出された順序は『サーカス』(1952年1月)の方が『郵便局』(1952年6月)よりも早かったのです。
 そうした日本での紹介に際しての事情はさておいても、結局のところ『郵便局』と『サーカス』のどちらが先か、と言うよりも『アフリカゆき』の直後か、と言う問題に対する明確な結論は今のところ出ていませんし、ファンの間でも「答えの出ない論争なので立ち入らないでおこう」と言う空気が長く存在していました。今年の3月に刊行された角川つばさ文庫の河合訳『サーカス』の訳者あとがきが結論こそ出していないものの、この問題に関する正面からの考察としては初めてのものとなっています。

 筆者は基本的に『郵便局』→『サーカス』の順だろう、と解釈していますが単純に『アフリカゆき』の直後が『郵便局』という訳ではなく、その間に全容が書かれなかったもう一つの航海が存在すると思っています。その航海の断片は『航海記』でスタビンズ少年との初対面や『郵便局』でファンティポ郵便局が切手発行に乗り出した直後、また第6巻『キャラバン』の終盤と第11巻『緑のカナリア』の冒頭に、その断片を見ることが出来ます。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 16:10 | comments(0) | trackbacks(1) |
テレビアニメ『ドリトル先生物語』のDVD-BOX発売
 今日発売されたテレビアニメ『ドリトル先生物語』のDVD-BOX紹介記事をAニュースに投稿しました。

日米合作のテレビアニメ『ドリトル先生物語』のDVD-BOX発売



 BOX以外に1〜4巻の分売・レンタルもあります。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 20:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──テレビアニメ「ドリトル先生航海記」
『ドリトル先生』は過去に何度か映像化されていますが、最初のテレビアニメは1970年にアメリカのDFEエンタープライズが制作した『ドリトル先生航海記』(原題「Doctor Dolittle」)です。製作・著作は20世紀フォックステレビジョン(20世紀フォックスグループは米国内での『ドリトル先生』シリーズの映像化権を保有しています)で、NBC系列で放送されました。日本では、1972年にNHK総合で放送されています。

 追って紹介する1967年の映画『ドリトル先生不思議な旅』と同様に20世紀フォックスが主導するメディアミックスの一環として製作されたこのアニメは、原作に対する風当たりが強まっていた時期と重なったこともあってか映画が興行的に失敗した中での放映となった事情を反映してか原作からはかなりアレンジされた内容となっています。ドリトル先生やスタビンズ少年のキャラクター造形も原作とは大きくかけ離れており、スマートでトレンチコートを着た先生はどこかアメリカナイズされた印象を受けます。
 内容は動物と話せる先生の能力を悪用してようと目論むスカービー海賊団との追いつ追われつの逃走劇が中心となっており、決め台詞の「我ら、スカービー海賊団!」はある年代より上の方だったら、覚えておいでかも知れません。

 本作は現在のところ、日本でもアメリカでもDVDなどは発売されていません。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 21:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──幻のパンフレット「ドリトル先生の出来るまで」
 1920年に刊行され、たちまち全米で話題作となった『ドリトル先生アフリカゆき』の反響を受けて、発行元のF・A・ストークスはロフティングに続編の執筆を依頼します。そうして1922年に刊行されたのがシリーズ第2巻の『ドリトル先生航海記』で、ストークスは『航海記』の発売前から大々的にPR活動を行っていました。
 現在では貴重な1922年の案内用パンフレット「ドリトル先生の出来るまで The Making of Doctor Dolittle」は発行から90年余を経た現在、インターネット上で無償公開されています。

「ドリトル先生の出来るまで」(1922年)表紙
「ドリトル先生の出来るまで」表紙(ヒュー・ロフティング画、1922年)


 このパンフレットで注目すべき点は、何と言っても作者であるヒュー・ロフティングの自画像が掲載されていることでしょう。表紙でポーズを取っている豚のガブガブをキャンバスに模写している人物はドリトル先生のように見えなくもありませんが、鼻はあの特徴的な団子鼻でなく尖っていて体格もどことなくスマートなので、ヒューの自画像に違いありません。

ヒュー・ロフティング近影
ヒュー・ロフティング近影


 2ページ目は新聞や雑誌に掲載された『アフリカゆき』の書評。3ページ目は出版社に寄せられた全米各地の読者からのファンレターが掲載されており、6ページ目に『航海記』のあらすじ紹介、7・8ページ目に再び『アフリカゆき』の書評が掲載されています。
 4ページ目にはヒューの経歴紹介と、ニューヨークから1921年頃に引っ越したコネチカット州マディソンに在った新居の様子が掲載されており、アイリッシュ・ウルフハウンドを1頭とカナリアを1世帯などドリトル先生には及ばないながらも、多数の動物を飼っていたことが記されています。5ページ目の自己紹介では「晴れた日は寝室よりも屋外で虫の声を聴きながら寝る方が落ち着く」と、非常にアウトドア志向だったことがうかがえます。

アウトドア志向
アウトドア志向(「ドリトル先生の出来るまで」掲載の
自己紹介より、ヒュー・ロフティング画)


 また、この自己紹介では後年にヒューの評伝を書いたブリッシェン、シュミットの両名がいずれも誤っていたロフティング家の出自に関するヒュー本人の貴重な言及があり「先祖は17世紀に宗教弾圧でアムステルダムを追放された」と述べています。もう少し具体的に言うと長年、カトリック国だったスペインの支配下に在ったネーデルラント、つまりオランダがスペインの支配を脱してネーデルラント連邦共和国として独立し、プロテスタントの一派であるカルヴァン派を国教に定めた際にそれまでの支配層だったカトリックを禁止したことを指しているのでしょう。もっとも、ロフティング家は先祖代々の敬虔なカトリック信徒だったという訳ではないようで、ヒューの祖父であるジョン・トーマスは国勢調査の記載によれば洗礼を受けた教会も妻のメアリー・アンと結婚式を挙げた教会も国教会(アングリカン・チャーチ)でした。しかし、メアリー・アンはアイルランド南部のティペラリー出身でカトリック信徒だったと見られ、ヒューの父である次男のジョン・ブライアンら子供たちは母親の意向でカトリックの洗礼を受けたようです。つまり、ヒューの血統はダブリン出身の純然たるアイルランド人である母・エリザベスと合わせてアイルランド系が4分の3を占めていたことになり、ブリッシェンとシュミットが(ブリッシェンが「母親はイングランド人」、シュミットが「ロフティングは母方の姓」としたのは完全な誤りであったにしても)ジョン・ブライアンの血統をアイルランド系としたのはこの祖母の存在が念頭に有ったのかも知れません。
 ところで、ヒューが言うところの「オランダを追放された先祖」の職業は機械工で、世界の工業史に残る発明をした人物なのですがその話は日を改めて書く予定です。

 次回より、再び『航海記』の解説を再開します。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 17:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──白林少年館の挑戦、そして挫折
 博文館『少年世界』に大槻憲二の訳で「ドーリットル博士の航海」が連載されてから13年後の1938(昭和13)年、五・一五事件に斃れた元内閣総理大臣・犬養毅(1855 - 1932)の邸宅に犬養道子(1921 - )の家庭教師として出入りしていた石井桃子(1907 - 2008)は、道子の母・仲子の薦めで毅の書斎を提供され遺品となった蔵書の整理に当たり、後にその書庫を改造して児童書専門の図書館・白林少年館を開館しました。白林少年館の開館に至る背景には、当時の日本において国是とされた軍国主義が児童書の分野にも影を落とし「愛国」「報恩」が強調される読み物一色になって行くことに息苦しさを感じた石井の「真に子供が読みたいものを提供する」強い信条があったことは現在でもよく知られています。開館から2年後の1940年には出版部を立ち上げ、最初に中野好夫(1903 - 1985)の訳でケネス・グレーアム(Kenneth Grahame, 1859 - 1932)の『たのしい川べ』(抄訳)が刊行され、その次のラインナップとして選ばれたのが『ドリトル先生アフリカゆき』でした。
 母親を亡くし、生まれ育った埼玉県北足立郡浦和町(現在のさいたま市)から東京府豊多摩郡井荻町(現在の東京都杉並区)へ転居した石井はアメリカ在住の友人から送ってもらった『The story of Doctor Dolittle』のあらすじを近所に住んでいた井伏鱒二(1898 -1993)に話して聞かせ、その話を気に入った井伏は白林少年館からこの物語を翻訳出版したいと言う石井の下役を持参しての希望を快諾します。そして、手始めに文藝春秋の雑誌『文學界』1940年12月号で冒頭部分をエッセイ「童話 ドリトル先生物語」として発表したのでした。このエッセイで井伏は主人公の名前「Dolittle」を日本語訳に当たって「ドリトル」とした経緯について、以下のように説明しています。
 この「ドリトル先生物語」は、外国の発音通りにいへばドウーリトル先生物語である。しかしドウーリトルという云ひまはしは、日本の子供には舌先に親しみがないだらうと思はれる。ヴエルレーヌをベルレン、ボードレールをボドレルと日本語で書けと云つた詩人もある。私はその説に七分通り賛成する。だからここでは仮りに「ドリトル先生物語」と読むことにする。
 現在に至るまでほとんどの日本語訳が井伏案の「ドリトル」表記を採用し、慣例としてすっかり定着してしまっていることを考えると井伏訳から遡ること15年前の大槻訳が「Dolittle」を「ドーリットル」としたのに対し井伏訳が「ドリトル」とした時点でこの訳の成功は半分、保障されていたと言えるかも知れません。
 こうして、1941(昭和16)年に白林少年館出版部より第1巻の最初の日本語訳『ドリトル先生「アフリカ行き」』が刊行されました。しかし、当の白林少年館は先の見えない日中戦争に加えてこの年の暮れに真珠湾攻撃が決行され、太平洋戦争に突入するなど戦況の激化を受けて閉鎖され、出版部も前述の2冊を最後に活動を停止せざるを得なくなってしまいました。しかし、1941年12月にフタバ書院成光館が『ドリトル先生アフリカ行』の出版を白林少年館より引き継ぎ、戦後は1947(昭和22年)に光文社より復刊されるなど(国立国会図書館・近代デジタルライブラリー)、戦時下にあっても子供の心を捉えて離さなかったのは物語が持つ強い力を実感させるに十分な出来事だったと言えると思います。

 そして、井伏は白林少年館の『アフリカ行き』の刊行を見届けた後に講談社『少年倶楽部』で第2巻を「ドリトル先生船の旅」の表題で連載することになったという所から『ドリトル先生航海記』の解説を始めたいと思います。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 13:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──忘れ去られた日本への最初の紹介
『ドリトル先生』シリーズの日本における最初の紹介は、多くの方が岩波版の巻末に書かれている「1940年に石井桃子がアメリカの友人から送ってもらった『ドリトル先生アフリカゆき』の原書を井伏鱒二に紹介し、井伏訳で白林少年館出版部から1941年に刊行された」のが嚆矢だと認識されていると思います。事実、石井・井伏の両名とも生前はそう認識していたようでした。
 ところが、実際は井伏訳の『アフリカゆき』が刊行される15年も前の1925(大正15/昭和元)年に第2巻『ドリトル先生航海記』は別の翻訳者の手で日本に紹介されていたのです──。

 現在は日記帳を主力商品とする博文館新社の前身企業・博文館は1923年の関東大震災で社屋を失ったダメージにより失速するまでは日本最大の出版社として出版業界の頂点に立っていました。この博文館が1895(明治28)年に巌谷小波を主筆に迎えて創刊した児童誌『少年世界』は幸田露伴、佐佐木信綱、田山花袋、徳田秋声、泉鏡花ら錚々たる執筆陣を迎え、創作童話や海外児童文学作品の紹介に大きな役割を果たして来た雑誌で、例えばルイス・キャロルの『アリス』も1899(明治32)年に第2作『鏡の国のアリス』が長谷川天渓(1876 - 1940)の訳により「鏡世界」の表題で本誌に連載されたのが日本における最初の紹介です。この連載では登場人物の名前が日本風にローカライズされ主人公のアリスは美代(美ィちゃん)、トゥイードルダムとトゥイードルディは「太郎吉と次郎吉」、ハンプティ・ダンプティは「権兵衛」と言う名前になっていました。
『ドリトル先生』の日本における最初の紹介はそれから四半世紀後の1925年、博文館がなお1年半前の関東大震災の痛手に苦しむ状況下において『少年世界』1月号から12月号まで雑誌連載という形で行われました。翻訳者は戦後に精神分析の第一人者と称された心理学者の大槻憲二(1891 - 1977)で、プロレタリア文学に批判的な立場から文芸評論を行っていた一環として1923年にアメリカで第2回ニューベリー賞を受賞した評判の児童文学作品である『航海記』の翻訳を行ったようです。連載時の表題は「ドーリットル博士の航海」。挿画はロフティングのオリジナルでなく、小笠原寛三が新規に描き起こしたものが使われています。

 この大槻訳は単行本化もされず、長く忘れ去られた状態となっていましたが2007年に大空社より刊行された『図説 児童文学翻訳大事典』第3巻で『アフリカゆき』の初訳である白林少年館版と共に連載の冒頭部分や挿画が紹介され、約80年ぶりに日の目を見ることになりました。
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 13:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
解題『ドリトル先生』──はじめに
 そんな訳で、ヒュー・ロフティングの代表作『ドリトル先生』全12巻+番外編1巻の各巻解説に入る前に、このシリーズ全般の特徴について解説します。



 シリーズ全般の大きな特徴は三点。

1. 主人公が特別な能力やアイテムを持っている訳ではない

 と書くと「あれ?」と違和感を抱く方もおられると思います。確かに主人公のドリトル先生は「動物(シリーズ後半には昆虫や植物とも)と話すことが出来る」と言う、一般人の尺度から見たら「特別な能力」を持っている訳ですが、それは生まれ持った才能ではなく飼っていたオウムのポリネシアから教わって習得したから話せるようになった、つまりは「誰でも意欲ないし機会さえ有れば動物の言葉を身に着けられる」と言う設定であり、ドリトル先生が“初めから”特別な能力を持っている訳ではないのです。実際に、2巻『航海記』から登場するスタビンズ少年もドリトル先生と同様にポリネシアから動物語を教わり、先生には及ばないながらも動物と会話することが可能になっています。強いて言えば、ドリトル先生には「比類無き学習意欲」と「人間にも動物にも貴賤の分け隔て無く接する心の広さ」が有ったからこそ他の人間には為し得なかった特別な能力が授けられた、とも言えるでしょう。そう言う意味で、魔法や超能力・超科学を前提にした世界観ではないので、ジャンル上は純然たるファンタジーではなく「ロー・ファンタジー」に分類されることが多いようです。
 そして、ロフティング自身が2人の子供の為に『アフリカゆき』を書いていた時期から明確に意識していた訳では無く、巻を重ねるごとに確信して行った節が見られるのですが、彼自身は神話・伝説上の“英雄”とされる人物像──その多くは、敵対勢力や自身が属する集団の脅威を力で排除して、その功績を以て祭り上げられることが多いのですが──に長年、疑問を抱いており逆にもっと“普通の人物”ないし、人知れず偉業を成し遂げるけれど決してそれを鼻にかけない人物像を理想としていたようです。こうしたロフティングの理想とする人物像について、初めて日本語で全巻を訳した井伏鱒二は「巷間の聖者」と評しています。

2. 「時系列シャッフル」を採り入れている

 本シリーズの各巻の配列は、必ずしも時系列順になっていません。第1巻『アフリカゆき』が最初で、第2巻『航海記』はその後の話ですが第3巻『郵便局』、第4巻『サーカス』、第6巻『キャラバン』、第11巻『緑のカナリア』、そして最終巻の短編集『楽しい家』の内3編は『航海記』でドリトル先生がスタビンズ少年と出会うよりも以前の話とされています。ただ、第3巻『郵便局』に関してはどの時期に置くか諸説が分かれており、一部には『航海記』よりも後ではないかとする説もあるようです。
 もっとも、最終巻『楽しい家』を別にすれば各巻とも一冊の中で複数人の視点を行ったり来たり時間を遡ったりすることは原則として無く(唯一の例外は第6巻『キャラバン』で、後に第11巻『緑のカナリア』において詳述される部分を書き手に委ねている箇所)、第10巻『秘密の湖』や第11巻『緑のカナリア』とも、過去の出来事を回想する際は語り手の口を通じて回想させると言う手法を貫いている点が特徴的です。
 そして、巻によりスタビンズ少年と出会う以前/以後のどちらかに分けて話を書いていることにより、時系列に縛られて巻数を重ねるごとに扱うテーマが制約されて行くジレンマを回避することに成功していると言えます。

3. 挿絵も作者本人が描いている

 これこそが『ドリトル先生』を語るうえで不可欠の魅力と言っても過言ではないでしょう。作者本人が挿絵を描いた作品と言えば、ジーン・ウェブスター(Jean Webster, 1876 - 1916)の『あしながおじさん』やアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry, 1900 - 1944)の『星の王子さま』も有名ですが、ロフティングの挿画は作者本人が挿絵を描いた児童文学作品では間違い無く五本の指に入ると確信します。
 1968年にロフティングの評伝を刊行したエドワード・ブリッシェン(Edward Blishen, 1920 - 1996)はそのタッチを「日本の版画」風、つまり浮世絵のようだと評しました。今ならば「漫画的」と言えるでしょうか。『アフリカゆき』など初期の作品はヒレア・ベロック『子供のための教訓詩集』で挿絵を描いた「B.T.B」の影響が見られ、線が固くややオカルト調に振れた感が有るのですが第3巻『郵便局』以降は、土木技師としての職歴を活かした正確な作図とスケッチ能力の高さに漫画的な人物像が混在する魅力的な画風を確立しており岩波版以外で読んだ人にも是非、岩波版か原書(一部の巻はプロジェクト・グーテンベルクにも収録されています)でロフティング本人が描いた挿絵を見ていただきたいと思います。特に『サーカス』から『キャラバン』にかけての挿絵が秀逸です。

 と言う訳で、明日以降は第1巻『アフリカゆき』から順に、時折『ドリトル先生』以外の作品を挟みながら個別の作品解説に入って行きます。



 もっと詳しく知りたい方には、以下のサイトも参考になります。

「ドリトル先生物語全集」と作者についてこども図書館ドットコム
| 84oca | ドリトル先生 (シリーズ全般) | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |


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